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奥多摩は遠かった。
車内は空いている。これから登山という格好の乗客がちらほらいるくらいだ。確かに気持ちのいい好天ではあるけれど、昨日が荒天だったことを忘れてはいけない。山道は滑りやすくなっているだろうし、地盤が緩んでいるところも多いはずだ。それこそ、土砂崩れに巻き込まれる可能性もある。
それでもここにいる人たちは、まあ大丈夫だろうと思っているのだろう。
左隣の車両から、子どもの高い声がした。子ども用の登山靴をはいた小柄な男の子が掌を窓にべったりとくっつけたまま、父親と何かを話している。
今日くらい、やめた方がいいのに。
心の内で呟いた忠告が伝わるはずもなく、他の登山客ともども、父子は途中の駅で降りてしまった。残りは私と地元民だけになった。
山をかき分けるようにして青梅線は走っていた。線路はおおむね多摩川に沿って置かれているようで、時たま生い茂る緑の間から渓流が見えた。この細く激しい流れが、やがては空港を横目に東京湾へ注ぎ込む大河になる。
そのほとりに、かつて藤池光彦は住んでいた。
これも何かの因果かもしれない。
青柿の車に同乗していた母から、奥多摩署に到着したという連絡が届いた。もうすぐと返すや否や、次は終点、奥多摩とアナウンスが鳴った。
列車がトンネルに呑まれ、車窓が黒に染まる。レールと車輪のいがみ合う金切り声に続いて、何重にも反響する走行音が耳を叩く。
一生、着かなければよかったのにと思った。
失踪したと聞いてから、父の死を想像しなかったと言えば噓になるだろう。私だって一端の警察官だ。行方不明者の大半はどこかで命を落としているという事実を知らないはずがない。
それでも遺体が見つからない限りは他の可能性がある。もしかしたら、誰かに監禁されているのかもしれない。いつぞやの朝ドラのように頭を打って、記憶を失っているのかもしれない。
でも多分、気休めの妄想も終わりだ。
列車を降りると、湿り気のある風が吹いていた。ホームからは異様な大工場が見えた。改造に改造を重ねた結果なのか、青々とした山を背に、幾つもの古びた施設がパイプやら何やらで絡まり合っている。
街には緑の臭いが充満していた。ヒグラシやツクツクボウシの合唱がけたたましい。
重い足を引きずるようにして急ぐ。母たちが待っている。
奥多摩署を訪ねたことはなかったが、シンプルな一本道を迷いようがなかった。多摩川の支流、日原川に架かる橋を渡ってしばらく歩くと、古ぼけた庁舎が見えてきた。
エントランス正面の待合椅子に、青柿が腰かけていた。顔が白かった。私に気付くと、「こちらです」とだけ告げて歩き出した。署全体にも慌ただしい空気が立ち込めていた。きっと捜査本部の準備設営だろうと、他人事のように思った。
赤紫の非常階段で地下二階まで降りる。蛍光灯が十分明るいはずなのに、どことなく薄暗い感じがした。天井の低さが圧迫感をかもし出していた。廊下を歩く私と青柿の足音が洞窟の中みたいに響く。微かに、饐えた臭いがするような気もした。
フロアの左隅が遺体安置所だった。その前のソファに、壁を背もたれにしながら、母とスーツ姿の男性が座っていた。
青柿を追い越すようにして母に駆け寄った。私に気付いて母は笑おうとしたのかもしれない。でも、表情はほとんど動かなかった。
「警視庁捜査一課の加茂下です。松野さんと、バディを組んでいました」
私に名乗る間を与えずに、父の相棒は言った。
「青柿係長と私の方で、先にご遺体の方を確認させて頂きました。率直に言って、遺体の状況はあまりよいものとは言えません」
もしかしたら父に似た別人かもしれないという、僅かな希望も消える。
父は、死んだのだ。
「死因は?」
この状況でそれを聞くとは、私も警察官だ。
「解剖してみないと詳しいところは分かりません」
答えたのは青柿だった。
「ただ後頭部に傷があります。恐らくそれが原因だと思います」
「幸いと言うべきか、お顔の方は綺麗に残っています」
加茂下はそう言うと、私と母を順番に見た。
「ご遺体を確認して頂けますか?」
母が頷き、私も頷いた。
「では、こちらへ」
青柿が扉を開けた。先に加茂下が部屋に入り、母と私を中へと導いた。
業務用冷蔵庫を横倒しにしたようなステンレスの台の上に、白いカバーが緩やかなカーブを描いていた。横には小さな鍋のような仏具があり、そこに三本線香が刺さっていた。香のきつい臭いがした。
加茂下が、カバーを少しだけめくった。
父は死んでいた。
安らかだ。いのいちばんに、そう感じた。
眠っているようだとか、今にも動き出しそうだとか、そんな手垢のついた比喩は頭に上ってこなかった。父からエネルギーが枯れ果てているということが、見ただけですぐに分かった。肌はそれこそ青白いゴムの膜のようだった。唇は紫と灰を混ぜ合わせたような色をしていた。髪の毛や鼻筋に、ほんの少しだけだが、土の粒が付いていた。
でも父からは、事件の日から付きまとっていた影が確かに失せていた。長らく目にしていなかった、一点の陰りもなく穏やかな、父の顔だった。
大雨が父の亡骸をあらわにしてくれなければ、この最後の表情も土の中に朽ち果てて、永久に失われていたに違いない。私たちは存外、幸運なのかもしれない。
少なくとも、そう思った方がいい。
私は母を見た。
母は棒立ちのまま、瞬き一つすらせず、父をじっと見下ろしていた。
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