第6話 交通事故

 1



 夏休みの期間に入った。

 1年1組の皆々は、期末テストの結果のことなど忘れ、高校生として遊ぶことに全力を尽くしている。


 そんな中で、俺は上毛中央高校に来ていた。

 とは言っても、テスト結果の悪さから補習を受けることになったわけではない。要件は、校門の前で待つことにあるのだ。

 暑く厳しい日差しから隠れるように、校門前の木陰で立っていると、遠くの方から人影が近づいてきた。


「伊崎くん、おはようございます」

「おはよう、前橋」


 俺は前橋まえはし琴音ことねを待っていたのだ。

 前橋は、肩を出した水色のオフショルダーと白色のショートパンツを見事に着こなしていた。どこかの雑誌の表紙に載っていてもおかしくはないだろう。

 俺はと言うと、白色のTシャツに黒色のパンツと、実にありきたりな服装だ。前橋の隣を歩くとなると少し恥ずかしく感じてしまう。


「それでは、行きますか」

「案内、よろしく頼むな」

「はい」


 学校近くのバス停からバスに乗り、数分揺られる。高崎の市街地を通り過ぎたところでバスを降りる。


 俺は前橋の後ろについていくようにして歩く。すると、風になびく綺麗な髪の毛と、それによってチラチラと見える真っ白な肌に目が行ってしまう。特に、惜しげもなく出している肩が俺の視線を釘付けにしてしまう。


