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 そこに着いた時には、夏の長い夕方が終わりつつあった。

 玄関から半身を覗かせた凛香は、徹を見ても表情を変えなかった。

「こんばんは、こんな時間にすみません」

 平静を装うので必死だった。

「もう一度だけ、お話を伺いたくて。よろしいですか」

 凛香は無言のまま頷き、徹を中に迎え入れた。

 白と黒の横縞が走る長袖に足首を隠すほどに長い淡いエメラルド色のズボン。今日もまた、お世辞にも良い取り合わせとは言えない。

 思えば、前にここを訪れた時もそうだった。菊子と稔と三人で会った時の、目立たずとも品の良い服装とはだいぶ違っていた。家では楽な格好をするのだなと、その時は気に留めすらしなかった。

 改めて部屋を見回してみる。余計なものが無く、散らかったところがない。

 無味乾燥で、特徴がないとも言える。

 グラスが机に乗る音がした。振り返ると、黒い瞳が徹をじっと見下ろしていた。

 徹の背筋に悪寒が走るのと、凛香が身体の向きごと視線を逸らすのとが同時だった。直前の振舞いに理屈を付けようとでもするかのように、肩を撫でる髪を耳にかける動作をこれ見よがしに示してから、凛香は徹の前に腰かけた。

 何度見ても小さな身体だった。本当に頭部を支え切れるのかと不安になるような細い首の下で、小さな肩が僅かに丸め込まれていた。少しでも触れてしまえば脆く崩れてしまうような気すらした。

 だからだろうか。開きかけた口を、徹は一旦結び直した。

 自分の言葉が凛香を壊してしまうのではないか。

 自分に凛香を問う資格があるのか。

 だが、徹の口は動いた。

「凛香さん、あなたは、つつじ小学校に通ってましたよね」

「はい」

「お兄さんからのおさがりの、黒いランドセルを使っていた」

「――はい」

 唾で喉を湿らせる。

「実はここ数日間、被害者の八百万喜吉さんについて、話を聞いて回っていました」

 凛香の肩が、バネのように小さくはねる。

「ある方が、こう言っていました。八百万さんは事件の五年前から約一年間、つつじ小学校の登下校の見守り活動をしていたと」

 俯く凛香に徹は尋ねた。

「凛香さんはその頃、小学四年生でした。八百万さんのこと、何か覚えていませんか」

 不自然な数秒の間が空いた。

「――いえ」

「でも、その方が見たというんです。八百万さんと、親しげに話していた生徒がいたと。小学校中学年くらいの女子生徒で、黒のランドセルを背負っていたと」

 意志の統御を失った唇が小刻みに痙攣している。

「あなたのことじゃありませんか?」

 何かに迫られるようにして、凛香は首を激しく横に振った。

「違います」

「本当に?」

「本当です」

「凛香さん、調べれば――」

「私は何も知りません!」

 唐突な悲鳴だった。続く荒い息が華奢な身体をとめどなく震わせた。

「帰って下さい」

 息の間隙を縫うようにして、弱く掠れた声が漏れ出る。

 本当はもう、引き下がるべきだと分かっていた。

 それでも、止まることができない。

 徹は知りたかった。

「小学四年生の頃、登下校の最中、あなたは八百万さんと仲良くなった」

 伊本が目にした後ろ姿。

「そして、八百万さんの家に出入りするようになったんじゃありませんか」

 いじめと孤独に耐えてきた凛香の心の空白を八百万は見通し、凛香が求めていたものを与えたのだろう。

「そのうちに、八百万喜吉から性的な行為を強要されるようになった」

 浅く不規則な息に、凛香の肩が小さく、ワナワナと揺れた。内へ内へと、閉じていくような震えだった。それから、顔を下に向けたまま、凛香は力なく首を横に振った。だがそれは徹の問いを否定するものではなかった。それは拒絶だった。認めたくない、しかしどうしても引き受けなければならない過去を突き放そうとする、失敗を宿命づけられた抵抗だった。

