笑う鹿 本編
「くらえハルト!」
「やめてよ!お兄ちゃん!」
石の裏にいたダンゴムシを
さて、そろそろ日も落ち始めるから、家に帰らないとな。ベンチに投げておいたランドセルから家のカギを出して、くくってあるひもを首にかけると、ハルトを連れて家へと帰った。学ランを着た中学生ぐらいの大人が俺たちの横を自転車ですぎて行く。来年から俺もあの服を着るという実感が
「みなさんは奈良公園の深夜にのみ現れる、
奈良公園はウチの近所だった。ハルトの方を見ると、両手で目を
「なあ、今日はママも悠也さんも朝まで帰って来ないよな」
「うん。ママもパパも明日の朝に帰るって言ってた」
「そうか。じゃあ、今日は2人で奈良公園に行くぞ」
「ええ!やだよ!ぼく怖いよ!」
俺はハルトの頭をぶった。悠也さんにやられるように、握ったこぶしの先にある
カップラーメンを食べ終わると、ハルトを風呂に入れて体や頭をゴシゴシと洗う。俺が1年生の時には1人で風呂に入っていた気がする。ママも悠也さんもハルトには甘い。タオルで体を拭いて、髪を乾かしてやると、ハルトに服を渡して俺も風呂に入ろうとした。すると、ハルトも入って来て、俺の背中をボディータオルで流し始めた。
「濡れるから先に上がってろ」
「はーい!」と言って、ハルトはボディータオルを俺に返すと風呂場を出て行った。俺は頭も洗って髪を乾かし、動きやすい服に着替えた。今から奈良公園に鹿を探しに行くのだ。ハルトの手を引っ張って靴をはかせると、部屋のカギを閉めた。ハルトはすでに泣きそうな顔をして、震えつつイヤイヤながらも俺の後ろを着いて歩く。蜘蛛の巣が張られた廊下を抜けて、ピクトグラムの点滅する階段を降り、外へ出て、横断歩道を渡る。この時間は車が少ないなと思いながら、奈良公園へ向かう。
ブロック塀に囲まれたアスファルトを歩くと、街灯に釣られた小蠅が顔に悪さをするので、それを手で跳ね除けて目的地へと進んだ。民家を抜けると信号があるが、この時間は車がめったに来ない。信号を無視して
「お兄ちゃん、帰ろうよ」とハルトが言う。俺はハルトの手をガッ、と引っ張ってさらに奥へと連れていくことにした。ハルトはひたすら指と歯をガタガタと震わせている。怖いのだろう。
静かな広い園内をハルトと2人で歩く。普段は鹿の多い
「お、おい、ハルト、大丈夫か?」
「ガタガタ、ガタガタガタガタ」という歯音でハルトが返事をする。やばい。帰ろう。来た道をふり向くと、
けっきょく、この日は醜い鹿には出会えなかった。先ほどの寒さは何だったのだろうか。尻をはたいて立ち上がる。
肩をトントン、とハルトに叩かれた。きっと俺みたいに腰を抜かしたのだ。
「あああああああああああああ...!!!!!」というハルトの叫び声が後ろからする。俺はふり向く。タワシのように硬くボサボサの毛と紫色のイボの鹿。人間に似た歯でニチャリと
にまっ。
醜い鹿だ。俺は気絶したハルトを置いて、来た道の方へと逃げた。醜い鹿は笑いながら走って追いかけて来る。人間のような二足歩行だ。どんどんこちらに近づいてくる。まだ、何かを言っている。なんだ。なんだ?
「たすけ...て」
鹿はひずめを人の手のひらのように開き、ヨダレを垂らしながらものすごい勢いで走って追いかけて来る。やばい。やばい。逃げなきゃ。木々の隙間を全力で逃げる。絡まりそうな足を震わせて走る。息があがる。鹿は早い。すぐにでも追いつかれる。むふふと笑っている。鹿が笑っている。笑いながら走って追いかけてくる。
「むふふふふ!」
「あああああああ!!!!!!」
笑う鹿は俺の両肩を
鹿は俺を道に突き飛ばすと、上にまたがって、ひづめでゆっくりと俺の
「むふふ!」
そのまま笑う鹿は俺の口元を触り、ひづめで
「むふふふふ!」
俺は腕を伸ばして笑う鹿の体を押し返す。しかし、鹿は俺を軽々しく抑え込み、鼻先をザラザラとした青色の舌でペロリと舐めはじめた。黄ばんだ公衆トイレのアンモニア臭に胃酸のような酸っぱさが付け足されたような悪臭。カップラーメンを吐き出しそうになった。
「むふふふ!」
「ご、ごめんなさい!...めんなさい!ゆるして!ごめんなさい...!」
震える口で何とか言葉を投げる。すると、鹿の眼球の中に浮かぶ黒豆のような瞳がトロンと落ちて、俺の目を見る。鹿は口角をさらに上げる。
「...ゃん。...だよ」
すると、鹿を挟んだ正面に小さな影が現れたかと思うと、勢いよく、笑う鹿の背後から頭を何かで殴った。鹿の後頭部から流れる黒にも近い血の色が本来の赤色のようにも感じる。鹿は2つの前足で自分の頭を押さえて
「帰ろう、お兄ちゃん」
ハルトだった。ハルトは手に大きな石を持ち、血まみれの手で俺の方を見る。俺は返り血で生温かいハルトの手を握った。ベトベトとしている小さな手が
バッ、と俺はうしろをふり向いた。そこに笑う鹿の姿はない。すると、向かいの歩道にスケートボードを持った3人組の男性が奈良公園の方に向かって行くのが見えた。いま、そっちに行ってはダメだ。ヤスリで擦れたような喉からは声が出なかった。ゴホッゴホッ。走り続けたため、喉に溜まったタンが絡まる。車道を走り去る対抗車のライトでハルトが照らされた。赤黒い手やTシャツの染みを忘れたかのように、ボーッと街灯に群れる小蝿達を眺めている。
「ハルト、大丈夫か?」
「うん。大丈夫だよ。それよりさ、今日はもう帰ろうよ。ママとパパにバレたら怒られるからね」
「あ、ああ。そうだな」
「お兄ちゃん。どうしたの?俺の顔に何かついてる?」
「い、いや。なにもついてないよ。いつも通りのハルトだよ」
「むふふ。変なお兄ちゃん」
笑う鹿 古澤 @furusawa38383
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