第2話 傷
1
桜の花びらが舞い尽きて、緑色の生き生きとした葉が目立ち始めた。
1年1組の教室には、ある程度のグループが形成され、それぞれが自分たちのグループの会話を楽しむようになった。俺こと、
しかし、
「それでは、また」
そう笑顔で言い残して、彼女は自身の席に綺麗な姿勢で戻っていく。その美しく可憐な姿に、クラスの誰もが心を奪われていた。
「俺、前橋さんと付き合いたい」
「俺も」
「私も」
前橋は今日も男女問わずの人気者だった。
しかし、図書室に入ると前橋は一気にその可憐さを捨て去った。
「はぁ、疲れましたぁ」
パイプ椅子に深く座ると、カウンターに体を完全に預けて、ダラーっとした姿を俺に見せていた。クラスにいた時の彼女からは、到底想像できない姿だ。
「お疲れ様。まぁ、ここで休憩しておけ」
「はい、そうするつもりです」
前橋は人気者として生活するのにまだ慣れていないらしい。
前橋は、まるでアイスクリームが溶けていくように顔をふにゃふにゃと歪ませた。見た目を気をすることなく完全にリラックスをしている。
俺は正直、前橋がこの様にしていて大丈夫なのかと不安になってしまう。とはいえ、普通の女子高生ならば、これぐらいのことは当たり前のことだ。せめてこの図書室だけは、彼女をありのままの姿でいさせてあげようと、俺は心に誓った。
俺は前橋のリラックスした姿を眺めながら、本棚の方へと向かう。すると、ギィという金属音と共に前橋が立ち上がった。そして、スタスタと俺の背後に近づいてきた。
「伊崎くんは読書が好きなんですか?」
「うーーん、まぁ、そうかな。とは言っても、そんなに読む方じゃないけどな」
「具体的には?」
「うーーん、大体2週間に1冊ペースかな。暇な時間に少しずつ読む感じ。前橋は?」
「私は、友達に勧められたら読む程度です。なので、月に1冊を読むか読まないかが多いですね」
前橋と比べると、俺は本を読むことが多い人の部類に入るらしい。
とはいえ、最近の高校生には、そもそも読書をする習慣がない人もいる。つまり、少しでも読書をしている前橋も、読むことが多い人の部類に入るのかもしれない。
俺は本棚に並べられた沢山の本を眺めながら、面白そうな本を探した。
「伊崎くん。1つ教えてもらってもいいですか?」
「おう、なんだ?」
「あの、本って、どういったものを読むのが良いんでしょうか?」
どういったものを読むのが良い? 質問の意味があまりよくわからない。
「それって、俺のオススメの本を教えればいいってこと?」
俺の質問に前橋は首を横に振った。
「いえ、そうではなくて。えっとですね、私のような、あまり読書をしない人は、どういった基準で読む本を選べば良いのかということです」
少しややこしいが、何となくわかった気がした。
「つまり、読書初心者はどんなジャンルの本を読むのがオススメかを知りたいわけか?」
「そうですっ!」
前橋は嬉しそうにうんうんと頷いる。まるで、純粋無垢な小学生のようだ。
質問の仕方といい、反応の仕方といい、前橋は少しおバカ路線の人のように見える。しかし、学校の試験ではトップクラスの成績を誇っているので、人は見かけによらないと改めて思う。
そんな感想を持ちながら、前橋からの質問への回答を考える。
「うーーん、男子だったらラノベとかが読みやすいかな」
「すみません。『らのべ』とはなんのことでしょうか?」
「『ライトノベル』の略。よく本屋でキャラクターが表紙に描かれている文庫本サイズのがあるだろ? あれがラノベっていう物」
俺の説明を聞いた前橋は、何故か耳を赤くした。そして、俺と目を合わせない様にしながら、申し訳なさそうに小声で話し出した。
「あのエッチなやつですか?」
「ち、違うぞ! あれは確かに偏見を持たれるような題名と表紙のものが多いけど、内容自体はそういうエッチなものじゃないからな」
