笑う鹿 本編

「くらえハルト!」


「やめてよ!お兄ちゃん!」


 石の裏にいたダンゴムシをつまんで投げると、弟のハルトが涙目なみだめになって逃げ出す。その緊迫きんぱくとした表情が面白くて、たまらなく好きだった。県道80号線付近にある2LDKのアパートに俺たちは家族で住んでいた。俺とハルトとママと悠也ゆうやさん。4人家族だった。ママと悠也さんはいつも家にいない。2人とも仕事がいそがしいのだ。夕方ぐらいに仕事に出て、小学校に行く時間に帰ってくる。だから、ハルトの面倒はいつも俺がみていた。放課後はみんなと遊びたいけれど、家までの道を覚えていないハルトを1人にするわけにはいかない。まあ、俺はゲーム機を持っていないから、放課後に友達と一緒に遊ぶことはどのみちできない。それはもうあきらめたことだった。


 さて、そろそろ日も落ち始めるから、家に帰らないとな。ベンチに投げておいたランドセルから家のカギを出して、くくってあるひもを首にかけると、ハルトを連れて家へと帰った。学ランを着た中学生ぐらいの大人が俺たちの横を自転車ですぎて行く。来年から俺もあの服を着るという実感がかない。ふと、ハルトのランドセルについた交通安全の黄色いカバーを見た。小学校一年生のあかしだ。ダサいな。自宅のエントランスまで帰ると、ポストを開けて何もないことを確認。砂と埃が溜まったコンクリート製の階段を登って、部屋のカギを開けた。ママと悠也さんはもう仕事に出かけたあとだった。ゴミ袋の隙間すきまを抜けて、キッチンのたなにあるカップラーメンを適当てきとうに開け、ケトルでお湯をかした。リビングではハルトが扇風機せんぷうきに当たりながら、テレビを見ている。奈良県の都市伝説について、美人でもブサイクでもない女子アナウンサーが身を乗り出してしゃべっている。それに釣られるように、俺もテレビに視線を向けた。


「みなさんは奈良公園の深夜にのみ現れる、みにくい鹿についてご存知でしょうか。毛はタワシのように硬くボサボサで、ひたいには欠けたツノと紫色のイボがあるそうです。深夜しんやにその鹿を見ても皆さんは近づいてはいけませんよ?」


 奈良公園はウチの近所だった。ハルトの方を見ると、両手で目をおおって、体をブランケットの中に隠している。俺はいいことを思いついた。ケトルのお湯が沸くと、カップラーメンに注いで、ハルトがいるダイニングテーブルの方にラーメンと箸を持って行った。


「なあ、今日はママも悠也さんも朝まで帰って来ないよな」


「うん。ママもパパも明日の朝に帰るって言ってた」


「そうか。じゃあ、今日は2人で奈良公園に行くぞ」


「ええ!やだよ!ぼく怖いよ!」


 俺はハルトの頭をぶった。悠也さんにやられるように、握ったこぶしの先にある拳骨げんこつを直接つむじに当てる。ハルトは泣き出したので、もう一度行くか行かないかをたずねた。ハルトは何度もうなずいた。ダンゴムシなんかよりもずっと怖いものを見ているような目をしていた。


 カップラーメンを食べ終わると、ハルトを風呂に入れて体や頭をゴシゴシと洗う。俺が1年生の時には1人で風呂に入っていた気がする。ママも悠也さんもハルトには甘い。タオルで体を拭いて、髪を乾かしてやると、ハルトに服を渡して俺も風呂に入ろうとした。すると、ハルトも入って来て、俺の背中をボディータオルで流し始めた。


「濡れるから先に上がってろ」


「はーい!」と言って、ハルトはボディータオルを俺に返すと風呂場を出て行った。俺は頭も洗って髪を乾かし、動きやすい服に着替えた。今から奈良公園に鹿を探しに行くのだ。ハルトの手を引っ張って靴をはかせると、部屋のカギを閉めた。ハルトはすでに泣きそうな顔をして、震えつつイヤイヤながらも俺の後ろを着いて歩く。蜘蛛の巣が張られた廊下を抜けて、ピクトグラムの点滅する階段を降り、外へ出て、横断歩道を渡る。この時間は車が少ないなと思いながら、奈良公園へ向かう。


