あの音が響く先で 〜Clarinet.Ver〜

秋葵猫丸

Twilight

#01 Moon

【2013年9月19日】



 楽譜を持つ手が、臆病に震える。 



 さっきからずっと、向かいの席に座る私の恩師・北上響子きたがみきょうこ先生の様子を窺ってしまう。


 先生は五線譜ノートから全く目を離そうともせず、ひたすらに音符を書き続けている。


 先生の手元には、大量の書き込みが施された制作途中の楽譜が大雑把に並んでいる。 


 集中している様子なのであまり邪魔はしたくないが、いつまでもこんなふうに躊躇しているわけにもいかないだろう。


「あのっ、先生…」


 意を決して先生に声をかけると、すぐに『どうしました?』と返ってきた。


「少し相談があって…」


 スッ、と一枚の楽譜を差し出した。


 先生は差し出された楽譜に一度目を通すと、ハッとしたように目を見開いた。


「これは…ソロ…ですか?あ、クラリネット…の」


 先生の視線の先には、デジタル文字で『clarinetクラリネット soloソロ』と記されてある。


「えぇ…あ、ですがこの曲のメインはやはり、ホルンとオーボエのソリなので、それよりかは目立たない編曲にはしたのですが…」


 緊張と不安感のあまり、言葉に詰まる。


 先生は楽譜を手に持ち、よくよく目を凝らして中身を吟味している。


 主な作曲者は先生で、こっちはどちらかと言うとそれを手伝わせて貰っている立場だ。


 なのにこんな提案は、不相応かもしれない。私はそう思うと、ひどく落ち着かなかった。


「あの、非常に恐縮ですが…先生がよろしかったら、このソロを曲中に入れる方針で考えて頂い…」


「もちろんですよ!とっても素敵なものになると思います!」


 しかしそんな不安とは裏腹に、先生はその楽譜をぎゅっと握りしめると、目を輝かせて笑った。


 古く刻み込まれた口元の皺が、優しく緩んでいた。


「えっ、本当ですか!」 


「えぇ!では、何小節目くらいに…」


「いけいけおんぷちゃんー!」


 すると、心底興奮しきっている叫び声がすぐ近くから聞こえてきた。


 ダイニングと繫がっているリビングでは、さっきからずっと娘がテレビを見ている。


 毎週木曜日のこの時間は、大人気アニメ『とびだせ!おんぷちゃん』がキッズ番組で放送されている。


 カラフルな八分音符の妖精たちが、画面の向こうで勇敢に敵と戦っている。


「あっー!ファッちゃん!頑張れー!」


 背中にペガサスのような羽を生やした黄色い妖精が、画面上を飛び回っている。


 イチオシキャラの出番に、娘は一気にテンションが上がったようで、より一層声が大きくなる。


 子供特有の遠慮のない高い声が、比較的広いはずの我が家にキンキンと響く。


 はぁ、とため息をつく。全く、これじゃあテレビの音量を下げた意味がないじゃない。


 普段は、まるで子供とは思えないくらいに聞き分けの良い子だと、我が子ながら思う。


 だから、好きなアニメを見せている最中くらいは思いきり騒がせてあげたいのだけれど。


「ちょっと、沙楽さら!」


 声を大にして娘の名を呼ぶ。いつもは『さっちゃん』と呼んでいるけれど、怒るときだけは呼び捨てにすると決めている。


 滅多に聞かない母親の厳しい声に、沙楽はすぐにテレビから目を離し、こちらを振り返る。


「今、お客さん来てるから、もう少し静かに見てね」


 私がそう言うと、沙楽は一瞬だけ萎れたような表情を見せる。


『ファッちゃん』の等身大のぬいぐるみを大事そうに抱きかかえながら、珍しい来客に好奇の視線を送る。


「はーい…」


 と、それからは大人しく座っていた。


「すみません先生…」


「あぁ、いいんですよ?全然。このアニメ人気ですよね。うちの孫息子たちもいつも見てるんですよ」


 先生は人当たりの良い笑みを浮かべる。その姿はまるで聖母のように思えた。


 こんな彼女でも、孫に声を荒らげたりすることがあるのだろうか。ふとそんな疑問に浮かんだ。


 机上には、整理されていない書きかけの楽譜が大量に散らばっている。