「そうなんですか。今まで勘違いしていました」
「物を見かけで判断するのは良くないぞ」
「そうですね」
とはいえ、俺も女子であれば同じような勘違いをしてしまうかもしれない。
なにせ、ラノベの表紙の女性キャラクターは、衣服の布の面積が少なすぎる。そんな絵を見せられて「えっちなものと言うな!」と、強くは言えないだろう。
「女子だったら、やっぱり恋愛ものがいいと思うな。あとは、映画化された小説とか」
「なるほど。確かに映画化されたものは読みやすそうですね。では、伊崎くんはどのようなものを読むんですか?」
「俺? 俺は話題作とか、あとは推理小説かな」
「なるほど! だから私が図書委員になった理由がわかったんですね!」
「いや、推理小説を読んでるからって、推理ができるようになるわけではないだろっ!」
「ふふっ、そうですね」
前橋はおかしそうに笑った。
笑い終えると、息を整えて目の前の本棚に置かれていた、先日、映画化された本を手に取った。
「では、私はこれを読んでみることにします」
前橋は右手に本を持って、カウンターの方に歩いていった。その足取りはとても軽く、今にも飛び立ちそうなほどだ。読書にこれほどの興味を持ってくれるのはとても嬉しい。
「俺もそろそろ読む本を決めるかな」
俺は手に届く距離に並べられていた推理小説を1冊手に取ってカウンターに向かった。
カウンターの中に入ると、前橋の座っている左隣にあるパイプ椅子に座った。本を開いて読書を始める。
数ページ読んだ後、俺はふと前橋の方を見てみた。
前橋は静かにページをめくっていた。前橋はクラスのマドンナ的存在とも言えるほどの美しい容姿を持っている。そのため、ただページをめくるだけでも、ドラマのワンシーンのように見えてしまう。
ふと、自分が前橋に見惚れていることに気づいた。前橋に吸い寄せられる視線を慌てて本に戻し、再び読み始める。
しかし、しばらくすると頭の中で先ほどの前橋の姿がよぎってしまう。そして、もう1度前橋の方を見たくなってしまった。
バレないようにそっと目を横に向ける。しかし困ったことに、今度は前橋と目が合ってしまった。
「どうかしましたか?」
当然のことながら、前橋は俺の行動を不思議そうに見ていた。
「い、いや別に。カウンターに置かれている物を見ていただけだ」
「そう、ですか」
前橋は返事をしながら、カウンターの方に目を向け始めた。上手く誤魔化せたのならばいいのだが。
「確かに目を引かれるものが多いですね」
そう言うと、前橋は徐ろにパイプ椅子から立ち上がった。そして、カウンターの上に置かれている引き出し付きの木製の箱に手を伸ばした。
前橋はその中から何枚かの紙のようなものを取り出し、しばらくの間それを真剣な眼差しで見ていた。それからしばらくすると、サッと俺の方に紙のようなものを渡してきた。
「伊崎くん。見てください!」
手渡されたものは何枚かの猫の写真だった。白色の毛の綺麗な毛並みの猫だ。
「おぉ、可愛いな!」
「可愛いですね!」
前橋はニコニコと満面の笑みを見せている。猫が好きなのだろうか。この笑顔は教室では中々見られない。
「伊崎くんは犬派ですか? それとも猫派ですか?」
定番中の定番の質問が来た。もちろん、俺の答えは1つに決まっている。
「俺は猫派かな。まぁ、もちろんどっちも好きだけどな」
「私も猫派です。やっぱり、猫って可愛いですよね」
「そうだな」
今までで1番深く前橋と分かり合えた気がする。
「この写真って、司書の先生の私物ですかね?」
「多分、そうだと思うぞ」
「それでは、傷をつけないようにしないとですね」
前橋はそう言いながら、丁寧に引き出しの中に写真を戻した。その様子を見ていた俺は、木箱の横に置いてあるプラスチック製の容器に目がいった。
