薬罐

@8163

第1話

 ある朝突然、湯を沸かそうと火にかけたステンレスのヤカンに、黒々と、あざやかに、薬罐と、太く漢字で印してあるのに気づいた。まるで黒いビニールテープを切って貼り付けたような感じで、光るステンレスの胴にデカデカと記してある。まさかと思って一旦、目を瞑り、見直すと、間違いなくある。まるで物の名前を忘れてしまったので、一つ一つの物に名前を記して覚えさせようと、誰かがしてくれたのかと思ったが、事故に遭って記憶を無くした覚えはなく、それにヤカン以外に名前なんぞ貼り付いては無い。

 「ピーッ」と、音がして湯が沸いた。注ぎ口の笛のついた蓋を開け、マグカップに湯を入れ、インスタントのコーヒーを淹れた。

 左手に、ヤカンは持ったまま右手でコップを持ち上げ、ひとくち、熱いのを用心しながら啜って、左手を上げてヤカンの底を覗き、回して反対側を確認する。

 反対側の胴にも薬罐とある。オールステンレスだが取っ手と蓋の真ん中のツマミには、黒いプラスチックが使ってあり、漢字は同質な気がして、象篏してあるのか? と、首を捻った。

 いつもなら、ステンレスの胴の部分には自分の顔と体が下膨れな姿となって映り、上の照明も横の椅子やテレビや玄関の方まで、凸面鏡の効果で歪んで映るのだが、黒い漢字に邪魔をされて字の隙間にモザイクのように覗いているだけだ。

 右手を伸ばし、コーヒーを流し台のステンレスの板の上に置き、指でヤカンをなぞってみる。まあ、触って段差の判るような象篏なんて無いだろうが、念のためだ。

 果たせるかな触感は何の変わりもない。同じステンレスだ。差異はない。

 印刷か? ホーローのように焼いている? そんな高価な物を買った覚えはない。ホームセンターで買った900円の安物の筈だ。本当は注ぎ口の細くて曲がっているホーローの、ドリップコーヒー専用のヤカンが欲しかったのだが、どうせドリップするのが面倒になり、インスタントになるのが目に見えていたので、本を読んだりテレビを観ていても、笛が鳴って沸いているのを知らせてくれるヤカンにしたのだ。

 テーブルの上のスマホが鳴って振動して、低音の蝉が鳴いているような、ジーとブーの中間のような音になって響く。

 彼女だ。

 「何してる?」聞かれた。

 「コーヒー飲んでる」

 答えた。薬罐のことは言わない。

 「今から行っていい?」

 こんな安アパートに頻繁に来て泊まって行く。何か食べ物を持って来てくれると嬉しいが、まあ、二人で買い出しに行くのも悪くない。などと考えていると、キッチンの窓の上のガラスの向こうの空に゙薬罐゙の文字が浮かんでいる。セスナか何かで、吹き流しのように引っ張っているのだろうか? 文字の左の方を目で追って見るが、隣の家の木々に遮られて分からない。

 以前、飛行船を見たことがある。日立かどこかの宣伝用の物だった覚えがあるが、陽は沈んだが、明るさが少し残る夕暮れの空に、ブーンと動力の音を響かせて、家の屋根の直ぐ上を通るような高さで飛んでいる。照明が船体を照らして色とりどりの文字を、鮮やかに空中に浮かび上がらせている。カクテル光線なのかどうか知らないが、灰色の空の中、この世の物では無いような美しさで、西の方へ飛んで行った。

 そんな幻のような経験があるので、薬罐ぐらいでは驚かない。たが、なぜヤカンなのか。しかも難しい漢字だ。何かのクイズか?


