第2話:一欠片の記憶
「………と、このようにしてキリスト教は認められていったわけで、三大宗教の一つとなるまでに発展したわけだ」
教師がホワイトボードに新しい単語を書き始める、赤いペンで書くということは重要なことなのだろう、テストに出るかもしれない。
鎮座する生徒に背を向け教師がペンをすらすらと走らせる。
キュキュッと、ペン先がホワイトボードに擦れる音が雨音を掻き消し、嫌でも授業に集中させようとしてくる。
現在、青嵐は世界史の授業を受けていた、真面目に聞いていてはあくびが出てしまいそうな退屈な授業だった。
中には自身の将来のために黙々と授業に取り組む生徒もいるが、財前を始めとした不良は教師に見えないところでスマホの画面をスクロールしている、SNSの類いであそこまで時間を潰せてしまうなんて、もはやそれは麻薬と同種と言ってもいいのではないだろうか。
それぞれがそれぞれの行動をする、そんな中で青嵐は外をぼんやりと眺めるだけだった。
時々ホワイトボードの文章をノートに書き写し、それ以外の時は外を眺める、単調な時間だ。
いつも通り雨が降り頻る屋外、ぽつぽつと窓を叩くその勢いは、青嵐の心を写したようにどこか弱々しかった。
「キリスト教、ねぇ………」
青嵐は誰にも聞こえないボリュームで呟いた。
現在進行形で授業の題材となっている宗教のことが、青嵐はあまり好きではなかった。
無論、集団同調のような日本人的な思考でただ何となくで好きではないというわけではない、明確な理由の下で好きではなかったのだ。
教師が話した通り、今や三代宗教の一つに数えられているキリスト教、現代社会においてその名を知らぬ者を探す方が難しいだろう。
だがそんなキリスト教にも他宗教と同じような迫害の歴史がある。
かつてローマ帝国が栄華を極めた時代、第5代ローマ皇帝、後に暴君と呼ばれるネロによってキリスト教は迫害を受けた。
皇帝の地位を揺るがしかねない宗教は暴君によって邪教とされ、罪のない人達が皇帝の名の下に断罪された。
以前その授業をした時からだ、青嵐が周囲から“邪教徒”と蔑みを込めて呼ばれ出したのは。
青嵐はキリスト教というわけではない、食事の前にいただきますを何となくいうだけのただの無宗教だ。
しかし魔女の存在を高校生になった今でも信じているその狂気こそが“邪教徒”という蔑称で呼ばれる原因となっていた。
しかし青嵐は何の根拠もなく魔女はいると信じているわけではない、彼にとって確かなものがそれを狂信ではなく、確信へと変化させていた。
青嵐の魔女に対する確信、その根幹にあるのは育ての母親の存在だ。
元々、青嵐は捨て子だったらしい。
らしい、としか言えず、だった、と過去形で言えないのは青嵐自身に捨て子だった頃の記憶がないからだ。
捨て子だった頃に辛い思いをした記憶がないのはある意味救いだったのかもしれない。
しかし青嵐が持ち合わせていないのは捨て子だった頃の記憶だけではない、青嵐が再び孤独になってしまう12歳になるまでの記憶のほとんどが靄がかかったように鮮明ではなく、ほんの一欠片も思い出す事ができないものばかりだった。
いわゆる記憶障害、12年間の記憶ほとんどが青嵐の脳の箪笥に押し込まれたまま、取り出すことが困難な状況にある。
家の表札に五月雨と書いてあるから五月雨と、ノートの名前に青嵐と書かれているから青嵐と、そう名乗っているに過ぎず、名前に愛着があるわけでもなかった。
だが闇に葬られてしまった青嵐の記憶の中で、唯一脳に焼き付けられて他が消えたとしても消えない確かな記憶が一つだけあった。
その確かな記憶とは、青嵐を拾った育ての親の、とある女性との出会いの瞬間の記憶だった。
身も心もボロボロの満身創痍で地に伏し、命の火が消え掛けるのが、自分の人生が終わろうとしているのが、青嵐自身にも何となくではあるが理解した時だった。
1人の女性が、死にかけている青嵐に話しかけた。「君は1人なのかい?」と。
白く長い髪に真紅の瞳が映えて、魔性の微笑みを向けるその女性こそが、青嵐の育ての親となる人物だった。
青嵐はその女性に助けられ、温かい食事を貰いふわふわな毛布に包まれ、屋根のある家に住まわせてもらえることになった。
出会った時のことは今でも明確に覚えている、脳みそをノックすればたった今経験したかのように話す事ができる。
その明確な記憶の中、今と同じように雨が降り続ける中、女性は青嵐に問うたのだ。
魔女に育てられる覚悟はいいかな?と。
女性は自身が魔女だと語った。
その美しくも少し不気味な情景は青嵐の脳細胞一つ一つに強く焼き付けられ、今も鮮明な記憶となっている。
しかし肝心の魔女と暮らした日々の記憶は青嵐から抜け落ちていた。
残っている記憶は病院の真っ白なベッドの上で目覚め、大粒の涙を流している魔女が青嵐の下を去った時以降の記憶だけだ。
青嵐は何故自分が病院で眠っていたのか、魔女と暮らしていた時の温かくて、優しさに満ちたであろう日々を、その全てを忘れてしまっていた。
魔女が魔性の残り香を残して青嵐の下を去った理由を、青嵐は知ることもできなかった。
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後書き
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