#03 大人
「先輩、さようなら!」
通学鞄を背負った一年生二人が、沙楽にペコリと頭を下げる。
「あ、おつかれ!」
沙楽は笑顔で手を振り返す。音楽室を去る一年生の楽しげな声を背に、沙楽は窓辺の手すりを握る。
たちまち音楽室には、沙楽以外の誰も居なくなった。それを確認して、んっー!と、沙楽はでんぐり返ししそうな勢いで体を反らした。
「おつかれ、ね」
そのとき、目の前に逆さまになった女の顔が現れた。うわっ、と一瞬度肝を抜かれたが、その人物を確認して、沙楽はすぐに笑顔に戻る。
「なーんだ吹雪ちゃんか」
「なんだって何よ」
吹雪は、少し不満そうに眉を顰めた。が、すぐに気の抜けたように笑うと、沙楽の横に並ぶ。
「相変わらずね。今日の仕事は?」
「えーっと、朝のSHRの前に文化祭のプログラムの修正してー、昼休みは委員会の発表の原稿づくりしてー、放課後は臨時の生徒会の会議があって、そのあと体育館行って、大祭で使う椅子とひな壇の個数と配置確認したね。そのあとは普通に部活」
「もう教員じゃない」
「へへへ、あたし職員室入れるかな?」
「やめとき。あんなとこ入る場所じゃないわよ」
吹雪は苦い笑みを浮かべながら、髪の毛を鬱陶しそうに耳にかける。ピカ、と青色の光が見えて、茶色の補聴器が姿を露わにした。
「それ、ちゃんと聞こえるの?」
沙楽は首を傾げながら、吹雪の補聴器を指さす。
「あ、補聴器?そりぁね」
「耳、痛くならんのん?」
「痒くはなるかな、ずっと着けてたら。耳掛けタイプだから」
「どういう仕組みで聞こえるようになるん?」
「え…ちょっと説明難しいけど、なんか、マイクが埋め込まれてて、音を拾いやすくしてくれてる?みたいな…」
『ふーん』と興味を失ったように曖昧な返事を返し、話題を変えた。
「ねぇ吹雪ちゃん、夕焼けはオレンジ色じゃないって知っとる?」
沙楽は窓の外の景色に目を向ける。『いきなり話題そらしたわね』と吹雪はツッコんだ。
夕焼けは橙色、だなんて一般的には言われているが、沙楽はそれが嘘だと知っていた。空が一色だけだなんて、そんな訳ない。
太陽が出でいる西の方は鮮やかな朱色で、靄のような白を境にして、淡い水色が残り半分以上を占めている。時間が経って陽が沈んでいくとともに、東の方からだんだんと青色が濃くなっていき、次第に空全体に暗めの藍色が広がっていく。
「あー、夜がきちゃう…」
瞬く間に変わっていく空を眺めながら、沙楽は名残惜しそうに呟く。隣の吹雪が不思議そうに首を傾げる。
「だって、帰らんといけんじゃん、家に」
沙楽が呟いた言葉に、吹雪は一瞬だけ目を見張ったが、すぐに動揺を隠す。それを見て、沙楽は『大したもんだなあ』と感心する。
吹雪は普段、大っぴらに感情を露わにすることがほとんど無い。元々感情の波が穏やかな人なのかと初めは勘ぐっていたが、指揮者としての彼女を知って、どうやらそれは違うと判明した。
しっとりとしているはずの声を高々と張り上げ、時に苛立ちさえも露わにしながら、音楽と不器用に、真正面から向き合うあの姿こそが、この大人の本質なのではないだろうか。
普段はその情熱を、どこまでも深そうな腹の中にしまい込んでいるだけで。
とはいえ、この場はそうしてくれた方が、沙楽にとっては都合が良い。下手に感情的になられたりでもすれば、沙楽は吹雪を前にして、こんな本音を曝け出せないだろうから。
「吹雪ちゃんはさあ、大人になれて嬉しい?」
「いや、全く」
少しは沙楽の感情に沿った回答をしてくれるかと思ったのに、吹雪は非常にあっさりしていた。沙楽は思わず『だよねー』と笑う。沙楽は、吹雪のこういう所が好きだったりする。
「そうだよね。普通はみんな、そうだよね」
友人たちに『早く大人になりたい?』と聞いてみても、みんなして『なりたくない』と返って来た。
大人になったら自分で家事をしないといけないし、年をとるにつれて見た目がどんどん衰えてしまうし、親に扶養してもらっていたら『ニート』と呼ばれるし。
だから、今のままでいたいと。家に帰れば親の作ったご飯が待っていて、肌に皺ひとつなく、親の稼いだお金で好きに遊べる、子供のままでいたいと。
沙楽はふと自分の左腕の、肘から手首にかけての数十センチをそっと摩ると、ぽつりと呟く。
「大人になりたいのは、あたしだけか」
【♪♪♪】
正門を出たころには、もうすっかり夜になっていた。校舎の壁の一番目立つところにかけてある時計を見ると、とうに七時を過ぎていた。
