第二章 上沢莉帆

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     第二章 上沢莉帆



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 父との一番の思い出は何かと問われたなら、私は迷いなく福引と答えるだろう。

 あの日の記憶はやたら鮮明で、下手をすれば事故の日のことよりも正確かもしれない。小学二年の夏、お盆の真っ只中だった。父は珍しく休みで、朝から家にいた。そのことが私には嬉しかった。

 といっても、遊びに連れて行ってくれるわけでも、ゲームの相手をしてくれるわけでもない。休日の父は何だか気が抜けていた。テレビをザッピングしたかと思えば、ちっとも読み終わらずに半ばインテリアと化している長編小説を手に取り、しばらくページを捲ってみた後、往生際悪くまた栞を挟み、テレビに向き直る。始終こんな調子だった。そして夕方には二階の自分の部屋に引きこもって昼寝をし、夕食まで下りてこないのだ。

 子どもだった私は父の気を引こうと、しょっちゅう話しかけた。学校のこと、友達のこと、アニメのこと。父は満更でもなさそうで、数少ない相槌のバリエーションを駆使しながら、よく話を聞いてくれた。だが同時に、頭の片隅で全然違うことを考えているのということが幼心にも分かった。どんなに身振り手振りを使って喋っても、父の顔から雑念が消えることはまずなかった。

 父はきっと事件のことを考えていたのだと思う。

 あの日、大寝坊をした私は、ソファで微睡む父に性懲りもなく話しかけてから遅い朝ご飯を食べ、残っていた計算ドリルを黙々とこなしていた。事件が起きたのはお昼ご飯に冷や麦を食べ終えたあとのことだった。ついさっきまで元気だった母の顔色が急に悪くなったのだ。軽い夏バテみたいだった。「お父さんと一緒に買い物に行って来てくれない?」と、ベッドに横になった母は私に頼んだ。

 暑さの落ち着いた五時過ぎ、私は父と近所のスーパーに出かけた。

 父と二人での買い物は、恐らくあれが最初で最後だろう。母のことは心配だったけど、それはそれとして心は躍っていた。スーパーへの道すがら、ちょこまかと動き回る私を、父は持て余し気味だった。

 スーパーに着くなり、軽やかな金属音が聞こえてきた。見ると、出口の自動ドアの脇で赤い半纏を着た店員がベルを鳴らしている。父の手を離し、人波を交わしながら音の方へ向かった。

 予想した通り、いわゆるガラガラがあった。

 やっと追いついてきた父に、どうすればガラガラを回せるのか尋ねた。私を叱る機を逸した父は肩をすくめ、「夏の大感謝祭・福引大会」のルールを説明してくれた。千円購入するごとに一度回すことができる。一等の金は一泊二日の京都ペア旅行券。二等の赤はマルーンの時計――そこで私は素っ頓狂な大声を上げた。マルーン時計! 

 沢山回したいから沢山買ってとせがむと、父は困り顔で笑った。

 母のメモ通りに商品を集めるべく、店中をカートで回った。夜の豚の生姜焼きのためにバラ肉とキャベツをカゴに入れ、ちょうどストックが切れる頃合いだったのだろう、みりんや醤油も乗せ、さらに氷やジュース、アルコール類も加えた。父に聞くと二五〇〇円くらいだろうという。私としては五キロの米や高級焼き肉セットを購入してガラガラを回すチャンスを増やしたかったのだが、さすがの父も首を縦に振らない。その代わり、二つ三つお菓子を買っていいと言われた。私が虫歯がちであるのを気にしてか、あまりお菓子を買ってくれない母よりも随分と甘かった。

 ところが、レジで勘定すると三六〇〇円くらいだった。どうやら父は何かを計算し忘れていたらしい。つまり、お菓子を買わなくたって三千円台だったわけだ。苦い顔をしながら会計を済ませる父を私はほくそ笑みながら見上げた。

 三枚の券を握りしめ、父とともに列に並んだ。私の前にいた数名は呆気なく白球のポケットティッシュに倒れ、早々に順番が巡ってきた。赤半纏の店員に折れ曲がった券を手渡す。子ども用の踏み台に乗り、小さな体なりに大きな息を吐く。

