遣不雨

古旗 明治

第0話 プロローグ

「何だ、金閣寺ってのも存外ちっぽけだ。」

ふと、男の少し残念そうな声が参拝道から聞こえました。男の他を除いて観光客らしき観光客は誰もおらず、ある種、彼の独壇場となっております。春先になって桜吹雪と共にひしめく観光客の面影は少しもなく、初夏のじめっとした雰囲気と亡霊の佇むようなそこなしの冷たさが、雨雲と共に辺りに茂っていました。ただでさえどんよりとした空模様の、まして午前の十時にぼろりとそんなことを吹きこぼされたものですから、私は何だか腹が立ってきたのです。私はあくまで、北山の野山で暮らす一匹の化け狐という少しばかり腰の引ける身分なのですが、それでも私の愛するこの金閣寺を、存外にちっぽけだと吐き捨てられるのは何とも頭に来るものがあるのです。ですからここは一つ、彼に恥の一つかかせてやろうと思い立ちました。

 ところで、化け狐というとやれ妲己だの玉藻前だの、物騒なものを思い浮かべるかと思われますが、ああいったものは所謂ステレオタイプなのです。外国人がカタナだとか、サムライだとか、ニンジャといったものを思い浮かべるようなものです。人間社会と同じく妖怪の世界も少しずつ変わっていくというのが世の常と言ったところで、近頃の化け狐は人を脅かしたり、たぶらかしたりといったことを下劣な趣味だと切り捨て、そういったことに躍起になる狐を時代遅れと蔑むような考えが主流となってしまいました。ふと私は、そんな渦中の最中で人をたぶらかすことに古臭い背徳感を覚えるようになってしまったのです。

 さて、私はいつも、眉目秀麗な舞妓として人を化かします。ふらふらと適当に名所を巡った後に、それらしい名目で山へ連れ、大層な景色や仏閣の幻覚を見せ、ぽんとその幻惑を解いて霞の如く消えたのち、男が青ざめる姿を見たり、夜になっても帰り道がわからなくなって一人哀れに蹲っては、泣き喚く姿をほくそ笑みつつのぞき見てやるのが好きなのです。

 そんな具合で、私はぽんと舞妓に化けました。久々に化けたものですからどうも、上手くいくか内心ひやひやしましたが、これもある意味で人を化かす醍醐味のようなもので、こういった駆け引きも楽しまなくては損と、茂みの中から飛び出して男にゆったり歩み寄りました。ばさりとわざとらしく、和紙に編まれた唐傘を広げてみると、男はついぞ自分がこれから大層哀れな格好をするとも知らず、馬鹿らしく不思議そうな貌をしてこちらの方を振り向きます。私はふっと笑いかけて、会釈を返してやりました。膝をゆるり曲げ、顔をにわかに傾けて目を細くする、あの少しばかり変わったお辞儀です。

 そうやって私は、男の顔や背格好を伺いました。年齢は35程度、細身で髪の毛はぼさぼさ、無精髭なんかも生え散らかして、土色の顔をした、なんとも疲れ切った顔立ちの男で、この蒸し暑い中紺色のオーバーコートと潜水艦の窓のような分厚いレンズの丸眼鏡がトレードマークの、いかにもひ弱そうな男でした。

 先刻にも申したとおり私は人を欺くのが好きな性分ですから、いかにも気骨たっぷりといったような大男の方が騙し甲斐もあるというものなのですが、ふっと趣向を反らしてこんな風な男を籠絡するのも面白かろうと思って、予定通りに彼をだまくらかすことに決めたのです。そんな風なことを考えてるうちに男は背中を向けて金閣寺を後にしようと、あの朽ちかけのような色をした大きな木の門へと背中を向けるので、わざとらしく手を掴んでやりました。びっくりしたような顔で、こちらを振り向くので、さぞかし痛ぶり甲斐があるだろう、最後にタネを明かした時の顔が楽しみだとほくそ笑む悪心を抑えて口を開きます。

「なぁ、あんた旅の人でしょ?せっかくですし、案内しましょうか?」

男は訝しんだような顔をして踵を返そうとします。

「やめてくれ、急いでるんだ。次のバスに遅れてしまう。」

なるほど、人を騙したのも実に50年以来といったところでしたから、人の警戒心の移ろいもまた、雲のように変わるのでしょうか。こういうことをいうといよいよ老婆のようでしたが、美女に誑かされた男ほど手籠にしやすいものも昔はそうそうなかったものです。今の人は賢いなあと、純粋に感心を覚えました。

と、そんな風な事を繰り返していると、いよいよざあざあと雨が降り始めます。

雲の布地から銀の縮緬を破り捨てたようにやってくるその驟雨に、人々は戸惑い始めたようでした。金閣寺の前の路地を行くサラリーマンや学生も慌ただしく雨宿り先を探してめいめいと彷徨っています。

「…遣らずの雨、か。」

先ほどの男は雨曇りを仰ぎ見るように見上げて、そんな事を呟き始めたのでした。傘は持ち合わせていない様子で、服の上の部分だけ染め直したようになっています。

彼の頬に一縷の涙の銀が流れたのを私は見逃しませんでした。私にもどうしてかはよくわかりませんがそんな様子を見ていると、彼はこちらを振り向いてきました。

「なぁ、君。さっき振り払って悪い事をしたが、雨宿りの場所を一緒に探してくれないか。」

彼のその声の裏には、幾重にも連なった弱さが皺となって喉元に張り付いたようでした。

「ええ、もちろん。」

そう言って私は彼を唐傘に入れると、金閣寺の前に立ち並ぶ木々を過ぎて北区の大路を共に歩き始めました。雨粒と傘のような、偶然にしてはでき過ぎている成り行きの二人の物語は、実にこんな調子で、なんとも格好のつかない雰囲気で始まったのです。

細かな砂利の波を揺らす二人の足音は不揃いながら、少しだけ周りの音より大きく聞こえました。

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遣不雨 古旗 明治 @whitepepper

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