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「舌の根も乾かぬうちにというのは、このことですね」

 マッチを擦れば途端に引火してしまいそうな空気が満ちている。

「よっぽど重い処分をお望みのようだ」

 蛇のような目をする中林からは、オーデコロンの臭いがした。

 傍らの青柿をチラリと見る。険しい形相のまま足元を見つめている。

「大和海から、抗議がありました」

 デスクにへばり付くA4サイズの紙を中林は引きずるようにして拾い上げた。紙のはためく間の抜けた音がした。

「昨日、午後六時十五分頃。買い物からの帰り、マンションの前で、松野徹警部補に待ち伏せをされた。実は十日ほど前にも、松野警部補が話を聞きにきたことがあり、その際も面倒だとは思ったのだが、今回はレベルが違った。松野警部補は、十二年前に自分が証言をした事件に、自分が関与していると妄想しているようで、しつこく絡んできた。無視をして帰ろうとすると、身体で邪魔された。不快であることこの上ない。厳重に抗議する」

 長い文章を細切れにして、ゆったりと中林は朗読した。なぶるような響きがあった。

「松野警部補。これは事実なんですね?」

「今さら申し開きをする気はありません」

「開き直ればいいというものではありませんよ」

 凄味のある声に、腸を鷲摑みにされるかのような感覚が走る。

「今さらになって、よりによってあなたがなぜ、あの事件に拘りはじめたのか。個人的には大変興味があります。しかし、いかなる事情があれ、私的な捜査は断じて許さない。不偏不党且つ公平中正という警察の理念の対極にあるからです。それはもはや、国家権力の暴走に等しい」

 正論ではあった。

「探偵ごっこがやりたいのであれば、辞表を書いてからやりなさい」

「ならあの事件の帳場がしたことはどうなんですか?」

 だが明らかに、煙に巻くための正論だった。

「大和海の証言を精査しないまま送検を強行したことも、国家権力の暴走では?」

 慎重な口ぶりで中林は言う。

「大和さんの目撃証言は、藤池光彦の犯人性を基礎づけるに十分なものでした」

「それをあなたが言いますか、一課長」

 中林は口をつぐむ。

「大和海の背後関係を洗うべきだと進言したのは一課長でしょう?」

「あくまで一捜査員の、根拠のない直感に過ぎません」

 他ならぬ自分の抵抗を矮小化すべく、慎重に吟味された言い回し。

「最終的には、捜査本部の判断に納得しました。今でも正しかったと思っています」

 噓だと思った。

「今でも、大和海には何かあると思いますか?」

「今回の処分とは関係のないことです」

「黒ですよ、大和海は」

 薄い目が徹を睨む。

「大和は露骨に動揺していました。裏がないはずがない。大体こんな抗議をしてくる時点で自白しるようなものです」

 本心では、中林もそう思っているに違いがない。

「それともこれも、一捜査員の、根拠のない直感ですか?」

 返答はぶっきらぼうな一言だった。

「そもそもあなたは、捜査員ではない」

 何かがプツリと切れた。 

「詭弁も大概にしませんか?」

 爪が掌に食い込む。

「警察関係者が大和に情報を流したんだろうって察しがついている。そう分かっているからこそ調べずに隠蔽するんでしょう?」

 その後の責任を取りたくないから。

「でも、十二年前のあなたはそれで納得しなかったはずだ。送検強行という上の判断に怒りが湧かなかったはずがない」

 声に熱が増していく。

「今なら、その時の借りを返せるんです」

 だが、中林の眼差しは冷ややかなままだった。

「その必要はありません」

 何を言っても無駄だった。

「失望しました」

 その様は、哀れですらあった。

「失礼します」

 形ばかりの辞儀をして、扉へ向かった。処分など、知ったことではなかった。

 徹はノブに手を掛ける。

「何にも、分かってない」

 背後から声があった。

「松野さんに、責める資格なんてない」

 振り向くと、青柿がこちらを見ていた。

 身がすくんだ。

 その眼差しには見覚えがあった。それは時たま、青柿が被疑者に向ける眼差しだった。それも、罪の重みに無自覚なままヘラヘラと笑い、被害者を愚弄することすら厭わない、そういうような類の被疑者に向けられる眼差しだった。