「前橋、その木箱の横にある容器はなんだ?」
「はい? あっ、これですか?」
前橋はその容器を持って、俺に手渡してきた。
俺は「ありがとう」と言いながら、容器の外見と中身を確認する。容器には掠れた文字で「忘れ物入れ」と書かれていた。
「なるほど。忘れ物入れか」
容器の中には鉛筆や消しゴムなどの文房具、何かの鍵や本の栞、さらには彫刻刀なども入っている。
図書室になぜ彫刻刀を持ってくるんだとツッコミたくなるが、今は心の中で収めておく。
俺は前橋に容器を渡して元の場所に戻しておいてもらった。
もう気になる物はないなと思い、俺は自分の手に持っている本に視線を落とした。しかし、読み始めてすぐに肩をトントンと叩かれた。
「ん? どうした?」
「ここを見てください」
前橋はカウンターの一部を指差している。そこに何かあるのだろうか。
見てみると、そこには数十本も縦、横、斜めに乱雑につけられた傷があった。指摘されなければそこまで気になるような傷ではない。
「この傷がどうかしたのか?」
「このカウンター、それなりに新しい物ですよね?」
俺はすぐにカウンターの全体を見て確認する。カウンターは全体的に綺麗で、確かに前橋の言う通りそれなりに新しい物だと推測できる。
「まぁ、そうだな」
「では、なぜこの部分にだけ、これほどの傷ができているのでしょうか?」
前橋は俺の目に向かって問いかけていた。これはどういうことだろうか。
「伊崎くん。推理してみませんか?」
……また推理をするのか。
「前橋。今のうちに言っておくけど、俺は推理小説が好きなだけだからな。それに、この前に前橋が図書委員になった理由を当てたのもたまたまだからな」
「はい、分かってます。でも、伊崎くんに推理してもらいたいんです」
前橋は子犬のような目で俺を見つめてきた。視線を逸らそうとしても、前橋はそれを許そうとしない。
「……はぁ、それじゃあ、間違った推理だとしても文句は言わないでくれよ?」
「はい、もちろんです!」
前橋は頷きながら、嬉しそうに微笑んでいた。
俺は意外と犬派なのかもしれない。
2
俺は早速カウンターにできている傷を調べ始めた。まずは近くからよく見て、手がかりとなるようなものがないかを探す。
カウンター自体は木製だ。ただし、表面は艶々としていて、傷がつかないように加工がされている。おそらく、図工の時間などで使ったニスというものが塗られているのだろう。
傷は縦横約10cm、縦、横、斜めに乱雑につけられている。何かしらの法則性があるようには見えない。場所はちょうど本の貸し借りを行うような位置。人の目につきやすい位置と言えるかもしれない。
「伊崎くん。これは人為的な物だと思いますか? それとも、たまたま自然にできたものだと思いますか?」
「俺の直感だと、人為的の方だと思う」
「何故ですか?」
俺はカウンターを指差しながら説明を始める。
「このカウンターの表面がヒントだ。これは傷がつかないようにニスで加工されている。つまり、何か物が当たって、たまたま傷がついたことは考えられない。それに、もし物が当たっただけで傷がつくようなら、この部分以外にも沢山の傷があるはずだ」
俺の説明に前橋はふんふんと頷いた。
「なるほど。では、一体どうやって傷をつけたのでしょう?」
「それは簡単だ」
「分かったんですか?」
「あぁ。この図書室にある物で、傷が付かないように加工されているカウンターに、あれ程の傷をつけられる物は1つしかない。彫刻刀だ」
「彫刻刀…… あっ、忘れ物入れにあった物ですか?」
俺は頷いて軽く肯定しておく。
「絶対に彫刻刀だと言える根拠はないけど、多分そうだと思う。他にカウンターに傷をつけられる物が思いつかないからな」