 前橋の後ろ姿に夢中になっていると、前橋が話しかけてきた。


「暑いですね」

「夏だからな」


 周りではセミが休む間もなくミンミンと鳴いている。嫌でも暑さを感じてしまう。


「伊崎くん。夏がなぜ暑いのか、推理してみませんか?」

「そんなものは地理学者とか、気候学者に考えてもらえ」

「ふふっ。ところで、伊崎くん。期末テストはどうでしたか?」


 うっ、辛い記憶が蘇ってくる。夏休み以前のことはあまり思い出させて欲しくないのだが。


「まぁ、ほとんどが平均点より少し上ってぐらいかな。数学だけは赤点ギリギリだったけど。前橋は?」

「私ですか? 私は……そこそこです」

「そこそこってどんなぐらいだ? 順位で言うと?」

「……学年で5位です」

「何がそこそこだよっ!? めちゃくちゃ上位じゃないかっ!」

「言いたくなかったから、『そこそこ』と言ったんです!」


 前橋が少し腹を立ててしまったのが後ろから見ても分かった。やはり人気者は学力も一般人とは違うらしい。

 すると、前橋が突然後ろを向いた。


「でも、私、意外に感じました。伊崎くんって、頭が良い人だと思っていました」

「なんで俺を頭良いと思ったんだ?」

「いつも、名推理をしてくれるじゃないですか」

「推理ができることと、頭が良いことは別物なんだ」


 自分で言っていて悲しくなってくる。

 とは言え、学年トップの前橋と比べてしまったらこうなるのは当然なのだが。


「そういえば、りっちゃんは頭が良いんですか?」


 前橋の言う「りっちゃん」とは、俺の幼馴染みである太田おおた理央りおのことだ。理央とは長い付き合いなので、大抵のことは知っている。


「理央はバカだぞ。俺よりもバカだ。期末テストでも、ほとんどの教科で赤点取ってたからな」 


 理央とは、夏休みに入る前日にラインを通じてお互いの期末テストの点数を見せあっていた。その際、理央の結果の酷さには絶句してしまった。


「まぁ、その代わり、バレーに関しては天才級の腕前らしいけどな」


 これはあくまで話としてしか聞いたことがないのだが、理央は本当にバレーが上手いらしい。

 とは言え、何度か理央のバレーをする姿を見たことがあっても、素人の俺ではよくわからなかったのだが。


「あっ、その話はクラスの友達からも聞きました。何でも、先輩が打ってきたどんなコースのどんなに速い球でも、上げることができるらしいです。本当に凄いですよね!」


 幼馴染みが褒められると、なんとなく嬉しくなってしまう。

 しばらく歩いていると、大きな橋の前まで来た。前橋は橋に対して垂直に走る川を指して話しだした。


「私の家族は、この川の上空で上がる花火を、毎年必ず見ているんです」

「夏祭りの?」

「はい。よりよい場所で見るために、毎年お金を払って、有料の区域の中でも最も花火に近い位置にレジャーシートを敷いて、そこで見るんです」

「へぇ〜〜、凄いな。俺は夏祭りの花火なんて、人混みの中からたまたま見えたものを見る程度にしか見てこなかったから、なかなか想像できないな」

「とっても綺麗ですよ。我が家では家族水入らずの、最も重要で最も大切な家族行事です」


 そんなことを話していると、橋を渡り終えていた。


「さぁ、あともう少しです」


 前橋の言葉を信じ、前橋の後ろをついて行く。それからほんの数分して目的地にたどり着いた。


「どうぞ、気にせずに入ってください」


 ゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりと玄関に入る。


「お、おじゃまします」


 そう。俺は今日、前橋の家に来たのだった。


「ここが私の部屋です。どうぞ入ってください」


 女子の部屋に入るのはこれが初めてだ。


 いや。正確に言えば、理央の部屋には入ったことが何度もある。ただ、理央は俺にとって「女子」という認識はないので、実質、これが初めてだ。

 しかも、クラスで1番人気の前橋の部屋だ。なんとなく変に意識してしまう。


 部屋を見た第1印象は「綺麗」だった。ゴミが一切散らかっておらず、ある程度の物が整頓されていた。家具は白色で統一されていて、可愛らしいデザインのぬいぐるみが2つほど、棚の上に置かれていた。


「では、ここに座って待っててください。私はお茶を持ってきます」


 前橋は部屋の中央にある小さなテーブルの前に座るように言った。


 緊張しながら、ぎこちなく座る。そして、部屋を出ていく前橋の姿を目で追いながら、ふぅと息を吐く。

 座った俺は、改めて部屋全体をぐるりと見回した。


 白色で統一された部屋は、どことなく前橋らしさを感じられる。何と言うか、優等生らしさがにじみ出ているのだ。

 そして、部屋に入ったときには気づかなかったが、前橋の部屋は僅かながらにいい匂いが漂っていた。心が自然と安らいでいくような匂いだ。


 しばらく経って、コップにお茶を淹れた前橋が戻って来た。俺と会い向かいになる位置に座り、俺の顔を見ている。


「それでは、始めましょう」

「あぁ、そうだな」


 俺が返事をすると同時に、前橋はローテーブルの上に1冊の本を置いた。

 この本が俺が今日、前橋の家に来た本当の目的なのだ。その目的とは何か。それを説明するには、数日前の委員会集会まで遡る必要がある。



 2



 数日前の放課後。正確に言うならば夏休みに入るちょうど2日前に、全学年の図書委員が図書室に集められた。そして、図書委員一同の前に立った司書の先生は、こう言い放った。


「さて。皆さんには夏休み中に、オススメの本の紹介ポスターを作ってもらいます」


 これを聞いた図書委員一同はザワザワと小さな声で文句を言い始めた。

 とは言え、司書の先生に対して、直接抗議の声を挙げることができる人は1人としていなかった。


「では、ポスターについての説明を始めます。

 ポスターの内容は、皆さんの好きな本のあらすじ、オススメの理由、皆さんの好きな場面とその理由についてを書いてもらおうと考えています。ポスターのサイズはA4サイズです。そして、皆さんの負担を減らすために、各クラス図書委員2人で1つのポスターを作ってもらいます。

