僕が死んだら、妹にハムスターを買ってやってくれないか?

山南こはる

本編

「僕が死んだら、妹にハムスターを買ってやってくれないか?」


 岸本は昔からワケの分からない奴だった。

 同じ美術部の友人を相手に『僕の描く裸婦こそが最もエロスに満ちている』と叫びながら、印刷した裸婦の絵をばら撒いたのが最も有名だろう。友人と何を理由にケンカし、どうしてそんな話になったのか。砂川は何も知らないし、興味もない。しかしそれをきっかけに岸本は停学を食らい、美術部を追われた。

「砂川君。君、小説を書いていると聞いたが?」

 裸婦像ばら撒き事件がなかったとしても、ただでさえワケの分からない男なのだ。なるべくなら関わり合いになりたくないので、砂川は、

「趣味程度だ」

「何を書くんだ?」

「純文学」

「純文学だって? つまらないな。どうせなら官能小説を書いてみておくれよ」

「官能小説だと?」

「ああ、僕が絵を描いてやる。我々二人で組めば、ひと財産を築けると思うんだが」

 そして砂川は、岸本に言われるがままに官能小説を書き、彼は表紙と挿絵を描いた。内容は薬物浸りの不良学生が若い未亡人に誘われて一夜を過ごす物語だ。

「砂川君、君はなかなかエロスの才能があるね。官能小説で食っていけるのではないか?」

「冗談ではないぞ。こんなことばかりやっているからだろうな。最近、授業でペンを持つ度に勃っちまうんだ。女子からの視線が痛くて敵わん」

「ははは、それは大変だ」

 学校の印刷室に忍び込み、安い藁半紙に印刷したものをホチキスで本にした。若きリビドーに突き動かされた青年二人が綴るエロスな妄想。本は文化祭で飛ぶように売れ、岸本はもちろんのこと、砂川まで停学に巻き込まれた。今となっては、いい思い出である。


     ※


 彼が療養しているサナトリウムは、とある高原の、見晴らしのいい原っぱにぽつんと一軒建っていた。戦前よりはるか遠く、いつの時代に建築されたのかも定かではない平家の療養棟。二時間に一本しかないバス。そのバス停から更に歩いて二十分。街で見るよりも色の濃い空と、頭のすぐ上を通っていく雲。療養にはうってつけの、とにかく静かな場所だった。

「やあ、砂川君。わざわざ来てくれたのか」

 同級生からの手紙には『重症と見える。遠からず果てるのではないか』とまで書かれていたが、岸本はずいぶん元気そうに見えた。彼は寝台にスケッチブックを投げ出したまま、ナイフで鉛筆を削っている。

「適当に座ってくれ。今、終わるから」

「ああ」

 勧め通り、砂川は木製の丸椅子に腰掛けた。病室には画材や描きかけの絵が放置されていて、それだけ見れば高校の美術室と大差がないように思える。

「指を切るなよ」

「気をつけているさ」

 スケッチブックをめくる。そこには数十人の裸婦がいて、全員がそれぞれ違う扇状的なポーズを見せつけてくる。

「岸本君。君はまた裸婦なんてものを描いているのかい? ったく、いやらしいものを」

「画家が裸婦を描くのに、下心などはないよ」

「でも彼女たちは……、特にこの女性なんかは、男を誘っているようにしか思えないのだが」

 乳首に局部、陰毛の一本一本まで細かく描き込まれている。

「それは隣の部屋の老人からの要望だ。言い値で買い取ると言ってくれたのでね」

「なら早く売ればいいじゃないか。これ、もう完成しているんだろう?」

 彼は鉛筆から顔を上げる。小さなナイフを折り畳み、

「そうもいかないよ、砂川君。何せそのご老人は、先週亡くなってしまってね」

 サナトリウム。付き合いのある患者の死。今の岸本にとってあまりいい話題ではないはずだが、彼はあっけらかんと、

「娘さんがご遺体を引き取りに来たのだが、まさかご婦人に裸婦の絵を買い取らせるわけにはいかんだろう? だからこうして買い手を待っている。

 ……ああ、よかったら君が買ってくれないか? 新作の挿絵に使ってくれても構わない」

「遠慮しておくよ。俺は純文学専門なんだ。官能小説など、食うためにやっているだけだ」

「そうか、それは残念だ。君と僕が組めば、また大金を稼げるかと思っていたんだが」


「ところで岸本君、あの絵は? なかなか気合の入った水彩画じゃないか」

「ああ、あれかい? あれは昔、ここで勤めていた看護婦なんだそうだ。写真だけ見て描いたんだが」

「相変わらず上手いな。しかし服を着ているだけで、一気に芸術のように見えてくる」

「院長からの依頼でね、実は前金ももらっている。結構な額だ」

「へえ。君もついに本物の芸術家か」

「そう言えればいいんだがな、院長はこの絵をオカズにして自慰をしたいらしい。どれだけ美しく描いても、院長の精液がべっとりと付きやがる。芸術もへったくれもないだろう?」

