お仕事 黒靴下裏返し並べ
林きつね
お仕事 黒靴下裏返し並べ
「ねえ、先輩」
「……」
「この仕事、なんの意味があるんですか?」
「……」
僕の当然の疑問に、先輩はなにも答えない。黙々と作業を続けながら、それでも話しかけた私に対して、先輩はただ一言「口より先に手を動かせ」と言った。
こんな仕事が私語厳禁だなんて、どう考えてもありえないとは思う。
けれど、先輩の言うとこだ。不用意に逆らうことはせず、僕はただ真っ黒の靴下を裏返してガードレールの下並べ続けた。
ノルマは5000足。それを終えたら給料を受け取れるというわけだ。
貯蓄が尽きようとしているので、割のいいバイトを探していた頃に、この仕事に出会った。
ただ、黙々と真っ黒の靴下を裏返し、並べるだけの仕事。
意味も意義もわからない。これでなぜ飲食店よりも多くのバイト代が貰えるのかもわからない。
気になるのは当然だろう。
教えて貰えないとなると、余計に気になる。
黙々と仏頂面で靴下を裏返し続ける先輩に、もう一度話しかけた。
「先輩、この仕事って」
「意味なんかねえよ。意味なんか、ねえよ」
その日、初めて先輩は手を止めた。
そして、苛立たしげに青い作業帽を脱いで、髪の薄い頭皮をなんどかガシガシと書いてまた作業帽を被った。
「お前、いくつだ」
「28ですけど……」
「俺の一回り下か」
「あ、先輩40なんですね」
つい口に出た。見た目からして、確実に50は過ぎていると思っていたからだ。
「大学は?」
「中卒っす」
「職歴は」
「バイトは何回かありますけど……就職はねえっす」
「一番長く続いたバイトでどんだけ続いた?」
「3日っす」
「生活費はどうしてんだ」
「親から貰ってますけど」
「普段何してる」
「パチン……ってなんなんすかさっきから?」
気がつけば、根掘り葉掘り自分の事情を聞き出されていた。正直あまり気分のいいものではなく、抗議する。
すると、先輩はポツリと言った「俺も似たようなもんだ」
そしてまた靴下を裏返し始めた。
それにならい、僕もまた靴下を裏返して並べ始める。
また無言の作業が続くのかと思ったが、手を動かしたまま先輩が重い声で言った。
「おれ達はな、底辺なんだよ」
「は?」
「おれ達みたいな、人間はな、底辺なんだよ。生きてたってなにも為さないし、なにも出来ない。というかしない。なんの価値もねえ人間なんだよ」
「どういうことっすか?」
苛立ち混じりにそう返答する。
バカにされているのかと思ったが、どうやら先輩自身も含めての物言いだったようで、しばらくそのまま聞くことにした。
「さっきも言っただろ。この仕事、なんの意味もないんだよ。おれ達みたいな意味の無い人間はな、こうやって、最終的には意味の無い仕事をさせられるんだ」
「させられるって……僕別に求人サイトから自分で応募してやってるんで、させられてるってわけじゃねえっすよ」
「まだわかんねえのかお前は」
そう言って、先輩は手際よく作業を続けている。僕が一足裏返す間に、先輩は三足の靴下を裏返している。
年季と技を感じた。
「まあ、俺もお前ぐらいの年だとわからなかったがな……お前が自分で選んでると思ってるこれは、もうお前が社会にとってなんの意味もないと判断されたから導かれたに過ぎないんだよ」
「え、ちょ、マジで何言ってんですか? 陰謀論ですか?」
「陰謀って言うか、社会のルールだな」
そう言って、先輩はまだ裏返し終わっていない僕の分の靴下を裏替えして並べ始めた。どうやら、自分のノルマは終わったらしい。
「意味のねえやつは、一生意味のねえことをやらされるんだ。誰に言われるまでもなく、さりとて自分の強い意志という訳でもなく、ただずうっとこの先も、こんな意味のねえことをやらされ続けるのさ」
「……」
なにを言えばいいかわからなくなってしまった。というかそもそも、なにを言われているのかがよく分からない。
わからないまま、靴下を裏返している。
見ると、先輩の手が止まっていた。先輩のノルマはもう終わっているのだから、それも問題ないのだろうが、少し気になって「先輩?」と声をかけた。
「ああ、いや、悪いな。なんというか、あれだ。理屈の話じゃないんだ。運命っていうのかな……ああ、余計わからなくなるか」
「はい」
「……そうだ、お前、この仕事辞めたいか?」
「いいえ」
否定の言葉は、滑るように出てきた。
かつてのバイトを思い出す。
あれはどこかの居酒屋だったか。入って初日でわかった。ここはいい所だと。
なんというか、他のバイトも店長も、心の底から和気あいあいとしていた。居心地が良かった。
実際にみんな良い奴で、仕事というものが悪くないと思ったのはあの時だけだった。だから、3日も働けた。
3日が限界だった。2日目からしんどかった。
けれど今回は初めて、続けられそうな気がする。苦の感情がまるでなかった。
見ると、先輩は声を上げて笑っていた。
「おれもそうだったよ。意味のねえやつは、意味のないことだけできるんだ」
「そういうもんなんすか?」
「そういうもんだよ。おれも26の時からこれをやってる」
「ベテランっすねえ」
「ベテランさ」
そうやってまた、二人で残りの靴下を裏返し続けた。
社会にとってあまりにも不必要なことを、社会にとってあまりにも必要な人間がやっている。
なんとそれで、お金が貰えて生活ができる。なんてことだろう。
なぜか胸が高まった。感動した。誰かと熱い話がしたくなった。
「先輩、今日飲みに行きましょうよ。僕、奢りますよ」
「おう、悪いな。ああ、でもちょっと遠いところじゃないと駄目なんだ」
「え、どうしてっすか?」
「この辺りの居酒屋だいたい出禁になってんだよおれ」
「ああ、僕もっす」
顔を見合わせて笑った。
強い風が吹いて、並べた靴下がガードレールから落ちて、そのまま汚い溝の中に落ちていった。
「あ、やべ。どうしましょうあれ」
「ん? ああ、ほっとけばいいよ。どうせなんの意味もねえからな」
「そっすよね」
そしてまた少し笑って、仕事に戻った。なんの意味もない仕事に。
黒い靴下を裏返して、カードレールの下に並べ続ける。
終わりが見えた頃に、ある一つの疑問が頭に浮かんだ。
分かりきってはいる。けれどどうしても気になって、その疑問を口にした。
「なんでこれ全部ハイソックスなんですか?」
「意味なんてねえよ」
先輩は答えた。
お仕事 黒靴下裏返し並べ 林きつね @kitanaimtona
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