#04 回想
【10月1日】
「沙楽先輩!」
ふいに名前を呼ばれ、沙楽はハッとする。
後輩たちが皆、不思議そうに沙楽を見ていた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「……あ、ごめん。ぼーっとしてただけなの」
ごめんごめん、と笑いながら、沙楽は急いで折り紙を持ち直す。
今は文化祭で使う飾り付け作りを、木管の女子部員で行っているところだ。グランドピアノの上には大量の折り紙やキラキラのモール、年季の入って錆びたハサミが散らばっている。
ちなみに金管&打楽器の面々と残りの男子部員は体育館で当日の椅子の配置やひな壇の個数確認、照明の位置調整などを行っている。
「先輩、これどうしたらいいですか?」
「ああ、これはね…」
後輩に指示を出しながら、沙楽は内心、気が沈む。
最近、なんだか駄目だ。羽歌との一件以降、そのことばかり頭に浮かんでしまう。おかげでぼんやりとしてしまうことが増え、この前の生徒会会議だって、原稿の違うページを読み上げてしまった。
しっかりしなければ。あたしがちゃんとしてなくてどうする。沙楽は自分に叱責を飛ばした。
【♪♪♪】
金管&打楽器組の様子を見に体育館を訪れると、たまたま近くに居たホルンの二年生・
「先輩!」
「おつかれー、そっちは上手くいってる?」
「はい、男子もいるし…あっ、そこ休憩してないで運んでー!」
重たい物を運び終わったばかりなのか、一年生の男子二人が床に腰を下ろしていた。疲労困憊といった様子の彼らに、美鈴は容赦なく激を飛ばす。
ははは、と沙楽は苦笑いする。美鈴は面倒見の良い反面、結構スパルタだったりする。後輩をまとめてくれるのは有難いのだけど、いつか一年生がその辺りでぶっ倒れてそうで心配だ。
「……いやぁ、美鈴ちゃんはしっかりしてるから本当助かるなぁ。おかげで安心して引退できるよ」
館内を見渡すと、てきぱきと調子良く動いている部員たち。おそらく美鈴が指示を出したのだろう。沙楽が讃美の言葉を贈ると、美鈴は分かりやすく目を輝かせた。
まぁ、言うことには多々粗があるものの、美鈴は誰よりも後輩思いだ。それに、今の部の雰囲気作りにも協力してくれているし。
本当、次期生徒会候補じゃなかったら、即決で部長を任せたいところなのに。生徒会に所属している生徒は、忙しくて中々部活に来られないから、なるべく部長なんかの役職は避けさせるのが、この吹奏楽部の決まりごとなのだ。沙楽が部長にならなかったのもそれが理由である。
ったく、生徒会の先生が、『中野さんはしっかりしてそうだから』って推薦するから…沙楽は内心で恨み言を呟く。
「あっ、そういえば、昨日大丈夫でした?」
「昨日?」
美鈴がどこか遠慮がちに、沙楽の耳元に近寄ると、
「あの、羽歌先輩が…」
途端、沙楽から笑顔が消えた。
「……あ、うん、いたね」
声が、不自然に上ずる。それを咄嗟に誤魔化そうと、沙楽は再び口角を吊り上げる。上手く笑えているだろうか。沙楽は内心、そればかりが気がかりだった。
「なんか待ってるみたいだったので、声掛けたんですけど、断られちゃって。あの後、無事に話せました?」
「……あ、うん」
ピクピクと、口の端が震える。垂れ下がりそうになる口の筋肉を、力ずくで上げ続ける。背にくっついている左手が、行く先もないくせに
「なら良かったです。いや、羽歌先輩、もしかしたら部活見に来てくれたのかなって思って。前の先生もいなくなったことだし」
あぁもう、早くこの話、終わってくれないかな…
「でも羽歌先輩が来てくれたら嬉しいなぁ。自分、正直、トロンボーンのことよく分かんないんですよね。羽歌先輩なら、大瀬くんにも教えてあげられ…」
「来るわけないでしょ」
引き攣った笑みから吐き捨てられた、冷ややかな声。
まずい、と沙楽はすぐに我に返る。しかし時すでに遅しで、にこやかに話していた美鈴はピタリと固まっている。
あ、いや。慌てて訂正しようとして、だけどそんな言葉も見つからない。