「確かに。それはひどい」

 そうしてしばらく、二人でゲラゲラ笑いながら近況報告をし合い、昔話に花を咲かせた。だが時折思い出したように、岸本はゴホゴホ咳をした。

「大丈夫かい? 水をもらってこようか?」

「なに、大したことないさ。それより僕が言うのも何だが、砂川君もなかなか顔色が悪いようだね」

「酒がやめられないんだよ」

「そうだった、君はたいそうな酒飲みだったな。タバコもまだ続けて?」

「まあな。……実は恥ずかしい話、それだけじゃない」

「と、言うと?」

「え、あ、まあ……。薬物だな」

「おいおい、砂川君。悪いことは言わない。薬物はやめたまえよ」

「そう心配するな。ちゃんと合法のものだ」

 細く開いた窓の隙間から、乾いた高原の風が吹き込んでくる。砂川は忘れないうちに紙袋を手渡す。

「ほら、頼まれていた画材だ」

「ああ、恩に着るよ」

 スケッチブック、鉛筆。筆に絵の具、よく分からない溶剤は画材店の店主に選んでもらった。岸本は白いシーツの上に画材を広げ、うんうんと満足そうに頷く。そして寝台の隣の棚から薄茶色の封筒を取り出した。

「代金と礼だ」

「構わないよ、俺にもそれくらいの金はあるさ」

 ウソ。本当は喉から手が出るほど金が欲しい。

 岸本は微笑み、

「いいや、親しき仲にも礼儀は必要だ」

「……分かった。では、ありがたく頂戴するよ」

 代金と謝礼だけにしては、封筒は厚く重みがあった。砂川の困惑を察知したのか、彼は、

「それともう一つ、頼まれて欲しいことがあってね」

「またお使いか?」

「ああ。君、僕に妹がいるのは知っているな?」

「ああ、美津子ちゃんだろ? 名前だけは何度も聞いているぞ。今、いくつだ?」

「僕と十四歳も違うからな。まだ十二歳だ。その妹が何だかな、ハムスターを欲しがっているらしくて」

「はむすたー? 何だ、それは? 新しいタバコか?」

「まさか。愛玩用のハツカネズミのことだ」

「愛玩って、ネズミを飼育するのか? ずいぶん奇怪な趣味だな」

「砂川君もそう思うかい? 正直、僕もそう思うよ」

 彼は片付けたばかりの鉛筆とスケッチブックを取り出し、サラサラと何かを描いていく。ただの丸と線が、数分後にはハツカネズミになる。

「親父から手紙が来たんだよ。『美津子がハムスターを欲しがっている』ってな」

「へぇ」

「お袋が死んで、何せ僕もこんなだからね。親父もずっと付き合っていた二号さんと再婚するらしくて、お腹には子どももいるんだと。だから寂しいんだろう。せめて僕が健康なら、もう少し構ってやれたものの」

 岸本はスケッチブックを破り、描き終えたハツカネズミの所だけを器用に切り取って砂川に寄越した。なるほど、確かに砂川の知るネズミよりは可愛らしいが、やはり害獣を飼いたがる気持ちは理解できない。

「その『はむすたー』とやらはそんなに高額なのか?」

「いいや、分からん。しかし、しょせんはネズミだぞ? さほど値が張るとは思えん。ただ飼育するためのカゴや水飲み、後は敷き藁も必要らしい。

「俺の家よりも快適そうだ」

「そうかもしれないな。まあ余ったら、君の生活費にでも充ててくれ。

 あ、しかし酒とかタバコには使ってはいけないぞ。薬物も論外だ。砂川君、悪いことは言わない。健康こそが一番だ」

「ああ、分かっているよ。岸本君こそ、早く良くなっておくれよ」


     ※


 砂川という男は人情に篤く、面倒見のいい善良な男だ。しかしいかんせん、だらしがない。酒やタバコ、薬物に手を染めること、原稿の納期を守れないなど枚挙に暇がないが、その中で一等ダメな部分はやはり金銭面である。

