#02 Jupiter

 西の方角に、木星を見つけた。


 ホルスト作曲、組曲「惑星」でお馴染みの木星は、日没後の空、すぐに肉眼で確認できる。

 

 夜の空に、無限にある小さな光がキラキラ輝いていた。まるで生きてるんじゃないかと思うくらい。


 ふと、顔を上げる。なんの前触れもなく耳に入ってきた音を、さも当たり前のように、何かの習慣のように――――聴く。


 深みのある豊かな響きを持つ低音。輝かしく刺激的な響きを持つ高音。


 それらを孕んだ温かな音色が、野原いっぱいに響き渡る。


 綺麗な音だった。音の一粒一粒が、宝石みたいな――そう、星のようにキラキラと輝いている。


 その音の一粒一粒が耳の中に入り、やがて鼓膜へと伝わっていく、その度に。


 なぜだか泣きたくなるような、懐かしいような―――そんな心地よさが全身に広がっていく。


 揺れる草の向こうに、夜空色の薄紙に透かしたように薄っすらと、人影が見えた。


 星の光と同じ色をしたワンピースが風に丸く膨み、背中一杯に溢れるほど広がる髪は、息をするように揺れている。


 キラリ、と何かが光る。まるで音楽の授業で使うリコーダーみたいな、漆黒の細長い縦笛は、こちらに手招きしているようにも思えた。


 ……クラリネット。


 誰にも教わることなく、すぐにそう理解する。


 一歩、前へ踏み出す。ざくざくと、一歩、また一歩と。


 ただ雑草を踏みつけて歩いているだけなのに、何故だか一歩が凄く重い。山道を歩いているような―――


「あの…」


 やっとの思いで声を掛けると、女の人はゆっくりとこちらを向いた。彼女の真上に、キラリと何かが光って見えた。


 少し青みがかかった、白銀色の一等星―――シリウスが、数ある星たちでも一際目立って光を放っている。


 その輝きが、目に焼き付いて離れない。一瞬にしてすべてを、奪われてしまったような。


 もう、元には戻れない。引き返すことなんてできない。


「……おかあさ…」


 侵されてしまったは、ただ光に手を伸ばすことしかできなかった。




 ――――「触わるなっ!」



 星が、光が、一瞬にしてすべて消えた。


 目の前で、乱暴に手を振り上げるの姿が見えた。




 ――――「あんたなんか産むんじゃなかった」


 ――――「お前さえ、いなければ」



 体が、落ちていく。


 闇の中へと、堕ちてゆく。



 ――――「嫌だ…いやだいやだいやだ!」


 この下は真っ暗闇だ。


 この下には何もない。


 嫌だ。


 堕ちたくない。


 怖い。



 ――――「助けて!」



 やめて。

 

 お願い、だれか、


 たすけて…




「「おがあさぁぁぁぁぁぁんっ!!」」




【2020年9月22日】



 窒息したかと思った。


 はー、はー、と、荒く息を吐く。喉がカラカラに乾いて痛い。


 目の前には、茶色の天井が広がっていた。


 下方向に右手を伸ばすと、ふわふわとした柔らかい感触があった。


 左手を額に当てると、べっとりと汗が付いた。続けて目を擦ると、ぬめりとした涙で濡れた。


 押入れの扉が僅かに開いていて、そこからひとすじの光が差し込んできた。扉の隙間に手を伸ばし、ぐいっと広げる。


 窓辺から差し込んできた陽の光が、薄暗かった寝床を一気に明るくした。


 朝だ。


 朝がやってきた。

 

 夢から覚めたのだ。


 ―――あの、悪夢から。


 

 靄がかかったようにぼんやりとした頭で、沙楽はようやく理解した。


 重たい体を無理やり起こし、布団から這い出た。


 姿見の前に立つと、虚ろな目をした少女がこちらを見ていた。


 その顔はひどかった。熟睡できてないせいか、目は腫れぼったく、目の下には真っ黒なくまができている。


 寝ている間に出てきた汗と涙で、髪がまぶたやら頬やらに張り付いてぐちゃぐちゃだ。


 沙楽は気だるげにため息をつくと、水で顔を洗って汗と涙をすべて流し、化粧用のコンシーラーを目の下に塗ったくる。


 長ったらしい髪を櫛でとかし、手慣れた手つきで一つに編み込む。その間、沙楽はどうでもいいことを考えた。


 押入れを寝床にしている人間なんて、自分以外で世界にどのくらい居るのだろうか。


 某国民アニメの主人公に憧れて真似する子供はいるかもしれないが、結局は二、三日で飽きるだろう。


 それか、『不衛生』だと親に怒られ、禁止されるのがオチだ。


 そんなことを気にする親がいない沙楽には、関係ない話だが。


 ひとつも食欲が沸かず、朝食も何も口にしないため、今日も二十分足らずで身支度を終えた。


『行ってきます』も言わずに、沙楽は黙って玄関の扉を押し開けた。


 ――――言って、どんな意味があるのだろう。


『行ってらっしゃい』の一言も返ってこないのに。



【♪♪♪】


「今日は合奏の前に、文化祭のステージのことについて話していきたいと思うんだけど―――」

  