 これで説明は以上です。何か質問はありますか?」


 誰も手を挙げることは無かった。それを確認した司書の先生は嬉しそうに微笑みながら、ゆっくりと頭を下げた。


「では皆さん。よろしくおねがいします」


 図書委員一同が解散する中、俺と前橋は図書室に残っていた。その理由は、このポスター製作の打ち合わせをするためだ。


「伊崎くん、どうしますか?」


 隣に座っていた前橋が、俺の肩をトントンと指で叩きながら話しかけてきた。


「できれば早めに済ませたいな。夏休みの後半は祭りとか友達と遊ぶ予定を入れているんだ」

「私もです。では、できる限り早めに、夏休みに入った最初の1週間で終わらせましょう。

 伊崎くんは暇な日がありますか?」


 俺は部活に入部しておらず、何かしらのバイトを入れているわけでもない。そして残念なことに、彼女がいるわけでもない。

 つまり、スッカラカンなのだ。


「俺はいつでも大丈夫。前橋は?」

「私もいつでも大丈夫です。では、最初の金曜日にしましょう」

「分かった。場所はどうする? どこかのファストフード店にするか?」


 俺の提案に前橋は首を横に振った。


「お店の方の迷惑になってしまうと思います。できれば、他の人の邪魔にならない場所のほうが良いかと」

「なるほどな。なら、他の人の邪魔にならない良い場所をどこか知っているか?」


 前橋は少し悩んでいた。しかし、しばらくすると、何かを思いついたようでぱっと顔を明るくした。


「それならば、私の家はどうですか?」


 こうして、現在に至るわけだ。



 3



 前橋はテーブルに置いた本をじっと眺めている。そして、顔を上げて俺の方を見た。


「伊崎くん。どうやって書き進めますか?」

「どうやって、とはどういう意味だ?」


「どのように分担作業をするかです。司書の先生は、好きな本のあらすじ、オススメの理由、好きな場面とその理由についてと、計3つを書くように言っていました。しかし、3つだと分担する際に、どちらか1人の作業が多くなってしまいます」


 確かにその通りだ。では、どのようにこの問題を解決すべきだろうか。そう考えた瞬間、俺は真っ先に1つの案を思いついた。


「よし。ジャンケンにしよう」

「ジャンケンですか?」

「そうだ。ジャンケンに負けたほうが2つ、勝ったほうが1つ。これだったら完全な運勝負だから問題ないだろ?」


 我ながら完璧な案だ。


「伊崎くん。私は女子ですよ? 私が男子であれば、そんなことはさせずに自ら2つ書きますよ? それとも、女子の部屋に入っておきながら、女子に苦労させるつもりですか?」


 想像以上の反論が来た。

 しかも、反論の中に「女子の部屋」という言葉を入れてきている。恐らく、前橋は司書の先生からポスター製作の話を聞いた瞬間から、俺に2つ書かせようと思っていたのだろう。