これはあくまで消去法であり、推理としてはあまり良くないのかもしれない。ただ、俺の目的は「完璧な推理をすること」ではない。「前橋を納得させる推理をすること」だ。
前橋が納得してさえくれれば消去法でも問題ない。
「確かにそうですね。では、犯人はなぜこのカウンターに傷をつけたのでしょうか?」
「……わからないな。犯人の動機を調べるにしては、あまりに手がかりが少な過ぎる」
再び傷を確認する。しかし、傷は傷である。何度見ても手がかりとなりそうな特徴は見当たらない。
すると、前橋が傷を細い指でザラザラと触り始めた。そして、目を瞑ってムッと口を閉じている。どうやら、自分の指先に神経を集中させているようだ。
しばらくして、前橋は「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
「伊崎くん。この傷には、深いものと浅いものの2種類があります」
「つまり、傷のつけ方に何かしらの違いがあるってことか?」
「そうだと思います」
これは、犯人の動機を調べる手がかりになるかもしれない。
「深い方の傷と浅い方の傷で何か違いはあるか?」
「えっと……」
前橋は引き続きザラザラと触りながら、今度は目も使って違いを探す。
「あっ、ハートマークがありました!」
前橋の声が普段より高くなっている。
女子という生き物は、可愛い物が好きと言うが、それは前橋も例外ではないらしい。
「ハートマーク?」
「はい! 深い方の傷が、ハートマークになってます!」
ハートマーク。なんとなく想像できた。つまり、これはいわゆる恋愛に関連することだ。
「前橋」
「はい。なんでしょうか?」
「もし前橋がこのカウンターにハートマークの傷をつけようと思ったら、他に何かつけようと思うものがあるか?」
前橋は天井を見ながら「うーーん」と言っている。そして、はっとした顔で俺の方を見た。
「あっ、名前を書きます。男女2人の」
前橋は察しがいい。
「俺もそう思った。俺の推理だと、おそらくこの傷は、男女のカップルによってつけられたものだ。理由はよくある思い出作りだと思う。何と言っても図書委員は暇だからな。暇つぶしで掘ったんだろう。
そのハートマーク以外の深い方の傷の部分が名前になっているはずだ。そして、周りの浅い方の傷は簡単だ。その文字を恥ずかしく思って、隠したかったからつけたんだ」
木を隠すなら森の中。傷を隠すなら傷の中だ。
「なるほど……」
俺の言葉を聞いた前橋は、すぐに深い傷の部分を確認し始めた。そして、ポケットから取り出した小さな手帳に文字を書いている。
「多分ですけど、キリュウ、トミオカと彫られていると思います」
前橋は手帳に書いた文字を俺に見せた。
せっかくなので、その2人が本当にいるのかを確認してみることにした。図書室のパソコンを使えば、全校生徒の名前を容易に調べることができるのだ。
幸いなことに、この上毛中央高校に桐生と富岡という名前の生徒は1人ずつしかいなかった。表示されたのは、現在の2人のクラスと学年だ。桐生は現在3年生の男子生徒、富岡は現在2年生の女子生徒だった。
「先輩と後輩の年の差カップルですか。とっても素敵ですね!」
前橋は嬉しそうに微笑んでいる。恋愛は人気者の前橋にとっても、嬉しい話らしい。
「そうだな。まぁ、でもこれで傷の推理は終わりだ」
「はい。伊崎くんお疲れ様でした」
前橋は俺に向かって微笑みながら頭を下げた。
俺は小さく息を吐くと、図書室の壁に掛けられている時計を見て時刻を確認した。
時刻は図書委員の仕事を始めてからちょうど1時間だ。つまり、今日の仕事は終わりということだ。
「よし、それじゃあ帰ろう」
「そうですね」
俺と前橋は一緒に図書室から出た。