 ブロック塀に囲まれたアスファルトを歩くと、街灯に釣られた小蠅が顔に悪さをするので、それを手で跳ね除けて目的地へと進んだ。民家を抜けると信号があるが、この時間は車がめったに来ない。信号を無視して鷺池さぎいけを通り過ぎた。


 石畳いしだたみ舗装ほそうされた道に足をみ入れると、ふと、違和感いわかんを感じる。気のせいか。少し気温が下がった気がしたのだ。古ぼけた月が青い芝生しばふや木々を照らす。夜の公園は奈良県ならけん随一ずいいちの観光地だけあって、昼間とは毛色の違う幻想的げんそうてきな和の宮園みやぞのだった。 


「お兄ちゃん、帰ろうよ」とハルトが言う。俺はハルトの手をガッ、と引っ張ってさらに奥へと連れていくことにした。ハルトはひたすら指と歯をガタガタと震わせている。怖いのだろう。


 静かな広い園内をハルトと2人で歩く。普段は鹿の多い春日野園地かすがのえんちに向かうが、道中には人どころか鹿の1匹もいない。それに、半袖から生えた腕には小さなイボができている。鳥肌だ。夏なのにヒンヤリとしているのだ。ハルトの方を見ると、顔が少し青ざめてきている。指先も冷たい。それでも、俺たちは木々の間をゆっくりと抜けていき、砂の上を歩いて行く。ザッザッ、という足音とジージーと鳴くアブラゼミの声が園内に響く。俺たちが春日野園地に着くも、やはり鹿は1匹もいない。俺は園内の鹿を探した。人も探した。けれど、一向に人も鹿も現れない。おかしい。LED式の街灯はチカチカと光り、ハルトの顔色がどんどんと悪くなってきている。青ざめた肌色にはどこか暗い影が覆われており、どんどんと手が冷たくなっていく。


「お、おい、ハルト、大丈夫か?」


「ガタガタ、ガタガタガタガタ」という歯音でハルトが返事をする。やばい。帰ろう。来た道をふり向くと、しげみの方から物音がする。ガサガサ、ガサガサというる音。何かがいる。やばい、やばい。俺はハルトの手をにぎったまま、尻から倒れてしまった。腰が抜けたのだ。が来る...。バッ、としげみの中から鹿が現れた。なんの変哲へんてつもないただの鹿だ。鹿はこちらに気づくと、驚いたような表情を見せて、急足に逃げて行った。しか、鹿。鹿か。そうだよ。鹿を探しに来たんだよ。俺は。鹿を探してたんだ。ビビらせやがって、普通の鹿じゃねえか。


 けっきょく、この日は醜い鹿には出会えなかった。先ほどの寒さは何だったのだろうか。尻をはたいて立ち上がる。


 肩をトントン、とハルトに叩かれた。きっと俺みたいに腰を抜かしたのだ。


「あああああああああああああ...!!!!!」というハルトの叫び声が後ろからする。俺はふり向く。タワシのように硬くボサボサの毛と紫色のイボの鹿。人間に似た歯でニチャリとわらい、サーモンピンク色の歯茎はぐき芝生しばふがついている。


にまっ。


 醜い鹿だ。俺は気絶したハルトを置いて、来た道の方へと逃げた。醜い鹿は笑いながら走って追いかけて来る。人間のような二足歩行だ。どんどんこちらに近づいてくる。まだ、何かを言っている。なんだ。なんだ?


「たすけ...て」

 

 鹿はひずめを人の手のひらのように開き、ヨダレを垂らしながらものすごい勢いで走って追いかけて来る。やばい。やばい。逃げなきゃ。木々の隙間を全力で逃げる。絡まりそうな足を震わせて走る。息があがる。鹿は早い。すぐにでも追いつかれる。むふふと笑っている。鹿が笑っている。笑いながら走って追いかけてくる。ほそ禿げたあし地面じめんげていかけてくる。なんなんだ。なんなんだよ。まじで。意味わからん。くそ、くそ。やばい。がちやばい。


 売店ばいてんのある曲がり角を抜けて、軽自動車の裏に隠れた。鹿はそのまま真っ直ぐと俺が通った道を走り去っていく。どこかへ行ったようだ。なんなんだ、あの鹿は。キミが悪いにもほどがあるだろ。俺は切らした息をなんとか落ち着かせようとする。唾が上手く飲み込めない。心臓の音だけが聞こえる。空気を吸って吐いて吸って吐く。咳をする。背中をさすられる。だれに?


