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震えの止まらない手で携帯を耳に押し付けた。
「松野さん、何してるんですか?」
「いいから黙って聞いてくれ」
人気のない茜色の路地に荒い声が響く。
「大和と八百万の間にはつながりがあった」
電話越しでも青柿が息を呑むのが分かった。
「二人は同時期に、地元の句会に所属していた」
八百万は平成十年にツツジ句会に加入、事件後に体調が戻らないという理由で退会。
他方の大和は平成十五年に加入、事件の二年前に退会。主催者である兼城は言葉を濁したが、どうやら勤めていた会社を解雇されたらしい。
「二人は相当親しい様子だったと、句会の主催者が証言した」
――年齢差を感じさせないくらい仲がよろしくて、句会の後によく、お二人でお食事に行かれてましたよ
「大和が辞めた後も、関係は続いていた」
――前途ある若者を応援するんだって、八百万さん、よくおっしゃっていました
これが偶然であるはずがない。
「大和に情報を漏らしたのは水脇さんじゃない。他の捜査員でもない」
半ば叫んでいた。
「八百万喜吉だ」
声に成り損ねた音が青柿の口から漏れる。
「冗談でしょ?」
根のない声がたゆたう。
「ありえない」
「ありえないことはありえない」
青柿は黙った。
「そうだろ?」
発作の手前のような激しい息遣いが聞こえる。
「――何で、分かったんですか?」
掠れた声がかろうじて耳に届く。
「大和が住んでいたアパートの大家から、大和が句会に参加していたって聞いた。それで八百万の自宅に俳句関係の本が何冊もあったことを思い出したんだ」
あの時、八百万は写真が唯一の趣味だと言った。その他は全て三日坊主だと。
だが他のジャンルと違い、俳句関係の本は四、五冊が揃っていた。その上、それらは最も手に取りやすい、本の山の一番上に鎮座していた。
俳句は八百万のもう一つの趣味だったのだ。だが八百万は咄嗟にそのことを隠してしまった。大和と自分自身を繋げるものこそが俳句だったから。
「なあ、青柿」
徹は言った。
「一週間でいい。休みを貰えないか」
「調べ直すつもりですね」
「ああ」
大和の証言が事実無根である以上、藤池光彦が犯人であることを示す最有力の証拠が消え失せたことになる。
だが、それだけでは済まない。大和の偽証を促したのが、被害者の八百万だからだ。
当然の、そして重大な疑念が一つ。光彦の車のリアガラスにマルーンのステッカーが貼付されていたという、現場の捜査員すら知りえなかった事実。これをどうして八百万は確知していたのか。
まだある。八百万はなぜ、大和に虚偽の証言を頼んだのか。
こうも考えられる。警察の見込みを裏付けることによって、藤池光彦を犯人に仕立て上げようとしたからではないか。
――あの事件の時は警察に、本当、お世話になりましたから
いずれにしても、事件の真実を八百万が隠しているということはまず間違いない。
光彦冤罪説を笑うことも、もはやできない。
「本当のことが分かったら、まず真っ先に、青柿に連絡する。だから、頼む」
駄目だと言われても動くつもりでいた。
「体調を崩したということにしておきます」
観念したように、青柿は言った。
「絶対に、無理はしないで下さい」
「ああ。恩に着る」
*
徹はベッドに腰かけると、マルーンのイラストがふんだんにあしらわれた壁掛け時計を見た。午後十一時を少し過ぎたところだった。
簡素な部屋にはおよそ不釣り合いなこの時計は、莉帆が幼稚園生の頃に近所のスーパーの懸賞で当てたものだった。少しでも多く福引がしたい莉帆の懇願を受け、少し余計な買い物をしたような記憶がある。
数年間リビングの掛け時計としての役目を担ったマルーン時計だったが、莉帆の中学入学のタイミングで物置にしまい込まれた。子どもっぽくて恥ずかしいと莉帆が嫌がったからだ。
離婚が決まり、家を出ることになって、ふとマルーン時計のことが頭をよぎった。埃を念入りに拭き取ってやると、これは自分が持っていなくてはならないという思いが胸を占めた。それで、一人きりの部屋に飾ることにしたのだ。
携帯が着信を知らせていた。水脇からだった。
「やってくれたな、テツ」
言葉尻に僅かな労わりの色がある。
「青柿から、聞きましたか」
「ああ」
息を吐いたはずみに母音を乗ってしまったかのような返答だった。
「しかし、八百万とはな」
声がひび割れる。
「思いもしなかった」
「――ええ」
「俺らが言えることじゃないかもしれないが」
水脇は一度、言葉を切った。
「重たいな。警察の責任は」
捜査本部は大和が何者かの傀儡である可能性を黙殺した。その何者かが警察官であることを恐れて。
結果、綿密な鑑取り捜査をしていれば発覚していたはずの、八百万と大和の関係という致命的な事実が見逃された。
しばらく無言が続いた。彼方から響く焚火のようなノイズだけが鼓膜にそよいだ。
「なあ、テツ」
幾分か落ち着きを取り戻した声が尋ねる。
「お前、まだ調べるんだろ」
「はい」
一拍の間の後、水脇は問うた。
「今でもお前は、藤池光彦がホシだと思うか?」
菊子、稔、凛香の証言。坂佐井や黒部が抱いた違和感。八百万の暗躍。事件を調べ直す過程で知り得た情報が、確信という名の壁を砲撃する。
結論は、すぐに出た。
「ええ」
揺るがぬ確信が、声を支えた。
「そうか」
深く息を吸う音がした。
「せいぜい、期待してるよ」
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