悪夢の風景

 こんな夢を見た。





 朝方バス停で、母とバスを待っている。私の背は低く、母は若い女性に見える。母を先頭にして、私は二番。私の後ろにも、バスを待つ人が並び始める。


 あぁ、そうか。仕事をしに海辺の工場へ向かうのか。


 幼い私は母に連れられ、海浜コンビナートにある大きな工場へ行くらしい。まだ太陽も低く、曇天の空は一向明るくなってくる気配もない。





「バスには乗れましたか?」

 おかしな質問だ。バスを待っていたんだから、乗れたに決まっている。

「思い出してみてください」

 ふと、乗ったような気もするし、乗れなかった気もする。……おや? あれ? 私はバスに乗れたっけ?

「続けて、話して聞かせてください」





 私は不良に絡まれた。後ろから舐めた口を利かれて、無視を決め込もうとも思ったが、母を守りたくて振り返ってしまった。





「振り返ったら、一人じゃなかった。この絶望がわかりますか? 先生」

 病院の診察室みたいな場所で、向かいには白衣の先生が座っている。

「不良は複数居たのですね。あなたはどうするつもりだったのですか?」

 どうするつもりって……母にまで汚い言葉遣いで喋りかけでもしたら……私は、防波堤になる気で居たんだ。

「先生だって私と同じか、退しりぞける方法を考えたはずです」

 先生は私の話を聞きながら、紙のカルテに書き込みを加えていく。今時、紙のカルテとは珍しい。ファイルにはNのインデックスが付けられている。

「続きをお願いします」

 先生には私の話が、『Nの話』と聞こえている訳だ。





 私は、不良から持ち金をせびられた。小銭まで取り上げられてはたまらない。バスは古い車体で、木の床は黒ずんでいる。座席は狭苦しく、運賃に必要な小銭はポケットの中に隠したまま、大切に持っていた。

 不良たちはいつまでもつきまとってくるので、私は一人で、途中だけどバスを降りた。私はもう何も持っていない。なのに追われる。どうにか奴らを巻いて、逃げおおせたい。





「幼いあなたを、何故執拗に追ってくるのでしょうね」

 知るかよ。逃げてる時も、全く同じことを考えていたさ。





 私は見つからないよう逃げた。子どもの身体だと、コンパスは小さいが、俊敏には動けるんだ。走り続けたってちょっと止まってゼーハーすれば、又直ぐ走り出せる。身軽なもんだから、雑草の生い茂る土手の急斜面も滑り降りれるし、普通なら入れないところへも忍び込める。


 私は電車のレールとレールの合間、中央分離帯みたいな草ボーボーの場所へ入り込んだ。

 おかしなもんさ。いちばん端っこのくさむら沿いだから、片側は本当にレールの直ぐそばなんだ。こんなとこ入り込んでいるのがバレたら、不良どころか、私の方がこっ酷い説教を喰らう羽目になる。





「先生、レールに雑草だらけの中央分離帯はないだろうって思った?」

「ないこともないでしょう」

「そうなんだ。あるんだよ」

 私は本当に子どもだった頃、乗り入れの多い駅で、レールとレールの小さな空き地に、柵を設けて山羊を飼っているのを見かけたことがある。

 その光景は、調べてもヒットする検索結果が出てこない。


 確かに見たはずなのに、今はまるで、夢の中で見た光景のようになってしまった。





 私はくさむら沿いに走って逃げた。

 きっと逃げきれる。見つかりさえしなければ。見つかったらお終いだ。奴らが入り込めないここは、逆に私も追い詰められたら行き場のない場所。

 恐ろしい轟音でレールを電車が通り過ぎて行く。ほら、車掌にも見つからない。大丈夫、ここは良い逃げ道だ。

 逃げてる最中、ずっと考えていた。捕まったら私の小銭を取り上げられる……これはそんな小さな話じゃない。私自身がどうにかされる。子どもをさらってお金にする、トンデモナイ連中が居る。

 ここら辺一帯は埋立地うめたてちで、砂浜は人工海岸だ。近くの港にはロシア船籍の船も来る。近隣のアパートなんかでは外置きの洗濯機の盗難があったなどと聞く。





「ロシア人が盗みを働くと?」

「ロシアの船と盗難に関連があるか、私は言及してませんよ」

 先生は笑った。





 私が選んだ逃走ルートは、正解のはずだった。でも…………





追手おってを巻けたのでは? それとも、見つかってしまった?」





 私が見た夢は、悪夢じゃないバージョンだった。何しろ助けが来たのだから。


 私は細長い、果てしないくさむらを進むしかなかった。気持ち身をかがめ、走り続ける。一帯ここには出口もなく、入り込んだところへ戻ることもできず、だんだん逃げるのが苦しくなってきていた。一瞬、一時ひとときくじけて立ち止まると、今度は空から物凄い音と強風が頭上を掠める、何か…………そう、小型のヘリが現れた。

 その救済のヘリコプターには、ヒーローよろしく窮地に颯爽と駆け付ける誰かが乗っていて、文字通り私に手を差し伸べ、この場から立ち去ることを可能にしてくれた。





「確かに。悪夢では、なくなりましたね」

「でしょう?」

 先生は気付かないみたいだ。

「……待ってください。助けが来ない悪夢も……見たことがあるのですか?」

「先生は……悪夢を見たことが、ありますか?」

「あると、思います」

 先生は、私を不思議そうに見ている。

「思い出せますか?」

 私は、先生に訊いてみた。

「高いところから落ちたり、動きがスローモーションになったり、汚いトイレの夢とか」

 トイレに行きたいのに、どこへ行っても汚いトイレしかない。私もよく見る。でも……

「私は、こんなのは初めてで」

 私は、先生に告げることにした。





「手を差し伸べたのは……先生じゃないですか」





 私は早く目を覚ましたいんだ。


【終】

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