 その証明に、前橋は嬉しそうに微笑みながら、俺の目を見つめてきている。やはり前橋は小悪魔だ。


 俺は困り顔をしながらも、どうにか反論する。


「まぁ、それはそうだな。でも、俺は前橋より遥かに頭が悪いし、多分、こういうポスター製作も時間がかかる。ここは平等にジャンケンで良いんじゃないか?」


 前橋はしばらく黙っていた。さながら、次の一手を考える棋士のようだ。すると、何か良い一手をひらめいたようで、顔をぱっと上げた。


「では、こんな取引はどうでしょうか?」

「取引?」

「はい。私がポスターの内容3つすべてを書いてあげます」

「本当か!?」


 俺は思わずテーブルの上に乗り出していた。すると、前橋が俺に顔を近づけながら話を続けた。


「ただし、伊崎くんは私が最近体験したとあることを推理してください。どうですか?」


 何と言うことだろうか。前橋は俺が気づかぬ間に王手をかけていたのだ。流石は学年5位の頭脳だ。

 というわけで、俺に残された選択肢は1つしか無かった。


「……分かった。推理をしよう。それで、俺はどんなことを推理すれば良いんだ?」

「私が昨日、体験したことについてです」


 前橋はA4の紙に定規と鉛筆で、紙がちょうど4等分できるように十字に線を引きながら、話を始めた。


「昨日の午前10時頃の話です。私はコンビニでアイスを買おうと出かけていました。すると、私の目の前で交通事故が起きたんです」

「交通事故? 目の前って、前橋は怪我しなかったのか?」

「それは大丈夫です。巻き込まれるほどの距離ではなかったので。でも、心配してくれてありがとうございます」


 前橋は俺に向かって頭を下げ感謝を伝えていた。

 顔を上げると、手に持っていた定規と鉛筆を、先程書いていた十字の、俺から見て右端と上端に置いた。


「その事故は、このような十字路で起こりました。

 事故を起こした車は、至って普通の自家用車です。この定規と鉛筆をその車だと思っていてください。この2台は、ちょうど十字路の中心まで来た瞬間にぶつかってしまったんです。

