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 近場に良いカフェがないかと聞いても、凛香は分からないと首を振るだけだった。

 仕方なく駅前に戻り、落ち着いた雰囲気が売りのチェーン店を選んだ。

「お代は私が」

 オレンジジュースの代金を払おうとする凛香を慌てて止める。

「お付き合いさせてるのは私の方なので」

 凛香が財布をしまうのを見届けてから、私は口を開いた。

「週末はよく、こちらに来られるんですか?」

「はい」

「どれくらい?」

「頻度、ですか」

「ええ」

「このところは、毎週」

「土日どっちも、ですか」

「基本は、そうです」

 事も無げだった。

「今のお住まいは、この近くなんですか?」

「いや、池袋の方で」

 だとしたら電車でもかなりの時間がかかる。

「じゃあ、休みはいつ?」

「休みというか、まあ別に家にいても、やることないので」

 私は感情が顔に出やすいタイプではないが、勘良く察した凛香は稔と菊子を庇った。

「両親は悪くないんです。別に毎週来てくれなくても何とかなるって言ってくれてます。私が来たいから来ているだけです。平日はヘルパーの方が来てくれてますし」 

稔と菊子への虚ろな視線を見たばかりだ。言葉通りには受け取りがたい。

「余計なことを聞いてしまって、すみません」

 一応の詫びを入れてから、

「私の父に事件の再捜査を依頼すること、凛香さんはどう思いました?」

 凛香の口は、しばらく開いては閉じという動作を繰り返した。

「どちらかと言えば、賛成と反対のどちらでした?」

 分かりやすい二択に絞ると、

「反対に、近かったです」

「どうして?」

 少し間を置いてから凛香は言った。

「無駄だと思ったので。調べ直してもらっても、結論が変わるわけないし、そもそも引き受けてくれるわけがないと思いました」

「だけど、おかしなことに父は引き受けた」

 おかしなこと、というのは本心だ。

「あなたも驚いたでしょう?」

「両親も驚いていました」

「あなたから話を聞くときの父は、どんな様子でした?」

「すごく、熱心でした」

「父の態度とかで、何か気になるところはありませんでしたか」

 言い終わるか終わらないかのうちに、凛香は首を振った。

「どんな細かいことでもいいんですが」

「ありません」 

 断固とした否定だった。

 言葉を止め、オレンジジュースを口に含む。凛香はオレンジジュースには手を付けず、水を唇をつけた。

「ねえ」

 私は尋ねた。

「覚えてる? 私と昔、会ったこと」

 苦い笑みが凛香の顔をよぎった。

「はい」

 ドキリとした。

「あなたは今でも、あの時と同じ気持ち?」

 どこからか、あの日の水音が聞こえる。下卑たはしゃぎ声が響く。

「自分が受ける仕打ち全部、仕方がないって思ってる?」

 緑のフェンスの網目。空色のバケツ。

「自分が苦しむのは仕方がないって、思ってる?」

 あの日のことを、自分は悔いているのかもしれない。

 理解が及ばないと歩み去るのではなくて、差し伸ばされない手を、無理矢理にでも握らなきゃいけなかったんじゃないか。それができるのは、私だけだったんじゃないか。

「どうだろ」

 茶化すみたいな口調に、少し左に傾いた面差しに、気付けば底のない影が忍び寄ってきている。

「あなたは、何も悪くない」

 咄嗟には借り物の言葉しか出て来なかった。

「あなたが何か辛い――」

「上沢さん、私のこと、何も知らないでしょ?」

 分厚い殻にヒビが走り、本物の凛香が滲みだす。

 凛香は笑っている。だけど私は笑えない。息をしているはずなのに息が苦しい。

「よくそんな、無責任なこと言えるね」

 恐怖が私を襲う。

 あの時と、同じように。

 百円玉が三枚、静かに机に置かれる。凛香はもう歩み去ろうとしている。

 止めようと手を伸ばしたが、空を握っただけだった。

「私のことは、もう気にしないでください」

 追いかけられなかった。凛香の座っていた席に身を動かして、その後ろにある全面のガラスから見下ろした。凛香は何もかもを突き放すみたいな無表情に戻っていた。そして、すぐに人影の中に消えて見えなくなった。

 氷の少し融けたオレンジジュースだけが、目の前に残された。


   *


 その夜、山あいではまとまった雨が降った。どのチャンネルでも、土砂崩れや川の増水に注意して下さいという決まり文句をアナウンサーがしきりに訴えていた。

 豪雨は翌朝、最悪の知らせをもたらした。

 

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