【短編小説】
連休
セオリッツの泉
昔々あるところに、大きな森があった。
森には汲めども尽きせぬ泉があり、時々木こりや旅人が立ち寄っては、豊かな清水の恩恵を
泉には……大層美しい女神様が居て、時には人間が泉にうっかり落とした大切なものを拾い上げて、ちゃんと返してくれる。
「親切な女神様だね」
幼い少年は言った。
「正直者にはね」
少年の父親は答えた。
「父さんは何か落として、返してもらったこと、あるの?」
「俺は無いよ。だが」
少年は身を乗り出して、父親の話に集中した。母親が、夕飯のスープとパンを食卓に並べている。
「あなた、ルカス。食事の時間よ」
大皿には鹿肉の煮込みが盛られ、スープにも肉が入っている。仕掛け罠に獲物があった日の晩は、食卓が豪勢だ。
「いただきます」
「美味しそう」
「干し肉をつくったら、美味しいかしら?」
三人家族には大きな獲物で、肉の幾らかは、加工しても保存しても良さそうだ。目の前のご馳走に、三人はありついた。
「父さん、さっきの続きは?」
「あぁ」
「なぁに? 続きって。私も聴きたいわ」
家族の食卓には、穏やかな幸福も満ちている。父親はお祖父さんの、その又お祖父さんが泉に斧を落とした話を、二人にした。
或る日のこと。
ルカスは森へ入って、
森の中、太陽の光が地面まで届く場所を探して、随分と奥深くまで来てしまった。ルカスが歩いて行くと、どうだろう。
父さんの話してくれた泉かな……?
ルカスは、泉に何かを落としてみたいような気持ちになって、近付いた。
「こんにちは。君は誰?」
ルカスは驚いた。こんな森の奥深くに人が居るなんて。
「……ルカス」
声をかけてきたのは、泉の女神だった。ルカスより先にルカスを見つけて、久しぶりの来訪者に嬉しくなって現れたのだ。
「私はセオリッツ。ここに住んでいるものだよ」
ルカスはまじまじ見つめた。自分より背の高い、ここに住んでいると言うセオリッツを。
「ここ? 家も何もないけど」
セオリッツは、泉を指差した。泉だ。浮き島がある訳でも、ほとりに家があるでもない。
にこりとセオリッツが微笑んで、ルカスに手を差し伸べた。
「ルカス、私の家へいらっしゃい」
ルカスはセオリッツの手をとった。パシャリと泉の魚が跳ねたような、そんな音を聞いた気がする。…………違う。ルカスの手を握ったセオリッツが、泉へルカスを引き込んだのだ。
澄んだ泉の水は、底まで太陽の光が届いて、
「あれが私の家」
セオリッツは草原の彼方に見える屋敷を指し示したが、ルカスは見ていない。
(なんてことだろう…………空の、天辺が、
「僕は……泉に落ちたの? セオリッツ、早く岸に戻らないと」
ルカスは空を仰いで、うろうろと焦り回った。
「大丈夫だよ。昼間のうちに君を必ず帰してあげるから」
「……本当? 僕は帰れるの?」
「ちゃんと帰してあげる。だから今は、家につくまでこの手を離さないで」
ルカスは、セオリッツと繋いだ手を見た。
「……うん」
セオリッツの家はお屋敷だった。大きくて広くて、ルカスが見たこともない宝物がそこかしこに置かれていた。中でも大広間の扉の上に飾られた、金の斧と銀の斧は輝いている。
「セオリッツ…………僕、宮殿に来たみたい……凄」
「もう、手を離しても大丈夫」
ルカスは、ずっと握っていたセオリッツの手を離した。
「ごめん……なさい」
セオリッツは優しく笑っている。
「私の言うことを守ってくれて、ありがとう。ルカスはとても
(セオリッツは…………なんて綺麗なんだろう……)
ルカスは改めて、セオリッツを眺めていた。
(僕より背が高くて、おにいさん? おねえさん? どっちでもいいや。僕をこんな素晴らしいお屋敷に招いてくれて……)
「おいで、ルカス。私と遊ぼう」
「うん!」
ルカスは遊び疲れて眠ってしまった。セオリッツはルカスを抱き上げると、屋敷を出て草原を抜け、まだ明るいうちにルカスを泉の
ルカスは目を覚ますと泉の近くに居た。夢でも見ていたような感じ。背負い籠には乾いた枝がいっぱい。
「父さん、母さん! 見て。僕、
ルカスは父親にも母親にも、セオリッツのことを話さなかった。
(まるで夢みたいなんだもの)
でも……父親はまだ幼いルカスが、沢山の焚き木を拾ってきたことを、少し不思議に思っていた。母親はルカスのズボンのポケットに、水晶の
それからというもの、ルカスが焚き木拾いに森へ行くと、いつも焚き木は籠いっぱい。ルカスのポケットには、砂糖菓子やら季節外れの花びらが入っていたりする。
不思議と不安を募らせた両親は、或る晩、互いに相談して、森へ行くルカスの後をつけることに決めた。
父親は朝早く、仕事へ行く振りをして家を出ると、ルカスが出掛けるまで森に隠れていた。
今日は薄曇り。空は暗く、灰色の雲は厚い。森の中は陽射しもないのに、ルカスはどんどん奥へと歩いて行く。父親は奇妙に思いながらも、ルカスの行く先へついて行く。
泉のある場所へ出た。ルカスは泉へ向かって、呼びかけた。
「セオリッツ、来たよ」
父親は
「ルカス!」
「父さん?」
ルカスが振り向く前に、泉から誰かが現れた。
「ルカス、おいで」
セオリッツはルカスの手をとった。
「ルカス、行ってはいけない! ルカス!」
パシャン。
父親は泉へ駆け寄った。ルカスも誰かも居ない。誰も居ない。泉の
「ルカス! ルカス…………」
父親は膝から崩れて、泉の前に手をついた。茫然とし、嘆き、その場から動くこともできなくなってしまった。突っ伏して、地に額を擦りつけたまま。
それから、どれほど経った頃か、泉から誰かが現れた。
「顔を上げよ。何をそんなに嘆いておる」
父親は信じられない顔付きで、誰かを見た。誰かはセオリッツであり、泉の女神だった。
「俺の子を……返してください」
「そなたの子は、
「良い子のルカスを返してください」
小さな溜め息をついて、女神は良い子のルカスを父親へ返した。
「そなたの、良い子のルカスだ」
「ルカス! ルカス!」
「父さん……? どうしたの? まだ昼にもなっていないよ?」
ルカスの服も身体も濡れていない。ルカスが朝持って出た籠には、沢山の焚き木と、遠い季節の花が入っていた。
父親は帰り道、ルカスに言って聞かせた。
「あの泉には、二度と行かないでおくれ」
「はい、父さん」
良い子のルカスは返事をした。ルカスはそれきり、泉には二度と近付くこともしなかった。
泉の屋敷で、セオリッツは言った。
「ルカス、君の父さんは帰ったよ」
「そう」
「君を置いて帰ったんだよ? いいのかい?」
「いいさ! 知るもんか」
悪い子のルカスは答えた。
【終】
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