 画材代を出そうとした岸本に『それくらいの金はある』と言ったのは虚勢だ。借金で首は常に回らず、生活のために手元のものは何でも質に入れた。実家の貴金属類や記念コインに切手、母の着物を売り飛ばしたことがバレて勘当され、頼れる家族もいない。

 学生時代の友人が数名、少し前に破局した交際相手。近所の飲み屋と定食屋に多額のツケ、奨学金の返済も滞っている。それでも手元に金が入れば、すぐに酒とタバコ、薬物へと替えてしまう。親に勘当されるのも、女に捨てられるのも至極真っ当な結果であった。

「ただいま」

 だらしない男を迎えるものはいない。ボロアパートの二階の角部屋。西日が差し込んできてムッと異臭のする部屋で、砂川は買ってきたばかりの酒を広げる。栓抜きを探すのに少々手まどった。飲み残しで散らかったちゃぶ台の上、ツマミにした瓜の煮物。まだ食べられるかと箸で切ってみるが、納豆のように糸を引いている。砂川は立ち上がり、瓜をゴミ箱に捨てた。

 酒とタバコを嗜みながら、手紙や新聞に目を通す。方々の友人や同級生に新たな借金を申し込んでみたが、ことごとく断られ、中にはやんわりと『縁を切りたい』と告げる文面もあった。家賃も滞納を続けているし、このままでは住処も追われてしまうかもしれない。

「はぁ……」

 タバコを吸いながら、頭の中ではずっとそろばんを弾いている。とりあえず、今月末に入る原稿料を家賃に充てる。岸本には悪いが、ハムスターは見つからなかったことにしよう。

 日が落ちてから白熱灯の下で原稿用紙を広げる。本命の純文学は進まなくても、生活のための官能小説はよく書けた。

 登場人物の女は、岸本の病室で見た裸婦をモデルにした。サナトリウムで死んだ老爺。彼が思い描いた女が、四百字詰めの原稿用紙の上、股を開き、いやらしく喘いでいる。女が上で男に跨っていた。二人の接合部分、女の陰毛の一本一本までよく見える気がする。

 そして砂川は自分の文章をオカズにして自慰をし、書き損じの原稿用紙の中に射精した。

『画家が裸婦を描くのに、下心などはないよ』と岸本は言った。高原の爽やかな空気と、原っぱを揺らす静かな風の中で。対して自分は蒸し暑い都会の空気を更に汚し、目指す芸術とはほど遠い何かを書き殴っている。生活のために、借金を返すために。あるいは酒やタバコや薬物による快楽のために。そしてそれらを上書きするように、独りよがりな欲を吐き出している。

「……何が芸術だ」

 砂川は薄茶色の封筒から金を出し、全て自分の財布に収めた。ハムスターはいなかった。探したけど見つからなかった。彼が即席で描いたハムスターの絵が出てきたけれど、目を瞑って握り潰し、射精した原稿用紙と一緒にゴミ箱へと放り投げた。


     ※


 次、砂川がサナトリウムを訪ねたのは、もうすぐ夏も終わる八月の末だった。

 彼は病室におらず、隣室から出てきた青年に問うと、「きっと中庭にいると思いますよ」と言われた。立て付けの悪そうなサッシ戸の向こう、部屋の壁には岸本が老爺に売り損ねたと言っていた裸婦の絵が飾ってあった。