 伊崎くんにはこの車2台がぶつかってしまった理由を推理してもらいたいです」


 2台の車がぶつかってしまった理由か。単純に考えるとしたら、十字路でお互いが見えずにぶつかってしまった、が妥当だろう。

 しかし、前橋が推理してほしいと言うのだから、こんなに簡単なわけがない。


「その事故は、他の一般的な事故とは何が違うんだ?」

「実はですね、その十字路というのが、田んぼ道にある十字路なんです!」

「……」

「あれ?」


 前橋は、俺に何かしらのリアクションを求めていたようだ。

 しかし、俺は前橋の話のどの部分に驚く要素があるのか分からなかった。


「ん? どういうことだ?」

「えっと、つまりですね。事故を起こした車の周りに視界を遮るような壁が一切なく、お互いの車が見える状態でぶつかってしまったんです」

「そういうことか」

「説明不足でした」


 なるほど。つまり前橋は、事故が起こるはずもないのに、なぜ事故が起きたのかと、俺に聞きたいのか。

 となると、まずはその時の詳しい状況についてを知らなければならないな。


「それじゃあ質問。その時、車の速さはどれくらいだった?」

「詳しくは分かりませんが、どちらの車もそれほど速くはなかった印象です」


 つまり、速度の出し過ぎでぶつかったわけではない。となると、考えるべきは運転手の視界だろうか。


「その田んぼ道の周辺に、何か目立つような物。例えば、お店の看板とか、不気味なカカシとか、そういった物はなかったか?」


 前橋は書き始めていた文章を書くのを1度止めて、上を向いた。恐らく、その時の状況を思い出しているのだろう。


「そうですね……、特に目立つような物は何もなかったと思います。周りにあるものは田んぼだけです」


 そう言って、前橋は再び書き始めた。見てみると、前橋はすでにあらすじを書き終えている。前橋にポスター製作の全てを任せるのは正解だったのかもしれない。


 しかし田んぼだけか。

 何か答えに近づける手がかりはないのだろうか。


「その他に、目立ったことはなかったか? 音だったり、光だったり、地面の傾きだったり」

「いえ。特にはありませんでした。何もないからこそ、伊崎くんに推理して欲しいと思ったんです」


 何もないのか。これは困った。

 今までであれば何かしらの手がかりがあったから推理することができたが、これほど手がかりがないと推理のしょうがない。


「前橋。申し訳ないけど窓を開けてもいいか? どうにも考えが思い浮かばないから外の空気を吸って頭をスッキリさせたい」

「いいですよ」


 前橋からの許可を得ると、俺は立ち上がって窓を開けた。そして、外の風景を眺めながら深呼吸をする。


 外には、数分前に渡ってきた大きな橋と、その下を流れる川が見える。


「良い眺めだな」

「そうですか? 生まれた頃からこの景色を見ているので、良い景色とはあまり思っていませんでした」

「そうか。でもこれなら、夏祭りの花火もここから見えそうだけどな」

「確かに見ることはできます。でも、家族全員で見ようと思うと、この窓の縁が邪魔になってしまって、花火全体が見えないんです」

「なるほどな」


 前橋の家では、夏祭りの花火を見ることは俺の想像以上に大切なことらしい。


「伊崎くん。何か良い考えは浮かびましたか?」

「……」


 返事に困っていると、ガチャリと部屋のドアが開いた。そして、1人のショートヘアの女性が入ってきた。


「あっ、君が噂の伊崎くんね〜〜! 話は琴音から聞いてるわよ。 いつも琴音と仲良くしてくれてありがとね~〜」

「え? あっ、えっと」


 この女性は誰だろうか。

 見たところ、30代前半ほどでかなり元気が良さそうだ。姉にしては年が随分と離れている気がするが。前橋とどういった関係だろうか。


「ちょっ、ちょっとお母さん! 勝手に入って来ないでください!」

「ん?」

「あっ、どうも。琴音の母です」


 前橋のお母さん若っ!

 

 前橋はクラスの誰もが認める美人だが、その遺伝子は完全に母親譲りらしい。


「ど、どうも。伊崎涼太です。お邪魔してます」


 頭を下げて挨拶をする。

 俺を見た前橋のお母さんは嬉しそうに微笑んでいる。


「うんうん。どんどんお邪魔しちゃって。琴音も喜ぶから」

「ちょっ、ちょっとお母さん! 変なことを言わないでください」


 前橋は顔を赤くして焦っていた。

 こんな前橋の姿を見るのは初めてだ。


「なにーー、琴音。もしかして、恥ずかしいのぉ?」


「そ、そんなことはありません! それより、お母さんはなぜ部屋に来たんですか?」


 前橋がかなり強引に話を逸らした。そのせいか、かなり息が荒れている。

 前橋のお母さんは可笑しそうに笑いながら、前橋の慌てようを見ている。なんとも楽しげだ。


「実はね、お菓子を持ってきてあげたの。この前、お兄ちゃんが買ってきてくれたやつ。ほら、琴音、覚えてるでしょ?」


 そう言いながら、前橋のお母さんはお菓子をテーブルの上に置いた。商品名には、ハッキリと「東京土産」と書かれているので、東京で買ってきたのだろう。


 ひとまず、俺は前橋のお母さんに向けて頭を下げておく。


「ありがとうございます」

「ううん、全然いいのよ。ほら、遠慮せずにどんどん食べて」

「はい。いただきます」


 俺と前橋は同時にお菓子を1つずつ手に取って、包装を開けた。中には一口サイズのクッキーが入っていた。口に入れてみると、口全体に砂糖の甘さが広がった。


「美味しいですね」

「そう? なら良かった。琴音も美味しい?」

「はい、とても美味しいです。でも、こんな美味しい物をお兄ちゃんが買ってくるなんて、信じられません」


 前橋は食べた中身がなくなったお菓子の包装を不思議そうに見つめている。どういう意味なのだろうか。


「信じられない? それはなんでだ?」

「実は、私のお兄ちゃんは買い物のセンスがないんです。今までに、こんな美味しい物を買ってきていた覚えはありません」


 買い物にセンスの有無があるとは知らなかった。しかし、前橋が「センスがない」と言い切るのだから、過去に相当な物を買ってきたのだろう。


「へぇーー、そうなのか。って言うか、前橋ってお兄さんがいたんだな」

「はい。6歳上です」


 そんな会話をしていると、前橋のお母さんが俺の方に近寄ってきた。


「なにーー。伊崎くんは琴音からお兄ちゃんの話も聞いてなかったの? 琴音。伊崎くん優しそうな良い子なんだから、もっと高校生らしい青春をしなさいよ」

「お、お母さん。変なことを言わないでください」

「だって、琴音が全然青春してないんだもん。伊崎くん知ってる? 琴音って、今の今まで1回も彼氏がいたことないのよ」

「う、うるさいですよ。私はただ、そういったことに興味がなかっただけです」

 