「写真か映像かで、脅されていたんじゃありませんか? 言うことを聞かなければ、これをばらまいてやると」

 八百万の何気ない一言が背筋を凍らせる。


――元々、子どもも好きですから


「それが、事件直前まで続いた」

 小学四年から中学一年までの四年間。凛香は孤独に、残虐を耐え続けた。恐らく、残虐の本当の意味をも徐々に理解していき、さらに苦悶を深めたに違いない。

 どれほど長く、どれほどの苦痛に満ちた時間であったのだろう。

「でももう、君は限界だった」

 抱え込み、消化することなど、決してできるはずがない。

「終わりにしたかった。でも、警察にもご両親にも、相談したくなかった」

隠したままにしたかった。

「だから、お兄さんに全てを打ち明けて、頼んだんですね。助けてほしいと。頼れる人が他に居ないと」

 自分が順調な更生の道を歩む陰で、何の罪もない妹が、性的暴行に――あろうことか自らがかつて手を貸してしまった、魂の殺人に――長く苦しんでいた。

 光彦は、何を思っただろう。

 二〇一〇年二月二十八日。光彦は八百万に夜襲をかけた。

「主な目的は、八百万喜吉があなたを脅す材料にしていた写真やデータを奪い取ること、そして、八百万の携帯からあなたの情報を削除すること」

 金目の物を盗み出したのはもちろん、単なる強盗に見せかけるために他ならない。貯金箱が残されていたのも、光彦にとって本当は現金などどうでもよかったからだと考えれば辻褄が合う。逆に、箪笥貯金が見つけ出されるほど隅々まで家探しをしたのは、よもや凛香の私物や写真などが残っていてはまずいと考えたからに違いない。

「そして、その在処を聞き出すべく、お兄さんは八百万を拷問した」


――あれは本当に、酷い拷問でした


 犯人が光彦であるということは、八百万もすぐに分かったはずだ。あるいは、自分は凛香の兄だと光彦が自分から名乗ったのかもしれない。だとしても、八百万がそのことを警察に告げるはずがない。己の罪を自白するに等しい行為だからだ。

 八百万が大和に偽証を頼み込んだ理由も今や明らかだ。捜査が長期化すればするほど凛香と自分との関係が露見する確率が高まる。凛香が八百万の自宅を出入りするのを偶然見かけた誰かが、そのことを警察に告げてしまうかもしれない。

 焦慮と不安に駆られた八百万は、光彦の車のリアガラスにマルーンのステッカーが貼ってあったという凛香を通じて知っていた情報を使って、一か八かの賭けに打って出た。 

それこそが大和への偽証の依頼だった。

 八百万は光彦を犯人に仕立て上げたかったのではない。一刻も早く光彦が犯人だと結論付けさせたかったのだ。これ以上警察に、捜査をさせないために。

「でも、もう一つ、大きな目的があった」

 凛香の頬がひくつく。

「八百万を、去勢すること」

 拷問の過程で、光彦は睾丸や男性器を激しく暴行した。それを使って、二度と性的な行為ができなくなるように。

 もし生殖器だけが念入りに暴行されていたならば、八百万は何らかの性的犯罪に手を染めていたがために復讐を受けたという見立てが強まっていただろう。その線で八百万が取り調べられ、万が一凛香の名を口にしようものなら、全ては破綻する。

 だから光彦は考えた。木を隠すなら森の中、暴力を隠すなら暴力の中――

 単なる衝動の爆発などでは決してない。復讐。拷問の手段。カモフラージュ。あの暴力には、三重の意味が込められていたのだ。

 八百万の身体を一体何度殴打したのかも分からない、深紅に染まった光彦の右手を、徹は思い出す。

 光彦は八百万を裁いた。凛香の代わりに、あるいは法の代わりに、八百万を裁きの場に引きずり出した。

 法はそれでも、光彦を責めるだろう。

 だが人の誰が、光彦を責めるだろう。

「全てが、上手く行くはずだった」

 凛香の身体を覆う震動が、徹の声に伝播する。

「でも、俺の運転する車に、遭遇してしまった」

 焦燥の色が滲んだ光彦の横顔が網膜をよぎる。

「そして、あんなことに、なってしまった」

 光彦は懸命に逃げた。絶対に見つかるわけにはいかなかった。妹を守るために、光彦は危険を承知でアクセルを吹かせたのだ。

 そして、コントロールを失い、伊地知家の車に衝突し、横転し――

 はたと、徹は気付く。

 光彦の車が炎上した原因は最後まで不明のままだった。

 しかし、横転した車内に居た光彦が、たとえほんの少しの間でも、かろうじて一命を取り留めていたとしたら。

 彼はライターで自ら車内に火を放ったのではないか。

 凛香が隠し通したかったものを、この世から葬り去るために。

「本当に、申し訳ない」

 額を机に押し付けた。

 自分が兄に頼まなければ。自分で全て何とかしていれば。凛香が自分を責めなかったはずがない。

「君は何も、悪くない」

 その言葉が届かないことを誰よりも知っているのに、そうとしか言えなかった。

 音を呑むような沈黙があった。

「誰にも」

 今にも崩れ落ちそうな積み木の塔のように揺れる体躯から、微かに声が漏れる。徹は顔を上げた。絶望を携えた無表情だった。涙すら枯れ果てているのだと悟った。

「誰にも、言わないでください」

 凛香は、静かに、頭を下げた。

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