 青年の言う通り、岸本は中庭にいた。ひまわりがたくさん咲いた小さな庭。彼は頭の二倍くらい大きな麦わら帽子を被っている。

「やあ、来てくれてうれしいよ。よくここが分かったね」

「隣のあんちゃんが教えてくれたんだ。画材は部屋に置いておいた」

「ありがとう、感謝する」

 風が吹き、ひまわりの重たそうな頭が揺れる。彼は、

「彼は僕のお得意さんでね」

「例の『死んだ爺さんから頼まれた裸婦の絵』も飾ってあった」

「そう、彼はたいそう気に入ってくれたから、安値で譲ったよ」

「買い手があってよかったじゃないか。爺さんも裸婦も喜んでいるだろうよ」

「だといいのだがね。ところで彼、ここの看護婦の一人と恋仲になったそうなんだが」

「へぇ」

「今度は彼女のヌードを頼まれているんだ。もちろん、こっちは高値で」

「看護婦か。本人に見つからないようにするのが大変だな」

「その通りだ。彼女の目を盗むのに必死なんだから」

 岸本は建物の隅、日陰の中にしゃがむ。具合が悪いのだろうかと砂川は焦るが、ただ水道でじょうろに水を入れているだけだった。

 砂川は小さな動揺を飲み込み、わざとヘラヘラ見えるように笑う。

「彼もその看護婦のヌードで抜くのかね?」

「僕もそれを訊いてみたよ。そうしたら怒られた。『画家というものはいつもそんなことを考えているのか⁉︎』と」

「それで、君は何と?」

「『エロスはカネになるんだ』と言っておいたよ」

 そう言って彼も笑う。ブリキのじょうろを手に、枯れかけたひまわりに水をやる岸本。小さなじょうろはすぐに空になって、彼はまた日陰に戻って水道栓を捻っている。

 薄暗い日陰の中、病衣の背中が白く眩しい。

 学生時代、黒い学ラン姿の頃よりもずいぶん痩せた。特に腕の筋肉が削げたように思う。二人して並び、ペンを動かし続けた日々を思い出す。砂川は原稿用紙に官能小説を、そして岸本は、それを題材にした挿絵を。儲けた金で酒を飲んでいるのがバレて、二人揃って停学になった。今度は興味本位で美味くもないタバコに手を出し、岸本が激しくムセて大変だった。

 そして今、砂川は酒とタバコにどっぷり浸かり、岸本はサナトリウムに閉じ込められている。

 高原の冷たい風の上、まだ夏の名残がある太陽が、ジリジリと肌を焼いていく。

「ところで砂川君。ハムスターは買ってくれたかい?」

 風が止まる。

 太陽が、雲に隠れて暗くなる。

 粘った唾を飲み込んで、砂川は、

「いいや、遅くなってしまって悪いな。色々探してはみているんだが、何でも珍しいものらしくてな。近くの畜犬商でも、取り扱ってはいないそうなんだ」

 それを聞いて岸本は少し残念そうに微笑む。

「そうか。まあ、急ぎではないからな。君も仕事が忙しいだろうし、余裕があったらで構わない」

 風が流れ、雲が動く。再び陽光に照らされたひまわりたちは、皆が揃って東に顔を向けている。目が少しチカチカする。

「なあ、砂川君。知っているか? ハムスターはひまわりの種を食べるらしい」

「いいや、知らなかったな。それで君はひまわりを育てているのか?」

「ああ、いつかこれを『ハムスターに食べさせろ』と、妹に送ってやろうと思っているんだ」

「……そうか。今の原稿が片付いたら、また畜犬商の所に行ってみるよ」

 眩しい視界の中央に、ギラギラした歯車のようなものが見える。手が小さく震え始め、それを隠すために、強く拳を握る。

「大丈夫か? 君、顔色が優れないようだが」

「ああ、ちょっと便所に行ってくるよ」

 砂川は建物へと駆け込む。そのまま岸本の病室に入り、彼の寝台へと倒れるように座る。

「……っ」

 震える手。懐から小瓶を取り出し、中の錠剤を二錠、取り落とさないように口に放り込む。噛み砕くとひどく苦かったので、枕元の水差しから白湯を拝借する。

「はぁ、はぁ……」

 症状が落ち着くまで、岸本のベッドで横になる。目を閉じると、音がよく聞こえる。時計の針の音が、高原の風が、歪んだ窓ガラスをガタガタ揺らす音が。シーツから岸本の皮脂の臭いがする。風呂は三日に一回しか入れないのだと、前回来た時、愚痴をこぼしていた。

「はぁ……」

 苦痛をやり過ごし、目を開ける。何時間も寝ていたような気がするが、時計を見るとまだ十五分しか経っていなかった。体を起こすとヌードの女性の水彩画がこちらを見つめている。隣室の青年が要望した、恋仲の看護婦の絵だろう。

「……」

 岸本が金をどこに隠しているのか、以前見たから知っている。寝台の隣の棚、本同士の隙間に挟まった薄茶色の封筒の中。札が数枚。彼のサナトリウム内における商売はなかなか繁盛しているらしい。キョロキョロ振り向き、誰もいないことを確認する。そして中身の一部を抜き取り、慌てて懐に押し込んだ。