 ハンドルを握った時、ふとそうしたくなって、父に一緒に回そうと言った。父は意外そうな表情を浮かべたが、軽く頷いて、私の手を包み込んだ。

「せーの」と声を上げて、私は父とハンドルを回した。

 シャカシャカと乾いた音がする。白玉が転がり出た。次も白玉だった。

 違う。私が欲しいのは、その白玉じゃない。

 チャンスはあと一度しかない。焦りと、どうせ無理だろうという諦めと、まだもしかしたらという希望が混じりあった。

 最後の一回。「かみさま、お願いします」と、幼心に祈りながら回した。

 排出口から飛び出したのは、赤玉だった。

 ベルが鳴った。「二等賞!」と甲高い声が響いた。

 「やった!」と両手を突き上げた。そしてすぐさま、父の方を見た。

 歯並びが見えるくらいの澄み切った笑顔だった。

 今、父の頭の中には私しかいない。そう思うと、余計に嬉しかった。


   *


「やらしいわよ、本当に。やらしい」

 原口文江は口をへの字に曲げた。

「こんな小遣い稼ぎするんじゃなくて、もっと大きな悪を潰しなさいよ警察は」

 バッグから財布を取り出すにも、いちいち勿体を付ける。

「それは刑事部とか公安部の仕事ですから」

 私は澄ました口調で言った。九月に入って二日目の昼下がり、厳しい日差しは制服の中をサウナにしつつあるが、不快感を顔に出せば事を長引かせるだけだ。

「そういう問題じゃないのよ」

 文江は右目で私を睨む。なら、どういう問題なのだろう。

「原口さん。お分かりかと思いますが、交通ルールを守ることは事故を減らす――」

「分かってます。分かってますって」

 うんざりしたように大声を上げると、文江は一万二千円を私に突き出した。

 四十キロ制限の柴又街道を十八キロオーバー。違反点数一点の速度超過である。

「これで満足?」

「はい、確かに頂きました」

 違反金をポケットにねじ込み、書類の最終チェックをする間も、文江はぶつぶつ何かを言っていた。

「お手数をお掛けしました。それでは、くれぐれも安全運転でお願いします」

「はいはい」

 私のような若い女に諭されるようなことではないと顔に書いてあった。

 青のミニバンが車列にとけこむのを見届けてから捜査車両に戻る。運転席の相浦がストレッチがてら軽く伸びをした。

 しばらく走ってから、相浦が言った。

「どんな嫌味言われた、さっき?」

「もっと大きな悪を潰せと」

 相浦の目尻に皺が寄る。

「自分が悪いことしてるって自覚があるだけいい」

 違反者は大概、ルールを守るべきだという正常な感覚を持ちあわせている。良識をフルに稼働させ、少なくとも表向き反省の態度を見せる者も多い。

 一方、あからさまな反感を示す文江のような違反者もいる。しかめ面、舌打ちや小言程度ならまだマシで、文江など対処が楽な部類だ。違反などしていないと頑強に主張する者もいる。罵られたり、胸倉を摑まれたりすることもある。

 そういうことに腹を立てているうちは半人前とよく言われる。今日はどんな反応が見られるだろうと楽しみにできて初めて一人前なのだ。私も交通機動隊配属二年目にして、パトロールを「サファリパークのバスツアー」に喩える相浦の気持ちが少しずつ分かってきたところだ。

 ただ、無駄な抵抗に走る彼らの気持ちも分からないではない。

 もちろん、一人一人に色々な理由があるだろう。自分だけは絶対に事故を起こさないという正常性バイアスが作用している場合もあれば、単なる警察嫌いのこともある。

 でも、ほぼ全員に当てはまる感情もある。なんで自分だけがという感情だ。

 自分以外にも交通違反を犯している人間はごまんといる。その中には自分よりも悪質なドライバーもいる。なのに、運悪く警察に見つかってしまった自分だけが責められるというのはおかしいじゃないかと。

 自分のことを棚に上げるなと言うのは簡単だ。けれど、全ての交通違反を取り締まることができない以上、彼らが不運であることを否定することもできない。

 言ってみれば、違反者はガラガラを回しているようなものなのだ。それも、何事も起きない白玉と、私たちに見つかって罰金を取られる赤玉だけの、シンプルなガラガラを。スーパーで福引をする人と違うのは、自分がガラガラを回しているということに普段は気付かないことだろう。そのことに思い至るのは、ハズレを引いた時だけなのだ。

 文江の後は大したトラブルもなく済んだ。押上署に帰隊する頃には三時半を少し過ぎていた。

 一階部分をくりぬくようにして設計された駐車場は、直射日光を遮る代わりに換気を妨げるので、いつも空気が淀んでいる。長居はしたくないが、分駐所に戻る前に整備点検をこなしてしまうのが最も効率的だ。ライトの動作確認やエンジン音のチェックを五分ほどで終え、相浦とともにそそくさと二階へ向かう。定時退庁を目指すには手早く書類を取りまとめなければいけない。

「上沢、ちょっと」

 戻るなり、隊長の有馬に呼ばれた。嫌な予感がした。すぐに何かミスをしたかと自問する。身に覚えがないけれど、ミスに身に覚えがあった試しもない。

 だが、有馬が告げたのは、ミスよりもよっぽど恐ろしいことだった。

「捜査一課の青柿警部から連絡があった。松野徹警部補――君のお父さんと、連絡が取れないらしい」

 

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