「それにしても、よくあの複雑な傷から、あそこまでの推理ができましたね。伊崎くんには驚かされてばかりです」
廊下を歩きながら、前橋が突然、感想を言い出した。
「まぁ、今日の推理ができたのは、前橋のおかげだと思うけどな」
「私ですか?」
「あぁ。あの複雑な傷に深い傷と浅い傷があるのを見つけられなかったら、とても推理できなかった」
「そうですか。それなら、私も少しは推理の役に立てたんですね。それにしても、あんな風に思い出を残すなんて素敵ですよね」
「そうだな」
前橋と話しながら、俺の頭の片隅には不思議な違和感が生まれた。
「それでは、伊崎くん。さようなら」
「あぁ、じゃあな」
俺はその違和感を隠すように作り笑いをして前橋と別れた。
1人になると、すぐに落ち着いて違和感の原因を探そうとした。しかし、違和感の原因がすぐに姿を表すことはなかった。
3
前橋と共に推理した傷には、まだ推理しきれていない部分がある。その違和感に気づいた俺であったが、違和感の原因を見つけられずにいた。
自宅に帰宅すると、すぐに自分の部屋からとある人物に電話をかけた。
「もしもし。俺だけど、今大丈夫か?」
「なにそれ? 新手のオレオレ詐欺?」
返ってきたのは、少し疲れをまとった女子の声だった。
俺は、はぁとため息を吐きながら言い直した。
「もしもし。伊崎涼太だけど、今大丈夫か?」
「あーー、いっくんか」
「最初から分かってただろ!」
「えへへへ」
俺のことを「いっくん」と呼び、俺のツッコミを可笑しそうに笑うのは、幼稚園からの幼馴染である
「それで、今は大丈夫か?」
「うん。ついさっき部活終わって、今帰ってる途中」
上毛中央高校の女子バレーボール部は、例年大会で上位に入るほどのレベルらしい。そのため、練習時間がとても長く、日が落ちてからの帰宅がほとんどらしい。
理央の声の疲れ具合から察するに、今日もそれなりのハードな練習をしたのだろう。俺は少しの申し訳なさを覚えた。
「それで、どんな用事?」
「理央。お前って彼氏いたことあったっけ?」
「いっくん。もしかして、私と付き合いたいの? ごめんね。いっくんの顔って私のタイプじゃないの」
「そんなことは言ってない」
「えへへへ」
理央とは長い付き合いなので、こういった冗談を言うことができる。クラスの女子が相手であれば、決してこんな会話はできないだろう。
「そんなことより、お前は彼氏いたことあったのか? なかったのか?」
「んーー、あると言ったら嘘になるかな」
「何だその回りくどい言い方」
「だ、だって、言うの恥ずかしいし」
「要するに、なかったってことか?」
「う、うん……」
理央が恥ずかしがっているのが電話越しにでも分かった。
「それじゃあ、この話はしなくていいかな。わざわざ電話して悪かった。じゃあな」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
俺が通話終了ボタンを押そうとしたところで止められた。
「ん? なに?」
「いっくんは何でそんな質問を私にしたの? 何かあったの?」
「……いや、特には」
「何その間。絶対何かあるでしょ。ほらほら、私に言ってみな」
俺は言うべきか少し悩んでいた。しかし、1人で考えていては、いつまでも答えに辿り着けないだろうと思い、言うことに決めた。
「学校の机とか椅子に、カップルの名前が彫ってあることってあるだろ? で、それらしきものを今日見つけたんだ。でも、それが他の傷で上書きされていたんだ。これってどう思う?」
「どうと言われても……。あっ、恥ずかしかったんじゃない? 隠そうと思ったとか!」
「そうだよな。やっぱり恥ずかしいからだよな……」
理央からも同じ答えが返ってきてしまった。これでは、現状を変えることはできない。
俺がしばらく黙り込んでいると、理央が再び話し出した。