 そこにあるのは決まって、憐れみと、憤りと、軽蔑だった。

「生贄発言って、覚えてます? 藤池光彦は警察の生贄にされたんだって、アレ」

 突き放すような口調だった。

「アレを初めて聞いた時、私、思ったんです。ああそうだ、誰かが生贄になってくれればいいのにって」

 何を言っているのか分からない。

「あの時の捜査本部がどんなだったか、気にしたことあります?」

 とうに流れ去った過去を見透かそうと、その眼差しが宙に漂う。

「会議があるごとに怒鳴られるんですよ。ふざけるなー、何としても見つけろー、警察の威信にかけてーって」

 半分茶化すみたいにして、青柿は声真似をする。

「私たち梅ヶ丘署の人間は、半分サンドバック要員です。小突かれたり椅子蹴られたり。体のいい、ストレスの捌け口」

 樋山が起こした乱闘騒ぎは、その一つの帰結だった。

「もう――何て言うかな――馬鹿らしいていうか、不毛? だって、犯人はどう考えても藤池光彦に決まりでしょ? 証拠が一つでもあればいい。でもそれがどうしても見つからない。いつ終わるかも、そもそも終わるかも分かんない」

 青柿が、中林が、徹を見る。

「それもこれも全部、あの事故がきっかけ」

 息の仕方を忘れてしまったかのような心地がした。

「水脇さんは、ずっと、後悔してた」

 三月十二日、夜。

「樋山さんのこととか諸々、耳に入ったみたいで、細くって、今にも折れそうな声で謝るんです水脇さん。私に、謝るんです。迷惑かけて、すまないって。このまま藤池光彦を送検できなかったら、どうやって責任を取ればいいかわからないって」

 証拠を見つけなければという重圧に苦しむ、現場の捜査員への罪悪感。

 理不尽な仕打ちを受ける梅ヶ丘署の仲間たちへの罪の意識。

 もしも最後まで証拠が見つからなかったらという底知れぬ恐怖。

「私が、水脇さんのせいじゃないって何回言っても、でも、謝るんです」

 捜査が長引くほど、水脇の心は抉られていったのだろう。

 徹は違った。

 全ての神経はあの事故に注がれていた。五人の死という重い現実に吞み込まれていた――いや、そこに安住していたとすら言えるかもしれない。捜査のことなんて眼中になかった。背後にあった苦しみに見向きもしなかった。気付きすらしなかった。

 それが罪でなくて、何だろう。

「だから、一課長が、誰かが大和海を手引きしているかもしれないって言った時、私は、もし本当にそうなら、それはきっと、水脇さんがやったんだって思った。梅ヶ丘署のみんなもそうだったし、梅ヶ丘署以外でも、松野さんか水脇さんのどっちかだろうって言う人が多かった。そうじゃなくて、捜査本部の誰かの仕業だって人もいた」

 だが全ては、中林の勘が当たっていればの話だ。

「その可能性は、掘り下げないことにした。全員がそうしようって納得した。一課長も含めてみんな」

 藤池光彦は迅速に書類送検された。

「だってそんなことして、もし本当に誰かが手引きしてたんだとしたら、その人の、私たちの生贄になってくれた人の覚悟を、踏みにじることになるから」

 誰かが生贄になってくれればいいのに――その意味が、ようやく分かる。

「ずっと曖昧なままで、よかったのに」

 わなわなと声が震えていた。

「ほんと、余計なことしますね」

 込み上げるものを強引に飲み下すようにして青柿は俯いた。

「誰かが手を汚したって、決まっちゃったじゃないですか」

 重く苦しい沈黙が、徹を潰そうとする。

「俺は、水脇さんじゃないと、思う」

 情けない声が押し出される。

「会って来たんだ、水脇さんに。俺は、水脇さんを信じたいと思ってる」

「何、言ってんですか?」

 空気が薄い。

「そんな簡単にボロ出すわけないでしょ?」

 青柿が近づいてくる。

「これ以上調べて、何になるんです?」

 後ずさる。すぐに背中がドアにぶつかる。

「情報を漏らしたのが誰でも、それで真相が変わるわけじゃない」

 徹の目の前で青柿は止まった。

「そもそもその人が偽証に加担したのは、元を正せば松野さんのせいじゃないですか? 何の資格があって、あなたは、その人を責めるんです?」

 赤く腫れあがった青柿の目。

「あの事件は、あなただけの事件じゃない。もうこれ以上、引っ掻き回さないで」

 何も、徹は言えなかった。


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