 指揮台に立ち、沙楽は全面明るさに振り切った声音でハキハキと話す。


「えーっと、まず配ったプログラム見てもらって…」


 沙楽の指示に、合奏体形で座っている部員たちはほぼ一斉に手元に目を落とす。


 沙楽はちらりとプログラムに目を落とす。


 美術部お手製の文字で『若の宮中学校 秋の大祭り』とデカデカと書かれている。


 若の宮中学校は毎年、十月の第二週の金・土を使って、『秋の大祭り』こと合唱祭・文化祭を同時に行う。


 クラス対抗合唱コンクールで、まず初日の金曜日を使う。


 そして土曜日は一般客も入場可能になり、若中の一大ビッグイベント・文化祭を行う。


 午前はクラスごとで出し物をして、午後からは全校生徒が体育館に集められ、ステージを開催するのだ。


 この『秋の大祭り』は毎年のように大盛り上がりで、若中の一番大事な学校行事だと言っても過言ではない。

 

「二年生は去年やったから分かると思うけど、吹奏楽部は13時50分〜14時30分の、40分間演奏します。合間にMCも挟むから、やりたーい!って人は後で声かけてくださいっ!で、当日は部T部活Tシャツ持参ね」


 はい、じゃあ説明を終わります。と締めると、沙楽は指揮棒を持っている吹雪と場所を交代する。


「えーっと、今日はまず『エルクンバンチェロ』を通しでやります」


 吹雪がスコアを捲りながら指示を飛ばすと、部員たちが楽器を構える。


「さんっ、しっ!」


 指揮棒が真っ直ぐ振られると、演奏は始まった。


 特にポップス曲の吹奏楽バーションにありがちな話なのだが、大編成版から小編成版になると、一気に難易度グレードを下げられることがある。


 大編成(通常)版は限りなく本家に近いのに、小編成版になった途端『何この曲?』と目を疑うような編曲にされていることが、割と頻繁にあるのだ。


 小編成はどうしてもパート数に限りがあるから、多少再現率が落ちたり覇気が無くなってしまうのはまあ、仕方ないこと。


 だが、あまりにも簡易的な、それも小学生の学芸会レベルの楽譜を渡されると、『小編成なめてんのか』と楽譜出版社に文句も付けたくなる。


 小編成=下手、みたいな認識はやめて頂きたい。それこそが全小編成吹奏楽部員たちの心の叫びだろうと、沙楽は勝手に思っている。


 ポップスではないが、この『エルクンバンチェロ』もその部類に近い。少なくとも若中が使っている出版社の楽譜は。


 例えば最初、通常版だとコンガ、ボンゴ、アゴゴベル等のパーカッション隊が愉快なリズムを刻み、そこからバーンと全楽器が入るのがカッコいいポイントだ。


 だがこっち小編成の編曲者は何を血迷ったのか、その一番カッコいいポイントを容赦なく捨て、冒頭からいきなり全楽器の主旋律から始まっている。


 楽譜を配った際に見かけた、パーカスメンバーのひどくがっかりした様子が、沙楽の脳裏に思い起こされた。


 とはいえ人前で演奏する以上、例え譜面がパッとしなくても、それを最大限かっこよく魅せるための演奏を、奏者側はしなくてはならないのだ。


 ふと、後ろから少し濁ったような和音が聞こえてきた。


 位置的に、フルートの1stからだ。沙楽は楽器に息を入れ込んだまま後ろを向き、フルートパートの二年生・坂下さかした初音はつねと目を合わせる。


 初音は自分の音程が合っていないことに気が付いていない様子だったが、沙楽と目が合うとすぐにハッとし、慌ててチューナーをつけた。


 すると、間もなく和音は綺麗になった。沙楽は満足し、再び目線を前に戻す。


 そのとき、視界の端にカレンダーが映り込んだ。


 いつもなら気にも留めないが、『九月』の文字をたまたま見てしまって、沙楽はふと思った。


 吹奏楽部の三年生は毎年、十月の文化祭の演奏を最後に引退する。


 あと一か月で、沙楽はこの席に二度と座れなくなる。


 そう気がつくと、沙楽は今まで感じたことのないような不思議な感覚に襲われ、珍しく合奏に集中できなかった。

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あの音が響く先で 〜Clarinet.Ver〜 秋葵猫丸 @nekomaru1115

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