「あっ、ちょっと待って。そのカップルを妬む人がやったって可能性もあるんじゃない? 『こんな羨ましいことしやがって!』みたいな」
「『妬む』か。…………あっ、そういうことか!」
「なになに? もしかして、私の考え当たってた?」
「いや、少し違う。でも、ヒントにはなった。ありがとう」
「へへ〜〜。私って凄いでしょ〜?」
理央の声色から、電話越しでも理央の自慢げな表情が想像できる。想像ではあるが、少しムカつく。
とは言え、ヒントになったことは事実なので、ここは大人しく褒めておくべきだろう。
「あぁ、凄い!」
「え!? ちょ、ちょっと! そんな素直に褒めないでよ! な、なんか普段と違うじゃん……」
「いいや、今日のお前は本当に凄い。ありがとな」
「べ、別に……」
電話越しではあるが、俺はしっかりと頭を下げて感謝をしつつ電話を切った。そして、スマホのメモアプリに「妬み 思い出 図書室のカウンター」とメモしておく。
「あとの推理は、1週間後の俺に任せるかな」
自己満足をして、夕飯を食べるのだった。
4
傷の推理を始めてからちょうど1週間が経った。つまり、再び図書委員の仕事をする金曜日がやって来たのだ。
図書室に向かうために廊下を歩いていると、複数人の女友達と話している前橋を見かけた。クールな表情で話す前橋の人気は止まることを知らないらしい。
すると、前橋がこちら側に目を向けた。どうやら前橋も俺がいることに気づいたようだ。
「伊崎くん。私はもう少しここで話をしてからいくので、すみませんが図書委員の仕事をお願いします」
「分かった」
俺は軽く返事をして、スタスタと図書室へ向かった。
誰もいない静かな図書室に入った俺は、カウンターへと向かい例の傷を改めて確認した。そして、以前、スマホのメモアプリに書いておいた内容を確認する。
「妬み 思い出 図書室のカウンター」
どうやら、理央から貰ったヒントによって導き出した、俺の新しい推理は間違っていないようだった。
確認を終えると、それを待っていたかのようなタイミングで、前橋が図書室に入ってきた。
前橋は息を荒く吐いていた。きっと廊下を走ってきたのだろう。
「はぁ、遅くなりました。伊崎くん。お仕事ありがとうございます」
「なぁ、前橋」
「はい……。何でしょうか?」
息を整えながら、前橋が俺の方を見た。俺はそれを確認すると、カウンターの傷を指差し、話し始める。
「この前、俺たちでカウンターにある傷を推理しただろ?」
「はい。それがどうかしましたか?」
「あの推理、間違っていたと思うんだ」
「間違っていたんですか? 私からすれば、あれは完璧な推理だと思ったんですけど」
「うん。俺も最初はそう思ってた。でも、家に帰ってから改めて考えたんだ。……それで、改めて考えた俺の新しい推理を、少しだけで良いから聞いてくれないかな?」
おそらく、今、俺の耳は赤くなっているだろう。自分の推理自慢をしているようで、恥ずかしくなったからだ。でも、どうしても伝えるべきだと思った。間違った理解を直すために。
「はい、良いですよ!」
前橋は嬉しそうな笑顔と共に頷いた。その様子に一安心した俺は、スマホを片手に話を始めることにした。
「まず、ハートマークと名前についてだ。あれは、思い出作りのものではなかったんだ」
「そうだったんですか? では、なぜそのように思ったんですか?」
「前橋。そもそも思い出作りって、一体いつやることだと思う?」
俺の質問に前橋はしばらく黙り込んだ。しかし、しばらくすると、はっと何かに気づいたような顔をした。
「えっと、お別れの時ですね」
「ああ。俺もそう思った。
あそこに名前を彫られていた2人は現在2年生と3年生。仮にも、3年生の桐生さんの卒業が近いのなら、こんな風に思い出作りをしてもおかしくはない。だが、今はまだ1学期だ。思い出作りにしては早すぎる」