どくどくと、心臓の鼓動が速まる。額に、やたらと冷たい汗が流れる。その汗があまりに冷たかったものだから、沙楽は自分で驚いた。
「美鈴せんぱーい!ちょっとこっち来てくださーい!」
場違いに響く、腑抜けたような声。トランペットの一年生・
「あ…今行く!」
一瞬、美鈴はぎこちない動きで沙楽を見る。そのひどく怯えたような瞳に、沙楽は言葉を失う。
美鈴は逃げるように後輩の元へ走り、沙楽はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
【10月9日】
来たる文化祭の前日。十八時前には終わる予定だった最終リハーサルは、吹奏楽部の前に出場予定の放送部でマイクが故障するという問題が起きたことにより、大幅に遅れてしまった。
リハーサルを終え、沙楽が閉じられているはずの音楽室に戻った頃には、とっくの昔に日は暮れていた。
真っ暗な音楽室には、誰もいなかった。明日の本番に備え、楽器や必要な物品はすべて一階の調理室に運んである。物が無くなり空っぽになった音楽室は、どこか寂しげに感じられた。
練習終わり、沙楽が意味もなく音楽室に残っていると、いつも顧問の吹雪が来て、毎日のように話し相手になってくれる。吹雪が若の宮中学校に新任してきてから、ずっとそうだ。
吹雪は、沙楽が下校時間を過ぎても学校に残ることも、二人きりの空間のみ限定で『吹雪ちゃん』と呼ぶことも、すべて許してくれている。
非常勤かつ、年が近いのもあるが、沙楽は吹雪を『先生』だとはあまり思ったことがない。沙楽の想像する教師像と、彼女はあまりにもかけ離れている。
かといって『友達』かと言われると、何か違う気がする。吹雪との不思議な関係性を表す言葉を、沙楽は知らなかった。
そんな吹雪が、今日は珍しく来ない。それが、今の沙楽には些か不満だった。
今でこそあの人に、そばにいてほしいのに。
ふと、蓋が閉まっているグランドピアノの上に、大量の折り紙の切れ端や、ハサミが散らかってあるのに気がつく。
直前まで飾り作りの作業をやっていて、そのまま放置してリハーサルに行ったことを思い出した。
せっかくだから片付けようと、沙楽は電気をつける。
パチ、と、天井の蛍光灯が室内と明るく照らす。すると、さっきまで曖昧だった視界が急にクリアになる。
その瞬間、呼吸が止まった。
目の前で、ギラリと光った何か。
カッターだった。出っぱなしになっている刃が、沙楽の顔めがけて置かれてあった。
なぜだか引き寄せられるように、沙楽は呆然と刃先を眺める。
歯が細かく、ギザギザしていて、切れ味が悪そう。
刺されたら、ものすごく痛いだろう。
このままカッターが真っ直ぐ飛んできたら、確実に沙楽の顔に命中する。
当たって、肌がさっくり切れて、切り口から血がどろどろと流れてきて、そして……
―――お前なんか、死んでしまえ!
「………ゔっっ!」
途端、猛烈な気持ち悪さが体の底から込み上げてきて、沙楽は咄嗟に口を抑えてうずくまった。
―――あんたがいい子じゃないから、おかあさんはおとうさんに怒られるの…!
―――全部あんたのせいなんだからね!
視界が歪む。
気持ち悪い。息ができなくて苦しい。
床についた手の、指先が強く地面に食い込む。
きつく瞑った目尻に涙が滲み、言葉にならないうめき声ばかりが漏れる。
「……あぁ゛…ゔぅっ…」
それでも、脳裏で再生される声は消えてくれない。
―――ねぇ。沙楽は優しい子だから、おかあさんと一緒に死んでくれるよね?
「……おか゛あさっ…」
ハァハァと、荒い息を吐く。透明な液が口からみっともなく垂れているが、それを気に掛ける余裕はなかった。
呪文のように、呪いの言葉のように繰り返す。
何度も、何度も。
「ごめんなざっ…ごめんなさい、おかあさん、許して…」
許して。
もう我儘言わないから。
何でも言うこと聞くから。
いい子にするから。だから。
あたしのこと、嫌ったりしないで。おかあさん――――
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