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 もう事件を追うような真似はしなかった。

 処分は減給三カ月だった。重いのやら寛大なのやら、よく分からなかった。

 大部屋を出入りするたびに好奇の視線が集まった。薬物で捕まった芸能人の気分だった。励まし半分、からかい半分に、面識のある刑事がちょっかいを掛けてきたりもした。しばらく話していない連中と話す機会という意味では、そう悪いものではなかった。

 ただ、何の事件を追っていたのかだけは絶対に言わなかった。

 青柿班の連中が処分のことを持ち出すことはなかった。自分の顔が沈鬱そのものだという自覚はあった。それが理由で余計に気を遣わせてしまっているということも分かってはいた。悪いとは思ったが、自分の思うままに表情を転がせるほど芸達者ではなかった。

 相棒の加茂下は特に気まずそうで、二人で動く際などは、いつもなら気にもならない静寂を埋めようと必死だった。そういうわけで当たり障りのない話題をしきりに振られるのだが、いかんせん当たり障りのない話題なので、会話はせいぜい数往復が限度だった。自分に話術があればと考えたりもしたけれども、こんな状態では話術も何もなかった。

 表向き、青柿も普段通りだった。言葉の端々や視線の奥底に、今までになかった冷淡さが潜んでいることを除いては。

 聞き込み、事情聴取、供述調書の作成。与えられた職務を黙々と遂行した。自分のどうしようもなさから片時でも目を逸らすには、自分のできることを淡々とこなしていくのが一番だった。

 時の流れが嫌にのろかった。


   *


「光彦さんが冤罪である可能性は、ありませんでした」

 もう終わりにするということを、藤池家に伝えた。

「そうですか」

 稔の声は穏やかだった。

「他に何か、分かったことはありました?」

 脳裏を掠めるのは当然、大和の証言のことだった。

「光彦さんは更生を遂げていたと、私は思います」

 それを徹は、耳当たりのいい言葉で糊塗した。

「光彦さんなら間違いなく、またやり直せたと思います。だからあの事故は、悔やんでも悔やみきれません」

 浅はかな言葉だった。

「そう言って頂けて、嬉しいです」

 稔の声は震えていた。

「どうかもう、ご自分をこれ以上、責めないで下さい」

「松野さん」

 涙に覆われた菊子の声が続く。

「あなたは、悪くありません」

 値しない赦しが、胸に刺さる。

「最後の我がままを聞いてくれて、ありがとうございました」

 稔と菊子が感謝を口にするほど、自分のことが嫌になった。


   *


 その電話から数日、護国寺で起きた殺人未遂事案の捜査に駆り出された。

 人気のない深夜の路地で男子大学生が背後から刺され、一時は意識不明の重体にまで陥った事件。夜闇に紛れ逃走を図った犯人はすぐに目星がついた。犯行直後、現場近くの防犯カメラが逃走する犯人の姿を捉えていたからだ。背格好や服装から男子大学生の同級生と素性が割れ、当人もあっさりと自供、逮捕と相成った。サークル内の人間関係の拗れが原因の衝動的犯行だった。

 数日もすれば、メディアが事件のことを取り上げることはなくなるだろう。そんな、いたって平凡な事件。

 それでも関わった人間の人生を大きく変えるには十分だ。

 被害者は神経を損傷しており、再び歩くことができるか定かではないという。前途を汚した加害者は罪の重さに悶え、もっとできることがあったのではないかと共通の友人は嘆く。サークルは事実上のお取り潰し。被害者と加害者の通う大学も、来年度の志願者数の減少は避けられないだろう。

 ふと、考えてしまう。もし加害者の学生がもっとうまくやっていたら――完全犯罪を為し遂げていたら――果たしてどうなっていただろうか。

 被害者とその家族の苦痛は深まっていたかもしれない。しかし、加害者の家族が失意と自責に沈むこともなかっただろうし、その友人が心にやるせなさを溜め込むこともなかっただろう。サークルが解散することも、大学が対応に骨を折ることもなかっただろう。

 そういう意味では、犯行が容易に露見するだろうにもかかわらず、なおも罪を犯した加害者は、自身の行いが周囲に及ぼす波紋を看過した、ひどく無責任な人間ということにならないか。

 藤池光彦はきっと、そのことを深く理解していた。だから、絶対に隠し通そうと決めたのだろう。家族を再び世間の衆目に耐え忍ばせることのないように。黒部や坂佐井を失意の底に落とさないために。徹の運転する捜査車両に運悪く遭遇さえしなければ、藤池光彦に辿り着くことは困難だったはずだ。

「バレなきゃ犯罪じゃない」。よく冗談めかして言われる決まり文句はその実、真理をついているのかもしれない。犯罪をするのであればせめて、事が露見せぬよう努めなければならない――