「では、あれは一体誰が、何のために彫ったんですか?」
俺は、ほんの僅かに間を置き、説明を続けた。
「あれは、あのカップルを妬む別の生徒が彫ったんだ」
「妬む? どういうことでしょうか?」
「あのハートマークと2人の名前を彫った犯人は、現在2年生の富岡さんのことが好きだった男子生徒だったんだ」
俺は説明をわかりやすくするために、紙とペンを手に取った。そして、カウンター上で図を書きながら説明を始める。
「富岡さんのことが好きだった男子生徒を仮にAさんとしよう。富岡さんと同級生のAさんはどこかしらで接点があった。そして、Aさんは富岡さんのことが好きになった。しかし、富岡さんは3年生の桐生さんと付き合い始めた。Aさんは好きな人が奪われたことを悔しく思い妬んだ。結果、図書委員だったAさんは、放課後の図書室のカウンターであのハートマークと2人の名前を彫ったんだ」
俺の説明に前橋は首を傾けた。
「なぜそんなことをするんでしょうか。2人の関係を妬んでいるのであれば、むしろ何もせずにその関係を無視しようと思うのではないのでしょうか?」
「これは俺の推論だけど、多分一種の自傷行為だと思うんだ。あんな風に自分で彫ることによって、自分自身に諦めろと言い聞かせていたんだと思う」
「なるほど」
前橋は納得しながら、俺の書いた図をじっと見た。そして、パッと挙手をしだした。
「あの、ちょっと良いですか?」
「なに?」
前橋は人差し指で図のAさんを指差した。
「Aさんが必ずしも富岡さんと同級生であるとは限りませんよ。それに、Aさんが女子生徒で、桐生さんのことを好きだったという可能性もあります。それに、Aさんが図書委員でない可能性もありますよ」
前橋の言いたいことは何となく予想できていた。だからこそ、俺の頭には既にその説明をするための準備ができていた。
「それらの可能性はいくつかの理由で否定できる。前橋。傷がある場所はどこだ?」
「カウンターですけど?」
「カウンターに入れる人物は限られているはずだろ?」
前橋は顔を下に向けて黙り込んだ。しかししばらくするとパッと顔を上げた。
「あっ! だから、図書委員」
「そう。カウンターに入れるのは司書の先生と図書委員だけだ。それに、もし入れたとしても、司書の先生や図書室を利用している生徒たちの監視がある中で、あそこに傷をつけるのは難しい。1年生の図書委員の仕事は司書の先生がいない1時間の本の貸し借り。放課後の図書室の利用者は少なく、司書の監視もない。つまり、傷を付けるのはそこまで難しくない。
これを踏まえると、富岡さんより上の学年の人、または、放課後に図書室のカウンターに入れる図書委員でない人があそこに傷をつけるのは不可能になる」
「なるほど」
「そして、周りにある浅い傷についてだ。浅い傷を見つけた図書委員の富岡さんは、その傷を恥ずかしく思い、傷を彫ってバレないようにした。ただし、富岡さんは女子だったために、浅い傷しか彫れなかったわけだ。
これが俺の改めて考えた新しい推理だ」
推理の説明を終えた俺は、ふぅと息を吐いた。それと同時に、体に一気に疲れが流れ込んできた。どうやら、頭を想像以上に使っていたらしい。きっと、今日はよく寝れるだろう。
「伊崎くん、凄いです!」
前橋は笑顔でパチパチと手を叩きながら俺を褒めた。こういった前橋の表情を独り占めできるのであれば、この疲れも意味があるのだと思う。
5
傷の推理についての説明を終えた俺は、カウンターの中に入ってパイプ椅子に座った。そして、自分の鞄から本を取り出して、大人しく読書を始めた。前橋も俺の隣にストンと座り、同じように読書を始めた。
「伊崎くん」
