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 少し重たいスライドドアを横に滑らせるや否や、過去が押し寄せてきた。

 落ち着いた琥珀色の照明に乗って押し寄せる香ばしい油の匂い。商売繁盛という言葉がぴったりな耳心地のいい賑やかさ。十数年ぶりだが、何一つ変わっていない。

 予約した松野ですと告げると、お連れ様がいらっしゃっていますと言われた。カウンター席の脇を抜けて奥の個室席を覗くと、樋山がおしぼりで顔を拭っていた。

「よう」

 声を掛けると、樋山は慌てておしぼりを置き、眼鏡をかけ直した。

「どうも、しばらくぶりです」

 ふっくらとした顔がテカテカと光っていた。

 取り敢えずと生ビールを二つ頼み乾杯した。樋山は最初の一口で半分飲み干し、徹が三回口をつける間にジョッキを空にした。生のおかわりを頼みつつ、お任せコースを二つ注文する。もう満腹とこちらが申告するまで次々に串揚げが届くシステムだ。

「でも、いいんですか? テツさんの奢りで」

 そう尋ねる樋山の頬は既に赤くなっている。

「誘ったのは俺だから」

「助かります」

 神に拝むように樋山は手を合わせる。

「正直ありがたいです。色々切り詰めてるとこなんで」

 何となく察しがついて、

「何、子ども?」

 照れ臭そうに樋山は肩をすくめた。

「おめでとう。何人目?」

「三人目です。出産は多分十二月末くらいで、もしかすると年越してからかもって。時期が微妙なもんで、嫁さんと、産まれるのが今年か来年かで賭けてるんですよ」

 僕は今年に賭けましたと樋山は胸を張る。「そうなんだ」としか返しようがなかった。

「上の子はいくつ?」

「長男が来年小学生で、長女が四つです」

「じゃあ奥さん大変だ」

「ってか家族中大変です。両親の手も借りて何とか回してます。僕もこれでも三キロ痩せました」

 樋山は自信満々と言った風に腹を叩いてみせた。

「幸せそうで何よりだよ」

 そうこうするうちに串が揚がり始めた。定番の牛串揚げから始まり、銀杏、トマトのベーコン巻き、アスパラガス、白身魚、ナスと続く。サクサクとした食感で歯を喜ばせるきつね色の衣には、混じりけのない油のコクが凝縮されていて、それが素材の旨味を存分に引き立てる。変わりがない味だ。

 新しい串が供されるたびに、樋山は歓声を揚げ、幸せそうに食べた。一つ一つの仕草に愛嬌が満ちている。普段なら気になる咀嚼音すら小気味が良い。

 まもなく椎茸の串が届いた。小ぶりな傘の上にはタルタルがかかっていて、冠雪した山のようだ。味はきのこだとは信じられないくらいジューシーで、ソースに細かく刻まれた胡瓜と玉ねぎも良い仕事をしている。

 郷愁を誘う味だ。

 この店は家族三人の行きつけだった。二月に一度は訪れていたから、軽く数十回以上は来ているだろう。

 まだ小学生だった莉帆はきのこが嫌いだった。それも食わず嫌いというのではなく、何度も挑戦はしていたのだが、それでもダメなものはダメなのだった。

 あの日は、それこそこの個室で食べていた。私たちが椎茸を食べようとすると、莉帆が突然、「それ美味しそう」と言い出した。それまでは見向きもしなかったのに、何かが琴線に触れたようだった。