 スーパーの白い半透明のレジ袋からネギの緑の部分が食み出ている。豆腐と白滝、肝腎の牛肉はしゃぶしゃぶ用の薄い肉だ。テーブルの上に並べて白菜の1/4カットのビニールを剥がそうとしている由美の手を止め、強引に引き寄せて抱きしめた。

 好きな女を好きな時に抱きしめる。こんな経験も初めてだ。いくら好きでも、なかなか、同じ高まりの中で抱き合えない。ズレが生じ思いが空回りする。けれども由美は最初から心を開いていた。彼女の方からアプローチしてきたのだ。それも想像を超えた突飛な行動で、思わず「何すんだよう!」と、叫ぶ処だった。


 高校三年。後ろの掲示板に席替えのプリントが貼り出された。みんな半円形に群れて座席の確認に余念がない。『どうでも良いや』、と、思っていたが、『いや待てよ』、と、考え直し、窓際か廊下側か、とにかく端が良い、端になってないかと、一番後ろから首を伸ばして右、左と頭を動かせて覗いていると、背中に柔らかで、暖かい物が押しつけられた。振り向くと、由美が背伸びして、胸を肩甲骨の辺りに押しつけていた。

 「何するんだよぉ!」と、声を出しそうになったが、由美の見開いた瞳が真剣だったので、開きかけた口を噤んで、黙って自分の席に戻った。

 おかしい。どう考えてもおかしい。付き合っている彼氏は居た筈だ。アッ、そうか。一年上の先輩だったんで卒業して大学へ行ってしまったのか。それで鞍替え? 冗談じゃネエ!

 無視してやった。それで由美は東京の大学を受験し、受かって地元を去った。先輩を追いかけたみたいだ。

 ところが、一年もしないうちに戻って来た。大学も辞め、アパートも引き払って実家に住んでるらしいと聞いた。友人からの情報だが、その友人は由美から食事会に招待されているから、お前も来いと、いや、お前を連れて来いと由美から言われたと話したが、色々と考えて渋っていると、厳命され、断れないぞと、告白した。

 由美の実家は料理屋だと聞いていたが、母ひとり子ひとりの母子家庭だとも聞いていた。だから小さな、所謂、小料理屋だと想像していたのに、駐車場の付いた、二階建て入母屋造りの一軒家の店だった。

 入り口の脇には忘年会の鍋コースの宣伝で、旨そうな写真がプリントされた幟が旗めいていた。

 てっきり店内の座敷で食べると思っていたのに、二階の住居部分に案内され、「炬燵に入って寛いでね」と、言われ、「準備できる迄マージャンでもしたら?」と、炬燵の板をひっくり返し、緑色のフェルト面を出して牌を並べた。

 四人は遊び仲間でありマージャン仲間だ。ま、不良仲間みたいなものだが、実際には喧嘩もしないし悪さもしない。バイクも暴走に加わったりはしない。かと言って真面目な訳ではない。集まって勉強すると偽って離れを占拠し、マージャンするのが真面目な訳がない。ちょっとした反抗心だし、不良っぽくして女子にモテようとする下心もあるに違いない。気取って格好つけてるが、奇抜さを装い、他人と違う事が優れている事だと勘違いしている普通の人間だ。愚かだが、さして非難される事でもないだろう。この年頃の男は似たようなものさ。まさか、そんな事に由美は惹かれたりはしないのじゃないのか?

 由美の真意は解らないが、由美の行動はあざとくて明らかだ。自分の部屋に戻って着替えをし、ブルネットのカツラを着け、香水を薫らせて隣に座ったのだ。

 隣に50年代アメリカのコニー・フランシスが座っているみたいで、しかも肩を寄せて来る。心臓がドキドキして言葉が出ない。まともに横を向いて顔を見られない。でも、香りは容赦なく匂って来る。マージャン処ではない。女の匂いだ。


 簡単に籠絡されてしまって情けない奴だとお思いだろうが、考えてみてくれ、まともに女子と付き合った事など無いし、勿論、ステディな関係など夢のまた夢だったのだ。突然、背中に胸を押しつけられ、乳房の柔らかさと温かさを肌に感じさせられ、今また艶かしい匂いに包まれて隣に座って話をしている。これで冷静に振る舞えるだろうか?

