本編
本編
1
手紙を読んで来てくれたんだね。ありがとう。……私は誰かって? とりあえず、イズミノキヨシとでも名乗っておこうか。君に聞いてほしい話があるんだ。この前……え? 名前を聞いたんじゃない? ……とりあえず私の話を聞いてもらおう。そうすれば、私が何者かは君にもいずれ分かるだろうから。いいね? 宝物も、その時になれば君のものだ。
さて、本題だ。
この前、私が住む家の大掃除をしていた時、屋根裏からとある一冊の本が出てきた。たいそう古い本で、私はそんなものがあると知らなかったから、非常に興味が湧いた。それでページを開いてみると、誰かの日記帳だった。墨と筆で書かれた日記だ。元の持ち主の名前を調べてみると、どうやら池の近くに住んでいた私の先祖らしい。それは江戸時代に書かれた日記帳だった。
これから君に話すのは、私が見つけたその内容だ。ここまで君は来てくれた。だから聞いてくれるね?
さあ、その道から先に進みたまえ。
2
ここまで来たら、もう戻れないぞ。
まずは日記を書いた私のご先祖様がどこに住んでいて、どんな生活を送っていたのかを君に話そう。ご先祖様は、今から360年と少し前、この井の頭池から北へ行ったところにある吉祥寺の村に越してきた。当時の吉祥寺村は新しく出来たばかりの農村で、現代ほど賑わってはいなかった。
ご先祖様には、妻と一人息子がいた。息子は村に越してきた頃ちょうど六歳だった。親子三人家族で、共につつましく畑を耕して暮らしていたようだ。日記にも、穏やかな暮らしぶりが書かれている。
だが、幸せな時間は短かった。まず、妻がいなくなった。物を売りに外出中、買い手のたばこの火が服に燃え移って死んでしまった。その数日後、今度は息子が家の火災に巻き込まれて、息を引き取った。愛する家族をご先祖様は立て続けに失ってしまったんだ。
なんてかわいそうなご先祖様だろう……
(ぱちぱちと火の爆ぜる音と共に女性の声)ねえ、熱い……どうして……私を見捨てた、の!
(雑音、イズミノキヨシの声が戻ってくる)(雑音で多少聞き取りにくい)私は、妻と息子を失った。(はっきり聞こえるようになる)……ご先祖様は火を極端に嫌うようになった。
それまで住んでいた家は息子が死んだ火災で焼けてしまった。焼け跡と畑はほったらかしにして、彼はこの井の頭池のほとりにあったぼろぼろの小屋へと移り住んだ。そう、今、君が立っている辺りだ。そこに無人の小屋があった。誰も住んでいなくて廃墟同然だったからね、元の持ち主に借りる事ができたみたいだ。たくさんの水がすぐ近くにあるからご先祖様も安心できたのだろうな。
それからというものの、ご先祖様は薬草を摘んだり池で魚を釣ったりして、蜘蛛の巣だらけの小屋で一人暮らし。長生きしたそうな。
……これだけかって? もちろん、私の話はまだ終わっていない。
3
続きを聞いてもらおう。と言っても、私のご先祖様が吉祥寺の村に引っ越すよりも前の話だ。
(突然、女性の声に切り替わる)許さない!
……あなたはどうして、私を置いていったの。口を塞いで。動けなくして。私の子も一緒に殺して。
一緒になってくれると約束していたのに。
ねえ、そこで聞いているんでしょう。返事をして。嘘つき。嘘つき。
そこのあなたに言っているの。
妻も子供もあなたにはいた。それをあなたは隠していた。私は愛しているのに、あなたは愛しているふりだった。
熱い。まだ、燃えているの。
あなたの妻と子供はもう私のもの。私から奪った何もかも、取り返してもまだ足りない!