 刑事が考えるべきことではない。でも、軽々しく罪を犯す者が引き起こす負の連鎖を目の当たりにするたび湧き上がってくる想念を、一概に否定することもできない。


   *


 ブラインドの隙間を縫うようにして、茜色一歩手前の西日が差し込んでいる。

 捜査本部に人はまばらだった。

 五年前に建て替えられたばかりとあって、茗荷谷署にはモダンな雰囲気が漂う。到るところにある窓が陽光をふんだんに取り込むため、警察署特有の辛気臭さが最小限に抑えられているし、床がリノリウムではなく、木目柄のクッションフロアになっているのも特徴的だ。本部が設置されている五階の大会議室も、机の配置を変えて観葉植物でも飾れば小洒落たオフィスに様変わりすることだろう。

 送検前最後の捜査会議まで、まだ時間がある。荷物だけ置いてその場を後にした。

 清潔な化粧室で用を足した後、階段を下る。昨今の嫌煙ムードを反映してか、三階の隅にある署内唯一の喫煙室はやけに小さく、詰めて五六人が精一杯という大きさだ。茗荷谷署唯一の欠点と言ってもいい。

 その喫煙室には青柿がいた。

 左奥の直角に身を持たれながら、煙草を右手に携帯をいじっている。クッションの吸音性のおかげで気付かれてはいない。

 少し迷って、煙草は我慢しようという女々しい判断をした。しかし引き返そうとした瞬間、目が合った。

 後ろに傾きかけた重心を戻し、扉を開けた。

 対角線の反対側の頂点に位置どったが、なにぶん部屋自体が小さい。距離は一メートルあるかどうかだった。

 しばらく黙々と吸った。一本吸い切ったら出ようと思った。

「少し」

 唐突に青柿が言った。

「言い過ぎました」

 目を合わさぬまま、青柿は言った。

「すみませんでした」

「謝ることはない。むしろ気を遣わせたみたいで、申し訳ない」

 徹は頭を下げた。

「その他にも色々、本当、申し訳なかった」

 髪の毛が灰皿に触れた。

「一つ聞いてもいいですか?」

 青柿は煙草の火をにじり消しながら尋ねた。

「どうして、調べ直そうと思ったんですか?」

 もう隠す理由はない。

「藤池光彦の遺族に頼まれたんだ」

 青柿は狐につままれたような顔をした。

「どういうことですか?」

 結局、経緯を一通り説明する羽目になった。

「変わってますね、松野さんは」

 青柿は口角を緩めた。

「水脇さんにも物好きって言われたよ」

「そりゃそうですよ」

 小さな静寂の幕が下りる。

「俺は今でも、水脇さんじゃないと思ってる」

 徹は言った。

「根拠は?」

「勘だ」

 青柿の表情に淡い苦笑が浮かんだ。

 携帯が鳴った。見慣れない番号からだった。

「松野さんの番号で合ってますよね?」

 廊下に出てから取ると、どこかで聞いたはずの女性の声が言った。

「はい、松野ですが」

「ああ、よかった。あの、わたくし、直田恵美です」

 名を聞いて思い出す。十二年前、大和が住んでいたアパートの大家だ。

「どうされました?」

「いやね、松野さん、この前いらした時、どんな細かいことでも思い出したら連絡して下さいって言ってましたでしょ? でもね、大和さんって、どっちかっていうと影が薄い部類の人でしたから、この前お話した時は、大したことを思い出せなくって、でも、あれからね、一つだけ、思い出すことがあったので、えいって、思い切って掛けてみたんです」

 直田はダラダラと話す。刑事に電話を掛けるというシチュエーションを楽しんでいる風だった。

「でもね、本当にどうでもいいことっていうか、どんな細かいことでもとはおっしゃってましたけど、さすがにどうなのかなとか、思ったりもするんですけどね」

「わざわざご連絡頂いて、ありがとうございます。是非教えて頂けませんか」

 徹が割って入ると、直田は芝居がかった声の潜め方をした。

「実はね、大和さん、俳句がお好きでしたの」

「俳句ですか?」

「そう。何だかちょっと、いつもの印象と違いますでしょう? だから少し意外でね、私のちっちゃな頭の隅っこの方に、残ってたんですよ」

 ――俳句?

「月に一回、週末に、地元の句会に行かれてたみたいで、そう、その帰りにばったり出くわして、お買い物ですかって言ったら、いや実はって」

 忘れかけていた微かな違和感が、鮮やかに蘇る。

「ごめんなさいね、こんなこと言われても、ありがた迷惑でしたでしょ?」

 慄然とした。

「でもね、万が一ってこともあるかしらって思って、連絡を差し上げないよりは、した方がいいかなって思ったもんですから」

「ありがとうございました」

 電話を切るなり、駆け出していた。

 捜査本部には人が集まりつつあった。徹の席の隣には加茂下が座っていた。

「お疲れ様です」

 碌に返答もせずに荷物をまとめた。

「どうしたんですか?」

「ちょっと急用が出来た」

「急用?」

「係長にもそう言っといてくれ」

「え、ちょっと――」

 加茂下に構っている暇はなかった。

 徹は走った。


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