 大丈夫、誰も見ていない。分かっている。次来た時には、きっと返す。

 キャンバスの上、ヌードの看護婦にはまだ目が描かれていなかったが、咎められているような気がして心がざわついた。砂川は気持ちを切り替えるように、両手で頬をパシパシ叩く。そして病室を出て中庭へと足を向ける。

「すまない、遅くなった」

 夏の終わり。青い空、湿度の低い風。遠くどこまでも続く入道雲。白いペンキが剥げたサナトリウムの壁と、枯れ始め、重い頭を垂れて東を向くひまわりたち。それを見つめる病衣姿の岸本の背中。

 やはり彼は痩せた。骨格までもが縮んだようだ。大きな麦わら帽子のせいで顔は見えないが、錆びたブリキのじょうろを手にする彼は悲しそうだった。

 じょうろの口から、水滴が落ちる。

 岸本は静かに振り返り、

「おや、戻ってきたか。待ちくたびれたよ」

「悪いな、何か当たったようだ」

「酒の飲み過ぎじゃないのか?」

「そうかもしれん。ツマミの煮物がちと傷んでいたようだったから」

「この時期は煮物なんて足が早いからね。食べ残しはいけない」

「そうだな」

「それと、気をつけたまえよ、砂川君。何度も言うが、健康は大事だ。酒とタバコもそうだが……、薬物も」

「忠告痛み入るよ。やめられるよう、努力する」


 サナトリウムからの帰り道、砂川はネコババした金で酒とタバコを買った。そして裏路地に行き、売人から薬物を受け取ると、その場で噛み砕いて酒で飲み流した。

 ――何やっているんだろ、自分。

 路地裏のゴミ捨て場、建物の影に切り取られた夕日は小さい。生ごみを漁る野良猫を眺めながら帰路についた。

 暑く湿った都会の空気。子どもの笑い声、錆びついた自転車のブレーキの音。豆腐売りのラッパの音。屋台のラーメンの匂い、近所の家から漂う大根の匂い。

 アパートの庭にもひまわりが咲いていた。多分、大家が育てているものだ。小さな植木鉢に不釣り合いな大きな頭。岸本の育てたひまわりと同じように東を向いているが、心なしかぐったりしているように見えた。


     ※


 それから冬が過ぎ去り、春が来るまで、岸本から葉書が来る度にサナトリウムを訪ねた。間隔はだんだん長くなり、画材の減りも徐々に遅くなっていった。

「やあ、来てくれたのか。嬉しいよ」

 いつもは起きて出迎えてくれる岸本は、伏せったまま目だけをこちらに向けた。

「調子は……。良くなさそうだな」

「今日は割といい方なんだがね。何せ君が来てくれたんだ。それ、もう元気だ」

 彼は寝台の上から起き上がる。はだけた病衣の隙間から、病人らしい白い肌と肋骨がチラリと見えた。

「絵は描いているのか?」

「少しずつ描き進めてはいるんだが、なかなかどうして、寝ている時間が増えてしまって」

 彼の言う通り、描きかけの裸婦の絵が放置されている。美術に詳しくない砂川が見ても分かるくらいに、デッサンは歪み、線も震えていた。

「砂川君」

「どうしたね?」

「ハムスターは、見つかったかい?」

 いつもと同じはずの彼の目が、怖かった。

「あ、ああ……。探してはいるんだが、なかなか見つからなくて。犬とか猫とか、あと小鳥ならアテがあるんだが」

 ウソだ。本当はいたのだ、ハムスター。都心の有名な畜犬商の片隅に。ドブネズミよりも小さな、白い毛をしたハツカネズミ。でも買えないのだ。金がないから。岸本から預かった金は全て、酒とタバコと薬物に使い込んでしまったのだから。

 砂川は取り繕おうと笑ってみせるが、口角がうまく上げられない。それを見て一瞬、岸本は悲しそうな顔をしたが、彼もまたすぐに微笑んで、

「そこの棚に金がある。……そう、本の間に挟まっている、茶色の封筒だ」

 砂川は封筒を手に取った。以前よりずっと少ない額だったが、ネズミ一匹買うには十分な額だった。

「頼むよ、砂川君。今度こそは妹にハムスターを買ってやっておくれ。……それと繰り返すが、体は大事にすること。酒とタバコは控える、薬物はやめる。――無論、ネコババなんてものはもっての外だ。人として恥ずべき行いはしてはならないよ」