全部焼けてしまえ。苦しいの、あとはあなただけ。
絶対に許さない。
(イズミノキヨシの声が戻る)続きを聞いてもらおう。と言っても、私のご先祖様が吉祥寺の村に引っ越すよりも前の話だ。
4
続きを聞いてもらおう。と言っても、私が吉祥寺の村に引っ越すよりも前の話だ。
吉祥寺村が出来る前、今から360年と少し前。当時の江戸の町の川沿いに、吉祥寺というお寺があった。
ある日、私はとある女性と出会った。何度か物を売り買いするうちに、私はその女性にすっかり惚れてしまった。美しい人だ。私と話す彼女の声は、清流の水にも似て日々の疲れを優しく癒すようだった。
妻子がいる私は彼女に独り身だと嘘をついて、しょっちゅう二人で外へ出かけた。家族には浮気をひた隠しにし、何か言われると店のための仕入れと言って誤魔化したものだ。
ただ、彼女との出会いから半年も経つと、私の恋は次第に冷めていってしまった。何がどうしてそうなったのか、それは君の想像にお任せしよう。だがこれだけは言える。彼女の愛は半年の間ずっと、冷めることなく続いていた。
――ご先祖様の話というのは嘘だ。君に今話しているのは全て、私自身が体験した事だ。だってそうだろう? 妻も子供も死んでいるのに、子孫がいるわけがない。
嘘をついていた事は謝ろう。だが、宝物は欲しくないか? 先に進んで、話を聞いてくれ。
5
今も覚えている。いつものように、私は彼女と会っていた。私たちは彼女の住み家でどうという事のない世間話をしていたが、その日は風が強く、戸板のがたがた言う音がうるさかった。いよいよ私は別れを告げようと思っていた。
にわかに外が騒がしくなった。どうも風だけのせいではない。一人で外の様子を見に出ると、近くのあちこちで煙が上がっているのが見える。大火事だ! という声が響き渡った。
この日は江戸の街じゅうが燃えていた。のちに明暦の大火と呼ばれる、有名な、恐ろしい大火事の日だったんだ。
火の手が迫っていた。彼女の住み家に引き返すと、私は彼女の前に立った。彼女は何が起きているのかと私に尋ねようとして、口を開けた。そこで私は無理やりあの人の口の中に綿を詰めて声を出させないようにし、柱の一つに縄で縛り付けたんだ。
急いでまた外に出て、戸を閉めた。熱風が吹いていた。隣近所の人たちも大慌てで逃げ出し始めたよ。その中の一人が逃げ遅れた人はいないかと私に向かって聞いてくるものだから、もう中に誰もいないと嘘をついた。本当は愛し合った彼女を縛って逃げられないようにして、置いてきたのにな。
あれが彼女と会った最後の日……になるはずだった。
さあ、もっとこっちに来たまえ。
6
……どうして火の手が迫るなか彼女を置いてきたかって? ああ、悪い事をしたと思っているよ。でも、人はときに魔が差して、いつか取り返しのつかない事をしてしまう。
江戸を襲った大火事で、私が商いをしていた門前町も焼けてしまった。生き残った人たちは別の場所に移住する事となり、移り住んだ先は吉祥寺村と呼ばれるようになった。私も家族と一緒に引っ越してきたわけだが……先に話したように、妻も息子も死んでしまった。
妻はたばこの火が燃え移って死んでしまった。息子は私が農作業にいそしんでいる間に家ごと焼けてしまった。それで思った。私がわざと大火事で死ぬようにと仕向けたから、あの女が怨霊となってたたったに違いない。
妻、息子と死んだから、次はいよいよ私の番だ。焼け死んでたまるものかと慌てて水が豊富な場所――井の頭池のほとりにやって来て、それから私はこの水辺を一度も離れなかった。
そういえば、以前住んでいた江戸の門前町も川沿いだった。その川は神田川という。そして井の頭池は神田川をさかのぼっていった先にある水源だ。どうもこの川は私と妙な縁があるらしい……話が脱線したな。
そう、家族二人の死が彼女の怨念によるものとするなら、次は私が死ぬ番だ。戦々恐々としながら、私は一人きり、何日も過ごしたよ。
季節が過ぎて、暑い夏の日だ。そうこうしている内に、怨念なんて気のせいと思えるようになってきた。私はすっかり油断して、その頃には火の用心を怠るようになった。本当に馬鹿だったと思うよ。
その日は、そう、君のいる辺りで、私は草取りをしていた。ふと声がして、振り向くと息子が立っていた。死んだはずの息子だ。おかしいだろう? 私が立ち尽くしていると、何も言わずおいでおいでと手を振っている。私の小屋からは煙が上がっていた。息子が消える。そして彼女が姿を現した。顔は笑っているのか、怒っているのか分からない。だが背筋のぞっとする表情だった。すうっと、こっちに向かって彼女は動き出した!
私は逃げ出した。何も考えず池の方へ走ったよ。恐ろしくて振り返る事ができないまま、水中に飛び込んだ。それから私は冷たい水の底に沈み、二度と土を踏んだ事はない。これが私の最期だ。君に礼を言うよ。感謝する。ここまで聞いてくれてありがとう。
振り返ってごらん。彼女が、ほら、君の後ろにいるぞ。
井の頭池にて –業火・水の底– kankisis @kankisis_syousetsu
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