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次の当直が終わるなり、練馬に向かった。
雑多な環境音を鼓膜が拾っていた。そこには、これまで気が付かなかった細やかな音もあった。廊下にわずかに積もった砂利と、すり減った革靴の底が滑るように擦れあう音。室外機が震える音。遠く、烏の鳴く声。
聴覚だけではない。あらゆる感覚が研ぎ澄まされていた。手すりの細かな汚れが浮き上がって見えた。走り去ったバイクの排ガスの微かな臭いが届いた。唾液にも味がした。空気の感触すら分かる気がした。
大和の部屋の前に、徹は立った。
ベルを押す。返事がない。二度、三度と鳴らすが、応答はない。
出直すなど、考えもしなかった。
見張り場所を求めて放浪し、最終的にエントランスの目の前にある駐車場のブロック塀に身をもたれた。
徹は待った。
天球の頂点から地上を見下ろしていた太陽も、いつしか茜色に染まりながらマンションの裏へとにじり落ちていく。時の流れの感覚が酷く鈍っていた。空腹も感じなかった。喉の渇きにだけは抗えず、駐車場の自販機で水を買ってはすぐに空にした。一体何本買ったか分からない。とめどなく噴き出る汗がついさっきまでペットボトルの中に収まっていた水であるという事実が不気味だった。
日が落ちるにつれてアブラゼミの声が消えていき、夏の終わりを予感させるツクツクボウシの合唱が取って代わった。
やがて、夜の闇が少しずつ夕日を押し出し、天空に星の気配が漂い始めた時、日の名残りを背にして、男がこちらに向かって来た。
麻の黒ズボンに白のTシャツ、右肩にかかった黄土色のバッグ。
考えるよりも前に足と声が出た。
「大和さん」
視線が合わさる。
「どうも、度々すみません。少しよろしいですか」
目に見えて怪訝な顔をする大和を、じっと見つめた。
「実は、妙な話が出てきまして」
声が揺らめく。
「当時、大和さんから事情聴取をした刑事の話なんですけどね」
一歩、二歩と、大和に歩み寄る。
「どうも、大和さんの証言に違和感があったっていうんですよ」
大和の片頬だけが笑みを作る。
「違和感?」
「いや、その人が言うには、誰かに頼まれて証言しているみたいだったって、そう言うんです」
また一歩、近づく。
大和のスニーカーがジリリと後ずさる。
「大和さん。何か、心当たりありませんかね?」
「――さあ」
大和は徹の目を見ない。
「本当に、心当たりはありませんか」
「あるわけないでしょ」
足早に場を立ち去ろうとする大和を身体で阻む。
「まだお話は終わっていませんよ」
舌打ち。
「何なんですか、十何年も経って、今さら」
「事件に今さらも何もありません」
切れ目のない瞬き。小刻みに震える膝。
「心当たりが、おありなんですね」
灰色の顔面に青が染みこむ。
「だから、ありませんって」
「調べればすぐに分かることですよ」
大和が息を呑む。
「この人、ご存知ですか」
携帯で水脇の写真を見せる。
「知らない」
碌に見ようともせずに大和は首を振る。
「ちゃんとご覧になって下さい」
「だから知らないって」
ほとんど叫び声に近かった。
「もう、帰って下さい」
徹を強引に押しのけた大和は、マンションの中へと逃げるように姿を消した。
宵闇が、音もなく忍び寄る。
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