「むふふふふ!」


「あああああああ!!!!!!」


 笑う鹿は俺の両肩をつかんだ。黒い鼻がヒクヒクと動く。むふむふという笑い声と見開いた目。充血している。焦点があっていない。むふむふ。ふふふふふふ。むふふ。


 鹿は俺を道に突き飛ばすと、上にまたがって、ひづめでゆっくりと俺のほほでた。ねっとりとした視線と砂利のついたひずめはどこか冷たい。


「むふふ!」


 そのまま笑う鹿は俺の口元を触り、ひづめで口角こうかくを無理やりに押し上げる。むふふ。という笑い声。堅い毛が服の繊維せんいを抜けて肌を傷つける。押し返そうとしてもかなわない。すごい力だ。毛の禿げた腹に溜まったピンク色の肉が笑うたびにヒクヒクと動く。


「むふふふふ!」


 俺は腕を伸ばして笑う鹿の体を押し返す。しかし、鹿は俺を軽々しく抑え込み、鼻先をザラザラとした青色の舌でペロリと舐めはじめた。黄ばんだ公衆トイレのアンモニア臭に胃酸のような酸っぱさが付け足されたような悪臭。カップラーメンを吐き出しそうになった。


「むふふふ!」


「ご、ごめんなさい!...めんなさい!ゆるして!ごめんなさい...!」


 震える口で何とか言葉を投げる。すると、鹿の眼球の中に浮かぶ黒豆のような瞳がトロンと落ちて、俺の目を見る。鹿は口角をさらに上げる。


「...ゃん。...だよ」


 すると、鹿を挟んだ正面に小さな影が現れたかと思うと、勢いよく、笑う鹿の背後から頭を何かで殴った。鹿の後頭部から流れる黒にも近い血の色が本来の赤色のようにも感じる。鹿は2つの前足で自分の頭を押さえてもだえている。


「帰ろう、お兄ちゃん」


 ハルトだった。ハルトは手に大きな石を持ち、血まみれの手で俺の方を見る。俺は返り血で生温かいハルトの手を握った。ベトベトとしている小さな手が無機質むきしつな素材でできているようで少し怖かった。それからは全速力で逃げた。芝生を駆け抜け、林を越えた。息があがる。今、俺は息を吸っているのか、吐いているのか分からない。薄くなっていく酸素の中をただ走り続けた。道路の方にまで戻る。公園を抜けたのだ。はぁ、はぁと息を吐く。手や脇に大量の汗をかく。シュイシュイシュイというヒグラシの鳴き声が日常の夏に戻ったようで、安心感をもたらす。

 

 バッ、と俺はうしろをふり向いた。そこに笑う鹿の姿はない。すると、向かいの歩道にスケートボードを持った3人組の男性が奈良公園の方に向かって行くのが見えた。いま、そっちに行ってはダメだ。ヤスリで擦れたような喉からは声が出なかった。ゴホッゴホッ。走り続けたため、喉に溜まったタンが絡まる。車道を走り去る対抗車のライトでハルトが照らされた。赤黒い手やTシャツの染みを忘れたかのように、ボーッと街灯に群れる小蝿達を眺めている。


「ハルト、大丈夫か?」


「うん。大丈夫だよ。それよりさ、今日はもう帰ろうよ。ママとパパにバレたら怒られるからね」


「あ、ああ。そうだな」


「お兄ちゃん。どうしたの?俺の顔に何かついてる?」


「い、いや。なにもついてないよ。いつも通りのハルトだよ」


「むふふ。変なお兄ちゃん」

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笑う鹿 古澤  @furusawa38383

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