 帰りには携帯の番号を交換し、翌日には待ち合わせてアパートに連れ込んだ。


 「すき焼き?」料理の事だ。

 「うん」由美が頷く。

 肉が余り好きではない由美が、無理して用意してくれたみたいだ。だから、しゃぶしゃぶ用の薄切り肉なんだ。

 料理屋の娘。インスタントラーメンに生卵。見ちゃ居られなくなったのだろう。色々と料理してくれる。手を深く回して、一瞬力を込めて抱きしめ、言葉の代わりに好きだと伝える。

 胸から下腹部までピッタリと触れあっていて、喋ると振動が伝わって此方の体も揺れる。呼吸も風船が膨らむように回した腕に伝わり、胸も腹も収縮するのが判る。笑ったりすると細かく震えるのに共鳴して、一緒になって此方の胸や腹も震えて響くようだ。

 首に回していた両腕を解き、由美が上半身を反らせて手を此方の胸に当てて押し返す。いや、力は入れてないので素振りだけで嫌がっているのだ。男の本能が寝覚めたのを感じたらしい。

 お姫様抱っこでベッドまで運び、前開きの厚いグレーのパーカーのジッパーを下ろすと、花柄のブラが現れ、寒いだろうにヒートテックの下着は着ていない。つまり、そう言う事だ。ブラを外して下を脱がそうとして両手でパンツに手を掛けたが、みるみる内に黒い物が浮かび上がって来て【薬罐】と、胸と腹に縦に描かれた。やはりビニール・テープみたいな艶があり、テープ状だと乳房の膨らみや鳩尾の窪みにフィットしないので、シート状の広い物をカットしたのじゃないかと想像して、暫く眺めていると、恥ずかしいのか由美が「嫌ッ」と、寝返りを打って、うつ伏せになってしまった。ところが、その背中にも真っ黒な物が浮かび上がって今度は、平仮名で【や・か・ん】と、描かれ、由美が少しでも動くと、肩甲骨や背骨の窪みの゙ひらかな゙も動いて、文字が歪み、゙ん゙の最後は臀部の丸みに沿って跳ね上がっていて、色っぽい。思わず指でなぞっていると、黒い文字が裂けて小さな人形みたいな物が出てきた。顔を近づけて見てみると、ドラクエのベビーサタンだ。小さな三叉矛を持って、次から次へと何匹も出てくる。それだけではない。別の文字からも同じように出てくる。それが全部此方に向かって来るので、待て待てと、両掌を広げてストップをしたが、三叉矛で突かれるのかチクチクと痛い。

 抵抗は無駄だった。ひとつの文字に50匹として100を超すベビーサタンが紐を掛け、まるでガリバー旅行紀みたいに、動けないようにされてしまった。

 うつ伏せだから息が出来ないと思ったら、サタンどもは髪の毛をドレッドヘアーのように撚って、それに紐を絡ませて固定させるのだが、頭頂部の髪の毛を首の辺り、下に引っ張ってから固定するから、額で押すような格好で、口と鼻に隙間が出来、かろうじて呼吸は確保した。

 紐と言うか、タコ糸のような紐で身体を固定すると、サタンどもは背中に登り、三叉矛でチクチクと背中を突き始めた。我慢出来ない痛さではないが、ある疑念が湧いて来た。入れ墨ではないのかと考え、その文字ば薬罐゙ではないのかと推理した。

 背中の痛さから文字を想定すると、漢字のヤカンではないようだ。子供の頃、人差し指で背中に文字を書いて当てるゲームをしたことがある。その経験から類推すると、平仮名の゙や・か・ん゙だ。

 お願いだ! どうせ入れ墨するなら、雄々しく、漢字で【薬罐】と、二文字で入れてくれ! ヤクザ映画のようにミエを切る時、二文字ならシャツを脱いでカッコ良く出来るが、平仮名3文字ではズボンを下げて尻を見せなきゃならなくなるだろう? マヌケだぁ!

泣けてくる。 終わり(お粗末さまでした)

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