 前橋はそっぽを向いてしまった。明らかに動揺している。

 しかし、前橋に彼氏が1度もいなかったことは驚きだ。この容姿があれば、最低でも3人は彼氏がいたとしてもおかしくはないはずなのに。


「だから、自分の家に男の子を呼ぶなんてこれが初めてなのよ」


 え? つまり、俺が初めてということなのか。


「これが本当の青春よね。

 私も若い頃の青春を思い出すわ。曲がり角でちょうどイケメンとぶつかるように歩く速度を合わせてみたり、イケメンの前にわざと消しゴムを落としてみたり。

 あの頃が懐かしいわ」


 前橋のお母さんはうんうんと頷きながら、昔を振り返っていた。

 正直、青春を勘違いしているのではないかと思うのだが。


 すると、前橋が素早く立ち上がり、お母さんの横についた。


「そんなことはどうでもいいんです。早く私の部屋から出ていってください」


 そう言って、前橋はお母さんの背中をグイグイと押して、部屋から出て行かせようとする。


「えぇ〜〜。私はもっと伊崎くんと話していたい〜〜」

「伊崎くんに迷惑です!」


 そう強く言って、前橋は力強く部屋のドアを閉めた。そして、はぁと深いため息をつくと、俺に深々と頭を下げた。


「迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」

「いやいや、別に大丈夫だ。それにしても、前橋のお母さんって元気が良いな」


 なんだか、部屋の真ん中を台風が通り過ぎていったような気分だった。


「ごめんなさい」


 前橋は今だに頭を下げている。

 どうやら、前橋はお母さんに相当苦労しているらしい。


 頭を下げるのをやめた前橋は、再び座り、ポスターの制作を再開した。

 前橋のお母さんがいなくなった部屋は、放課後の図書室のように静かだ。この静かな空気感が、俺の心をいつも通りに落ち着かせてくれる。


 俺はゆっくりと深呼吸をしつつ、改めて車の事故の理由についてを考え始める。


 もし俺が運転手だったなら、どのような状況でぶつかるだろうか。

 前橋の話を聞く限りだと、お互いの車の姿は見えていたように思える。ならば、運転手は一体どのように運転していたのだろうか。


 飲酒運転、よそ見運転、スマホをいじりながらの運転……。どれも、可能性としては、なくはない。しかし、事故を起こした2台の車の運転手が、2人ともそのような運転をしている可能性は低い。


 ならば、後は想像で推理するしかない。


 目の前の窓を運転席からの視界として考える事にする。すると、前橋の母親のとある言葉がふと頭をよぎった。


「そうか!」

「っ! 突然どうしたんですか?」


 突然大声を出したせいで、前橋を驚かせてしまった。


「ごめんごめん。今、あの事故が起きた理由の推理ができたんだ」

「本当ですか?」

「あぁ」


 俺が返事をすると、前橋は動かしていた右手を止めて、ペンをテーブルの上に置いた。そして、サッサッと座り直して、俺の顔を真っ直ぐ見た。


「それでは、説明をお願いします」


 呼吸を整えてから説明を始める。


「あの事故は、お互いの姿が見えなかったから起こったんだ」


 前橋は、俺の言葉を理解できていないような、ポカーンとした顔をしている。


「え? ちょっと待ってください。あの時、視界を遮るような障害物はありませんでしたよ?」

「それは、前橋の視点から見た時は、ってことだろ?」

「私の視点から見た時は? ということは、あの2台の車の運転手には、視界を遮るような障害物があったんですか?」


 さすが、前橋は察しが良い。俺は首を縦に振って肯定する。


「運転席から正面を見ると、フロントガラスの両端に柱があるだろ? あれを『ピラー』って言うんだが、そのピラーがあることによって運転手が見ることができない死角が生まれるんだ」

