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鮮やかな青空には目もくれず、目の前の表札を見つめる。
そこには確かに、藤池と刻まれていた。
住所はネットで調べればすぐに出てきた。悪意の塊みたいなウェブサイトの中には、他にも藤池光彦が住んでいたアパートや、当時の勤務先、墓場の所在まで書かれていた。
自分でも少し異常だとは思う。でも驚きはなかった。こういうことを前にもしたことがあったから。
ピンポンを押す前に、これといった理由もなく来た道を振り返った。きめの粗いアスファルト、雑然と立ち並ぶ住宅と電柱。どこにでもあるような平凡な道。
ここを本当に、父は歩いたのだろうか。
藤池光彦の遺族が事件の再捜査を父に頼み、父はそれを受け入れた――私にはどうしても絵空事のように聞こえてしまう。現実だと分かっていても信じることができない。
父が光彦の遺族に殺されたという方が、はるかに現実味がある。
あるいは本当に、そうなのかもしれない。
人差し指が震えた。
「はい」
男の声が答えた。
「突然すみません。上沢莉帆と言います」
一度言葉を切ってから、続けた。
「松野徹の娘です。お話したいことがあって、少しよろしいでしょうか」
インターホンが黙った。
「今、行きます」
慌てた様子だった。数秒して、気の優しそう男性が出てきた。
「本当に突然、すみません」
「いえ。あの、藤池稔と申します」
「実は、父が居なくなりまして。何かご存知ないかと」
稔の表情が凍り付く。
「え――それは、いつから?」
「昨日から連絡が取れてません」
「昨日――」
反応からして、まだ青柿は尋ねてきていないみたいだ。
「取り敢えず、中へどうぞ」
苦しそうな早口で、稔は私を中に招いた。
リビングに通された。縮こまった体の老いた女性と、洗い物をする若い女性がいた。
私の目は、台所に立つ彼女だけを捉えて離さなかった。
記憶の中の少女が彼女に吸い寄せられて重なり、融けこんでいく。
「妻の菊子と、娘の凛香です」
藤池凛香。
彼女に会ったのは十二年前、たった一度だけ。交わした言葉も数えるほどしかない。それでも私は覚えている。私たちの間に往来した言葉。凛香の一挙手一投足。
彼女は私のことを、覚えているだろうか。
ただ一つ言えることは、彼女の顔には影が貼りついたままだということだ。私に向けられる父の顔を思い起こさせるような、朧げな影が。
稔から私の素性と事情を知らされると、菊子は細く脆い右手で口元を覆った。
「父に、事件のことを調べ直すよう頼んでいたんですよね」
向かい側に座って尋ねると、菊子は頷く。
「どういう経緯で、父に頼むことになったんですか?」
「それは私がお答えします」
菊子を庇うように稔が身を乗り出した。
光彦の墓で父と会ったこと。
相前後して、菊子が病に倒れたこと。
藤池光彦のことを、もう一度だけ、信じてみたかったこと。
そうなった時、私の父しか思い浮かばなかったこと。
「松野さんなら、引き受けて下さるかもと思いました」
しっくりこなかったのか、稔は言い直した。
「引き受けてくれるのは松野さんだけだと、そう思いました」
「どうして?」
私にはまだしっくりこない。
「なぜですか?」
聞かずにはいられなかった。
「父のことが、憎くはなかったですか?」
「恨みなんてありません」
菊子の震える声が割って入った。
「感謝しか――少なくとも、今は」
「松野さんには、恩義のようなものを感じてます」
稔が引き取る。
「光彦の墓で会った時、松野さん、こう言うと変かもなんですが、怯えておられました。私に、ですよ。それで、ああ松野さんも、私たちと同じだって思いました。私たちと同じように、ずっとあの事件を、抱えてきたんだと。だから、私たちの無茶なお願いを、正面から受け止めてくれる人は、もう松野さんしかいないと、少なくとも私は、そう思った」
稔の目がわずかにうるんでいる。
「松野さんは、私たちの言うことをじっと聞いて下さった。わざわざ、調べても頂いて」
少し言葉を探すような素振りを見せてから、稔は言った。
「だから、私は、恩を感じています」
藤池光彦の両親が父に向ける言葉とは、容易には信じがたかった。
「父からの最後の連絡はいつでした?」
「だいぶ前になります。八月の、十七日とか、十八日とか」
「どういう内容でした?」
ほんの少し間が空いてから、菊子は言った。
「一通り調べがついて、冤罪はありえないと、おっしゃってました」
実際は、その後も父は捜査を続けていた。それの意味するところは、まだ分からない。
「でも、光彦は再び更生できたはずだと、言ってくださいました」
稔は声を詰まらせた。菊子も目を赤くしながら、首を大きく縦に振った。
芝居には見えなかった。
私は思った。藤池光彦の遺族と父の間には、世にも奇妙な奇妙な連帯が本当にあったのかもしれない――
遺族?
悟られないように横目で、黙りこくったままの凛香を見た。
息が止まりそうになった。
凛香には表情が無かった。
感情を静かに高ぶらせる稔と菊子を、共感の仕草を見せるでも、はたまた反感を示すでもなく、ただ呆然と見つめている。
稔も菊子も、凛香の視線に気付かない。
「そうですか」
辛うじて平静を保つ。
「他に父は何か言っていませんでしたか? これから何をするつもりだとか、どこかに行く予定だとか、そういったことは?」
稔は無念そうに首を横に振る。
「凛香さんはどうですか?」
ここしかないと凛香に話を向けた。
「何か心当たり、ありませんか?」
今にも壊れそうな顔を上に乗せた首が、左右に揺れる。
「すみません、分かりません」
「ご両親とは別に、凛香さんのところに連絡があったりはしませんでしたか?」
揺れが激しくなる。
「ありません」
「私たちのせいでしょうか」
凛香を気にする素振りも見せずに、稔がこぼす。
「私たちが松野さんに無茶なお願いをしたから、こうなってしまったんでしょうか」
「それはまだ、何とも言えません」
乾いた声が出た。
「仮にそうだったとしても、お二人のせいではありません」
気付いた時には、失言が口を滑り出てしまっていた。
「すみません」
だが、失言であることに、うなだれるお二人は気付く様子がなかった。
凛香は、身じろぎもしない。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
耐えきれずに立ち上がった。私は凛香に眼差しを向けた。
「それと凛香さん。できればもう少し、どこかでお話できませんか」
「ああそれなら、ここでもう少し――」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
稔を私は制した。
「少し、二人で話してみたくって」
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