 岸本は気づいていたのだ。砂川の使い込みを。そして先日の窃盗も。それでも見ないフリをしてくれたのはなぜだろう。

「砂川君」

「……何だい?」

「いい小説家になれよ」

「あ、ああ……」

「今日は来てくれてありがとう。嬉しかったよ。それと」

 彼はゆっくりと砂川を見つめる。中庭から差し込む光でよく見えなかったが、はっきりと笑っていたと思う。

「僕たち、友達だよな?」

「……ああ」

 胸に込み上げる罪悪感を飲み下し、サナトリウムを辞去した。それが砂川の見た、岸本の最後の姿だった。

 翌日、砂川は例の畜犬商の元に出向いたけれど、ハムスターはもういなかった。生まれて日が経ち過ぎたので、トカゲの生き餌にされたそうだ。次の入荷は未定だという。畜犬商からはハムスターを飼育するためのカゴと敷き藁だけを買った。

 帰り道、余った金で酒とタバコを買い、近所の公園の長椅子に腰掛けて口にした。だが岸本の忠告に従い、薬物だけは買わなかった。

 彼の声が耳元で聞こえる。――妹にハムスターを買ってやってくれ。人として恥ずべき行いをしてはならない。僕たち、友達だよな?

 以後、暇さえあれば畜犬商を回ってみたが、ハムスターはどこにもいなかった。岸本からの便りは途絶え、約束を破った罪悪感もあり、砂川の足はサナトリウムから遠のいた。

 砂川の生活に、岸本の気配が消えた。

 それでも彼の忠告だけが、心の端に引っかかっている。

 春が過ぎ、夏が来て、また夏が終わろうとしていたある日。サナトリウムから『岸本が死んだ』と電報が届いた。砂川は書きかけの原稿を放り出し、列車とバスを乗り継いでサナトリウムへと走った。夏場で傷むのも早いからだろうか。砂川が駆けつけた時にはもう、岸本の遺体は火葬されていた。

 砂川は看護婦の――例のヌードの絵の看護婦に案内され、病室に入った。主人のいなくなった病室はがらんとしていて、去年と同じ夏の風が吹き込んでいた。

「遺骨は?」

 砂川が訊くと、看護婦は、

「近くの寺で、無縁仏として葬られる予定です。ご家族の方が――お父様が、引き取りを拒否されたので」

 死んだ実母、二号さんと再婚。腹には子ども。新しい家庭を持った実父は、病身の彼を疎ましく思っていたのだろう。

「遺品は砂川様に引き取っていただきたいと、岸本さんが」

 彼の荷物は多くない。数冊の本、使いかけのスケッチブック。未使用の鉛筆と画材。それから薄茶色の封筒。シーツを剥がされた布団の上、段ボール一つに収まってしまった彼の遺品。

「岸本君があなたのヌードを描いて、隣室の青年に売りつけていたのはご存じですか?」

「ええ、存じ上げています。彼は結構な額で買ったようですね」

「つかぬことを伺いますが、彼は今どちらに?」

「亡くなりましたよ。彼の棺には、岸本さんの描いてくださった絵を入れました。彼は喜んでいましたよ」

「そうでしたか」

 その後、廃屋のような寺で岸本は弔われた。砂川とサナトリウムの関係者しかいない、ひっそりとした葬式だった。


     ※


 十年後。

 砂川は畜犬商からハムスターを譲り受けた。白い毛をしたメスのハムスターだ。昔買ったカゴに敷き藁を敷き詰めて、ハムスターを入れて電車に乗った。

 彼の遺品を引き取り、スケッチブックの裸婦像を壁に貼ったその日から、彼のことを忘れた日はない。強い罪悪感も、罪を許してくれた感謝も。

 彼の忠告に従い、酒をやめ、タバコを断ち、薬物から足を洗った。毒素が抜けきった目で見た世界は、色鮮やかで美しかった。それを綴った作品で賞を取り、名前が売れた。作家として生きていけるのは、他でもなく彼のおかげだ。