「死角ですか」


 そう言いながら、前橋は自身の腕を自身の顔の前に立てた。おそらく、腕でピラーを再現して、実際にはどのように死角が生まれるのかと確かめているのだろう。


 すると、前橋が首を傾げた。


「伊崎くん、質問をしても良いですか?」


「良いぞ」


「あの、確かに死角でお互いの姿が見えなくなることはあると思います。ですが、お互いが動いていれば、多少なりとも死角からずれて、姿が見えるのではないでしょうか?」


 前橋は中々に鋭い。確かに、お互いが動いていれば死角からずれることは十分にある。


 当然のことながら、俺も同じ考えに至った。しかし、前橋のお母さんの「曲がり角でイケメンにぶつかろうとする話」を聞いて、その謎が解けたのだ。


「もちろんその通りだ。でも、お互いが全く同じ速度を出していれば、話は別だ」

「全く同じ速度ですか? でも、お互いの速度が全く一緒になることは、中々難しいのではないでしょうか?」

「それがそんなに難しくないんだ。道路には必ず制限速度がある。2人の運転手はその制限速度ギリギリを守って走っていたんだ。制限速度を守り、全く同じ速度で走ることになった結果、お互いの姿が死角に入って見えなくなったんだ」


 俺の説明に前橋は、なるほどと頷いていた。その様子を見た俺は、説明を終えることにした。


「これが、俺の推理だ」


 俺はふぅと息を吐き、心を落ち着かせる。

 前橋はというと、疑問がスッキリしたという快感に浸って、晴れやかな笑顔をしていた。


「伊崎くん。ありがとうございました。これで、何も気にすることなく、スピーディーにポスターを制作できそうです」


 そう感謝を言って、前橋は作業を再開した。そして、それからわずか数分後に、宣言通り、スピーディーにポスターを完成させたのだった。



 4



 ポスターが完成したことを確認した俺は、手荷物を全て持って、玄関へと向かった。すると、前橋が玄関まで見送ると、後ろからついてきた。


「ポスター、全部作ってくれてありがとな」


 俺は玄関で靴を履きながら感謝を言った。


「いえいえ。むしろ、あの交通事故の謎を解いてくれてありがとうございます」


 前橋も嬉しそうに感謝を伝えてきた。


 前橋の感謝の言葉を聞き終えると、玄関のドアを開けて、1歩外に出る。そして、別れのあいさつを言おうとした。すると


「あの、ちょっと待ってください」


と、前橋に呼び止められた。


「なんだ?」


 振り向くと、前橋は真っ直ぐに俺の顔を見ていた。しかし、手先などはモジモジと、何やら恥ずかしそうに動かしている。

 どんな用事だろうと思っていると、前橋は声を絞り出すようにして話し出した。


「あの、伊崎くん。……私と一緒に夏祭りの花火を見ませんか?」

「え? 花火って、前橋の家は家族全員で見るんじゃないのか?」

「その、今年はお兄ちゃんが花火が上がる時間に用事があり、来ることができなくて、家族全員で見ることはやめることになっていたんです。なので、良ければ、普段から仲良くしてもらっている、伊崎くんを誘おうと思っているのですが……」


 ……なぜだろう。外から聞こえていた車の音やセミの鳴く声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。それとは逆に、普段は聞こえない自分の心臓の音がハッキリと聞こえてきている。

 

 時間が進む速度が遅くなっている気がする。それなのに、心は異常なほど焦っている。


 答えに困っているのだ。


 でも、本当は困る必要など一切ないのだ。なぜなら、前橋の言葉に対する答えは1つなのだから。ただ単に、その1つの答えを言うこと自体が、これほどまでに、俺に困惑を与えているのだ。


 声に出るかもわからないまま、口をどうにか動かした。


「わかった。花火を見に行こう」


 俺の返事に、前橋はホッとしたようだった。そして、それからすぐに優しさの溢れた笑顔を俺に見せてくれた。

 気がつくと、時間の進む速度は元通りになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る