 実際の打ち込みはパソコン上でやるとしても、年代的に先生は手書きのほうが圧倒的にやりやすいだろうし、様々なアイデアの書き込みは欠かせない。


 ふと、一枚の紙が目につく。曲名の候補を簡単に箇条書きにした紙だ。


・『Under the sky』

・『This is our sound』

・『towards the future』

・『Beyond that sound』


 案は沢山出たが、とりあえずこの四候補まで絞れたところだ。曲の雰囲気に一番合う題名をこの中から選ぶつもりだ。


 先生はふと、ソロ譜と沙楽の交互に何度か視線を送り、最後に私の方を見た。


さん、もしかしてこのソロ、娘さんに…?」

 

 先生のその言葉に、私はドキリとした。


 結婚当初、名字が変わってすぐの頃は、『松坂』と呼ばれる度に猛烈な違和感を感じていたが、何年も経った今はもうすっかりと慣れたことだ。


「あ、えっと…」


「……やっぱり、娘さんにも楽器を習わせるおつもりで?」


 先生はふふっと笑った。威圧感一つもないその柔らかな微笑みは、溢れんばかりの母性を感じさせた。


「まぁ、お母さんがあのですからねぇ。沙楽ちゃんもきっとその才能を受け継いているだろうし」


「……いえ、私は…」


 少し、顔を俯ける。胸下まである夜空色の髪の毛が、さらりと肩から垂れる。


 出会う人から『夜空みたい』『綺麗』と褒められ続けたこの髪の毛を、結婚してからは厄介に思うようになった。


 髪ゴムがつるつると滑って留まらない。おかげで髪を一つに纏められなくて、家事をするときに物凄く邪魔なのだ。


「あーあ、終わっちゃった…」


 画面に『次回も見てね!』と大文字のテロップが流れ、チャンネルは民放へと切り替わる。今が午後の四時半だということに気づかされた。


 窓の向こうには、オレンジ色の空が広がっていた。うっすらと、白色の月が浮かんでいるのが見えた。


 楽しい時間は早くも終わりを迎えてしまい、沙楽は残念そうに肩を落としていた。


 そんな娘の後ろ姿を、私はぼんやりと眺めた。


 大人ふたりからの不審な視線に気がついたのか、『ん?』と沙楽が振り返る。


「なになに?」


 沙楽は花開いたように笑うと、興味津々とばかりに私に駆け寄ってきた。黄色の夏用ワンピースがふわりと揺れる。


『あー、はいはい』と適当に笑いながら、私は沙楽の頭に手を伸ばす。


 見事に遺伝した夜空色の髪の毛は、触ると驚いてしまうくらい柔らかく、少し、安堵感を覚えてしまった。


 良かった。沙楽は、娘はちゃんと子どもなんだな。


「ねぇおかあさん、なんの話してたの?」


「んー?なんでもないのよ」

 

 やんわりとしたその言葉に、沙楽は『えー?』と首を傾げ、おどけて笑った。


 沙楽の頭を優しく撫でながら、先生の顔を見て、私は言った。


「この子が、自分から『やりたい』って言うまでは…」


 先生から視線を逸らし、沙楽の瞳を見る。沙楽はきょとんとした顔で、私の顔を見ている。


 眩しいと感じるくらい、 小さな星のような瞳がキラキラと光っている。


 もしかしたら、沙楽は今後、沢山苦労することになるかもしれない。


 私の子どもとして、生まれてきてしまったせいで。


 世界的有名な天才クラリネット奏者『綾瀬星楽』を、母親として持ってしまったせいで。

 

 周囲から色眼鏡で見られたりして、息苦しい思いを沢山するかもしれない。


 だから、私は…


「……私からは、楽器はやらせないつもりです」 


 沙楽が生まれたときから、私はずっとそう決めていた。


 いらぬ苦労を沢山させて、この純粋無垢な輝きが失われることなど、あってはならない。


「沙楽、自由に空を羽ばたいてほしいから」


 何にも、誰にも、縛られてほしくない。


 ―――私と、同じにさせてはいけない。


 心の中でそう誓いながら、私は愛娘の顔にそっと手を伸ばした。

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