前橋は本に目を向けたまま、俺を呼んできた。俺もそれに合わせて、本に目を向けたまま話すことにする。
「なんだ?」
「伊崎くんは、なぜあの傷をもう一度推理し直したんですか?」
「どうゆうこと?」
「たしか、伊崎くんは『間違った答えでも文句を言うな』と最初に言いましたよね?」
確かにそんなことを言った気がする。俺は「うん」と適当に返事をする。
「それって、推理にあまり乗り気ではない。間違った答えを出してもそれで良いという意味ですよね? では、なぜ改めて推理しようと思ったんですか?」
確かにそうだ。俺は当初、推理をする気はなかったのだ。それに間違っていたとしても、それを改めて推理し直して正しい答えを見つけようとも思っていなかった。
しかし、なぜか推理し直そうと思っていた。
「何でだろうな。言われてみると自分でもよくわからない。……ただ、他人の不幸なことを、勝手に幸運なことと勘違いするのは良くないだろ? 俺は他人の不幸で喜ぶことが嫌なんだ」
俺の言葉を聞いた前橋は優しい笑顔を見せた。
「ふふっ。伊崎くんは優しいんですね」
「いいや、俺はそんな優しい奴じゃないよ」
俺は人に褒められるほどの善人ではない。まして、前橋のような優等生に褒められるなんてことは決してないはずだ。
「いいえ、優しいですよ。だって、あの傷を彫った本当の犯人は、パソコンで調べなかったじゃないですか」
「パソコンで調べる?」
前橋からの突然の言葉に、俺は疑問を覚えた。そして、それを確かめるために前橋の方を見た。
すると、前橋もこちらを見て、真っ直ぐに見つめられながら話し出した。
「はい。伊崎くんはあの傷を思い出作りと勘違いしていた時は、パソコンでそのカップル2人を調べていました。
でも、あの傷を、妬んだ結果だと推理した時は、パソコンで犯人を調べていませんよね?」
言われて驚いた。自分は完全に無意識でそんなことをしていたのだ。俺は前橋からの言葉にうまく返事が出来なかった。
「ほら、やっぱり優しいです」
「ち、違うぞ。これはたまたまだ。前橋には俺が優しいように見えただけだ。あの傷と同じように、見方の違いだ」
「ふふっ、それでは、そういうことにしておきましょう」
前橋はおかしそうに笑っていた。
俺は恥ずかしい思いを隠すために、再び自分の本に視線を戻した。しかし、その恥ずかしさのせいか全然文章が頭に入ってこない。その結果、先程からずっと同じ部分を繰り返し読んでいる始末だ。
「そういえば、今日、私が廊下で友達と話しているのを伊崎くんは見ましたよね?」
「ああ、見たけど?」
「あの時、実は私と伊崎くんが付き合っているんじゃないかって言われていたんですよ」
「っ!」
これは何と言えば良いのだろうか。全く返事ができない。
「これも、見方の違いですか?」
「あ、ああ、そうだよ! 見方の違い、見方の違い!」
もうやけくそだ。そうしないと、この恥ずかしさを収めることができない。俺はすぐさま立ち上がって、自分の荷物を持って図書室を出て行こうとした。
「伊崎くん。どこにいくんですか?」
「帰る!」
「図書委員の仕事はあと30分以上ありますけど?」
「……」
この場にとても居続けられる気がしなかった。
しかし、図書委員の仕事を放棄した場合はその後が面倒になってしまう。俺は渋々カウンターへと戻る事にした。
振り向くと、前橋がおかしそうに俺の顔を見ている。きっと、俺の表情は見るに堪えない恥ずかしいものとなっているだろう。
「ほらほら、ここですよ」
前橋はポンポンとパイプ椅子を叩いて俺を座らせようとしている。
「はぁ……」
もはやため息を吐くしかなかった。
俺は前橋の見方を間違っていた。彼女は子犬などではない。ただの小悪魔だった。
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