 砂川は左手に住所と地図のメモ、右手にハムスターのカゴを抱え、住宅街をウロウロする。

「おかしいな」

 ――確か、この辺のはずなんだが。

 閑静な高級住宅街。場違いな身なりのまま、カゴを抱えて数十分。ついに見つけた。岸本の家。建て直したばかりだろうか。彼の実家は一際大きく、豪奢だった。

『成金』という言葉が頭にチラつく。間違いなく『岸本』の表札を確認し、

「あの――」

 守衛の男に声をかけようとした瞬間、家から言い争う声が響く。

 老人の怒声、飛び出てくる若い女。よく聞き取れないが『恥知らず』だの『売女』だの『勘当だ‼︎』と聞こえる。若い女は『ベーッ!』と舌を出し、『とっととくたばれ! クソジジイ‼︎』と叫ぶ。そして守衛の制止を振り切り、どこかへ行こうとする。

「あの、すみません。岸本美津子さんですか?」

「え? あ、はい。そうですけど。何か?」

 強いパーマ、厚い白粉、濃い頬紅。あんな真っ赤な唇、雑誌や広告でしか見たことがない。これではまるで売春婦ではないか。

 砂川は美津子の厚化粧に驚きながらも、懸命に説明した。君のお兄さんと友人だったこと、君にハムスターを買ってやってくれと頼まれたこと。金をネコババしたことだけは伏せたまま。

「……」

 長い話、めちゃくちゃな時系列。売れっ子小説家であることがウソみたいだ。しどろもどろな言葉、抱えたハムスターのカゴ。どう見ても不審者だ。

 美津子の怪訝そうな顔から、興味が消えた。困惑した相槌がなくなった。

 鋭い目が冷たい。それでも砂川は、説明をやめなかった。

「だから、それで自分は――」

 ハムスターを買ってきた。遅くなってすまなかった。

 風呂敷で包んだカゴを差し出す。中でハムスターが『チチィっ』と鳴いた。それを聞いて美津子はピクリと肩を揺らす。

 彼女は手を出さなかった。

「あの、美津子さん?」

 カゴの中から響いてくる『チチッ、チチィ』という鳴き声。美津子はそれを、便槽の中を覗くような目で見つめている。

 彼女の真っ赤な唇が、嘲るように動く。

「ハムスター、ですか。昔、友達が飼っていたから羨ましかっただけですよ。まさか父も兄も、真に受けていたなんて思いませんでしたけど」

 半開きの扉の向こうから、老人の怒号はまだ続いている。しわがれた声。彼が岸本の実父だろう。病身の息子を訪ねず、愛人との暮らしを優先し、弔いも放棄した父。

 守衛が申し訳なさそうに頭を下げ、扉を閉める。怒号はパタンと聞こえなくなった。

 美津子は、

「すみませんけど、お友達を待たせているので」

「え、ああ。じゃあ、この子は」

「処分してもらっていいですか? 今の私にはもう、必要ありませんから」

 彼女は砂川を押し退けて駆け出す。髪から香水とタバコの臭いがする。甲高いヒールの音とクラクション。

 通りの反対側に、白いハイカラな車が待っている。運転席、派手なシャツを着たサングラスの青年。ボーイフレンドだろうか。美津子は彼と言葉を交わし、助手席に乗る。派手な化粧の岸本美津子は、売春婦のような身なりで乙女みたいに笑っている。

 そして車はものすごいスピードで走り去り、後には静けさとガソリンの臭いだけが残った。

 ――岸本君、ごめん。

 自分が不甲斐ないばかりに。自分が弱くて、酒や薬物にどっぷり溺れていたばっかりに。

 砂川はやるせない思いを飲み込みながら、ハムスターのカゴを抱える。『チチッ、チチッ』と、カゴの中から悲しそうな声が聞こえた。


 道すがら、久しぶりに酒とタバコを買い込んだ。暑く蒸した室内に風を入れ、部屋の隅っこにハムスターのカゴを置いた。

「君は今日から『キシモト』だ」

 ハムスターに苗字を、しかもメスに男性の友人の名前なんて、おかしいかもしれないけれど。

「お前はひまわりの種を食べるそうだな。本当か?」

 段ボールを開ける。彼の遺品からひまわりの種が入った紙袋を出し、中身を数粒落としてやると、キシモトはすぐにカリカリかじり始めた。

「さあ、新作でも書くか」

 砂川は原稿用紙と向き合う。壁に貼った裸婦の絵が笑っているように見えたけど、それは多分、気のせいだと思う。

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