早く家に帰らなきゃ、とは微塵も思わないけれど、先生たちに見つかると面倒だ。この学校は下校時刻を過ぎる前に正門を出ないと、罰として部員全員で掃除をしないといけない決まりがある。
沙楽は速まる足で坂道を下っていたが、ふと、思わず立ち止まった。
暗くて見えづらいが、道の端に、人間らしき何かが蹲って座り込んでいた。
何、あの人?若中の生徒だろうか。沙楽は不審に思って、その影に忍び寄るように近づいた。
「あの、大丈夫ですか?」
沙楽は思い切って声を掛ける。『え?』と弱々しい声が返って来た。
闇の中に溶け込む焦茶色のブレザーに、チェック柄のジャンパースカート。やはり、若中の制服だ。少女はゆっくりと顔を上げる。
今度こそはっきり沙楽の眼中に彼女の顔が映し出され、沙楽は目を見張った。
「羽歌…?」
顔を上げた少女は、しばらく呆然と沙楽の顔を見上げていたが、沙楽、と手を伸ばした。沙楽はハッとして、おもむろにその手を取る。座り込む少女を、力づくで引っ張って立たせた。
「ありがと。足痛くて、立ってられなかったから」
「……なんで、ここに…?」
出した声があまりにも震えていたものだから、沙楽は自分で驚く。なんで、こんなにも動揺しているのだろう。
「なんでって、ここは私の学校なんですけど」
「いや、そうじゃ…」
「なんで部活辞めた私が、こんな時間に居るのかって?」
呆然としている元親友に、少女は…若の宮中学校三年・
「沙楽に用があったの」
「え…」
沙楽は驚いて眉を顰めたが、驚きよりも先に心配の方が勝った。
「え、もしかして、あたしのことずっと待ってたの…?」
「まぁね。おかしいなって思ったよ。吹部の後輩っぽい子たちは続々と出て来るのに、沙楽は全然出てこないんだもん。あんたのことだから自主練でもしてんのかなって思ったけど、クラの音ひとつも聴こえてこないし」
当たり前だ。だって、顧問とずっと喋っていたのだから。沙楽が呑気に不満を漏らしている間、羽歌はずっとここで待っていたのか。授業終了から今の今まで、何時間もずっと?そりゃ、足も痛くなるはずだ。
「……ごめん。でも、音楽室来てくれたら気づけたのに」
「まぁ、二年生の女子三人が声かけてくれたけどね。『沙楽先輩ならまだ音楽室に居ますけど、呼んできましょうか』って。でも私が『ここで待ってるから大丈夫だよ』ってお断りしたの」
「女子三人って、美鈴ちゃんたちでしょ?なんでよ、頼めばよかったのに」
「無理に決まってんでしょ。今更、どの面下げてあの子たちと…」
羽歌は目を細めて笑う。自嘲めいたその笑みに、沙楽は妙な息苦しさを覚える。
違うの、と、心の中で誰かが叫ぶ。違うの。羽歌は何一つだって後ろめたく思う必要なんかないの。だって…
―――沙楽は、私たちと違うじゃん!
呼び起こされる、少女の声。狭い楽器庫の中で、響きに響いたあの声…いや、悲鳴。ずっと一緒だった親友との間に生じた、明確な亀裂。
あの日以来、沙楽と羽歌は顔を合わすことさえも無くなった。それなのに何故、今になって。
「沙楽さ、文化祭って空いてる時間ある?忙しいよね?」
地面にくっついて離れない石ころを蹴りながら、羽歌は言う。
「え?あ…」
沙楽は頭の中で、当日のスケジュール表を浮かべる。開始時間の九時からはクラスの出し物の当番。十時からは生徒会の仕事で校舎の見回り。午後からは委員会の発表と、吹奏楽部の演奏会。空いている時間なんて…
「あ、十一時から十二時までなら…」
生徒会の見回りを時間ピッタリで切り上げたら、ギリギリ一時間はとれる。
「その時間、私と一緒に回らない?」
えっ、と思わず拍子抜ける。沙楽の表情の変化に、羽花は不満げに口を尖らせた。
「嫌なの?」
「嫌とかじゃないけど…」
「じゃ、決まりね。詳しいことはまた今度決めよ」
『じゃあ、塾あるから帰るね』羽歌はとってつけたように笑い、沙楽に背を向けて歩き出した。
『私、トロンボーン似合ってる?今は全然吹けないけどさー、早く沙楽みたいに吹けるように頑張るから、見ててね!』
これから始まる三年間、吹奏楽人生に心を躍らせていた、親友の姿。
期待と希望いっぱいに溢れたあの笑顔を奪ったのは、紛れもなくあたしだ。
速まる胸の鼓動と、額に流れる冷や汗を収められないまま、沙楽は元部員の後ろ姿を見つめていた。
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