 残してもいいからと、徹の串を莉帆にあげた。恐る恐る、小さな口で、莉帆は椎茸の傘をかじった。

 途端に、その顔が華やいだ。

 そこからはドミノ倒しのように、色々なきのこが食べられるようになった。莉帆の好き嫌いの克服にこの店は一役買ってくれたのだ。

「それ好きなんすか」

 ハイボールのジョッキを片手に、樋山が尋ねる。

「そう見えた?」

「いい顔して食べてましたよ」

「樋山に言われたかないよ」

「ありがとございます」

 樋山は一人乾杯の仕草をして、ハイボールを口に運ぶ。

「テツさん、今はどこ住んでんですか?」

「まだここに住んでるよ」

「え! まじっすか」

 鳩が豆鉄砲を喰らったようなというのは、こういう顔を言うのだろう。

「そんな驚くことじゃないだろ」

「いや驚きますよ。え、じゃあご近所さんじゃないですか」

「そうなるか」

「え、いや、ちょっと待ってくださいよ。だって、テツさんが機捜に異動になったのが、えっと」

「七年前」

「でしょ? それで一昨年、捜査一課ですよね」

「青柿の部下としてな」

「あ、そうだ、まあその話は後でするとして、何で近くに引っ越さないんですか」

 あまり理由を考えたことがなかったので、テンポよく答えられなかった。

「面倒だから?」

「通勤の方が面倒じゃないですか」

「いやまあ、早く起きるだけだから」

「てかそもそも、あのボロアパートにまだ住んでんですか?」

「まあ、ボロかは分からんけど」

「あ、すみません。うわー、いや、でもそういうことですよね、そりゃそうだわ」

 樋山はそうやってぶつぶつと呟いてから、

「でも住もうと思えば、マンションとか、もっといいとこ住めますよね? なんで引っ越さないんですか?」

「何、そんなに梅ヶ丘から出てって欲しいの?」

「んなわけないじゃないですか」

 樋山は分かりやすく不満顔になる。

「特にそうしたいって思わないんだ」

 徹は言った。

「寝る場所があれば、まあいっかって」

 本心だった。樋山の方が悲しそうな顔をした。

「ほんとにそれでいいんですか?」

 樋山は身を乗り出すと、誰に聞かれるわけでもないのに囁き声で、

「テツさん、より戻したくないんですか」

 自分が狼狽えるのが分かった。

「向こうが嫌だろうから」

「奥さんがどうこうじゃないですよ」

 樋山は切り返す。

「テツさんがどうかって話です」

 いたって樋山は真剣だった。

「いいだろ俺の話は。折角の飯が不味くなる」

 野菜のスティックを手に取り、それを樋山の鼻先に突き付ける。

「代わりに、お前の幸せをおすそわけしてくれよ」

 樋山は渋々といった感じで惚気話を始めた。ものの一分足らずで、不服の表情は跡形もなく消えた。


――テツさんがどうかって話です


 だが、汲めども尽きぬ甘いエピソードにいくら相槌を打っても、その言葉が耳から離れなかった。

 あの事故の後、家に帰ることがめっきり減った。仕事の忙しさにかこつけて、あるいは仕事を故意に忙しくして、署で仮眠をとったり、捜査本部の近くに泊まったりした。

 家族仲が悪くなったとか、他に女が出来たとか、そういうことではなかった。家の居心地も悪くなかった。

 むしろだからこそ、徹は帰らなくなった。

 五人の命を失わせた自分が、のうのうと平穏な毎日を送ってよいのか。心のどこかでそう思っていた。

 事故から数年して、妻が言った。


――私が離婚したいっていったら、あなたはそれでもいいの?


 その瞬間、自分はそう言われるのを待っていたんだと気が付いた。自分がしたことの報いを受ける日を――情けなくも、自分からは手放す度胸のないものを奪われる時を――待っていたんだと。


――君が、いいなら


 そう言って、離婚が決まった。当然、莉帆の引き取り手は妻になった。


   *


 結局、樋山は徹より十本余計に食べた。

「いやあ本当、ごちそうさまでした」

 甘味のほうじ茶アイスまで綺麗に平らげた樋山はご満悦の様子だ。

「でもほんとにいいんですか? お会計」

「気にすんな。こういう時のためにボロアパートに住んでんだから」

 伝票の乗ったトレイにクレジットカードを置いてから、徹は樋山に向き直った。

「その代わり、少し聞きたい話があるんだ」

 歯間をまさぐる楊枝が動きを止めた。鼻息で樋山は笑った。

「そんな気がしてました」

 脱力したような声だった。

「奢るから飯行こうって電話貰った時から、ああこれは、何か頼まれるなって」

「何だよ。樋山に会いたいだけかもしれないじゃないか」

「ないですよ、それは」

 樋山は手をヒラヒラと振る。

「用がなきゃ、テツさんご飯誘わないでしょ」

 どこかで聞いたことのある台詞だ。

「聞きたいのは、藤池光彦の事件のことなんだ」

 樋山の顔の火照りが一瞬で失せた。

「樋山。お前、捜査本部にいたよな」

「――殴ったんで、最後の方はいませんよ」

「それでも大体は知ってるだろ」

 不自然な愛想笑い。

「どうですかね」

「少なくとも俺よりは知ってる」

 扉の閉められた個室は存外静かなものだ。

「青柿が、事件のことで何かを隠してる」

 樋山の口が半開きになる。

「何か心当たりがないか? あの事件の捜査の過程で、何かあったのか?」

「どうだったかな」

 樋山の表情は分かりやすい。

「心当たりがあるんだな?」

「今からでも割り勘にしません?」

「樋山」

 おびえるような目。

「頼むよ」

「何だって、そんなこと知りたいんですか」

「頼む」

 額をテーブルに押し付けた。冷めきった衣の欠片が、徹の頭蓋とテーブルに挟まれて粉々になった。

「俺が言ったって、言わないでくださいよ」

 惚気話のトーンより、優にオクターブは低かった。

「あの帳場は、とにかく、異様でした」

 樋山は掌を丸める。

「報道も凄かったし、上からの圧力もえげつなかったし、犯人はもう、最初から分かり切ってるのに、藤池光彦以外、いつまでたっても証拠出て来ないし。みんな、ずっと殺気立ってました。空気――空気っていうか、雰囲気、最悪でした。地獄でした」

 落ち着きなく、樋山は指を組み替える。

「そういう状況だと、弱い者いじめが起きるんですよ。あの帳場だっだら、それは俺たち梅ヶ丘署で。おたくの捜査員が事故起こさなきゃこんなことなってねえだろって」

 一瞬、目の前が真っ暗になった。想像だにしなかった、あの事故の波紋だった。

 徹が復帰した後もきっと、気を遣わせまいと、梅ヶ丘署の面々はそのことについて口をつぐんでいたのだろう。

「俺が手出したのは、そういう馬鹿です」

 樋山は続ける。

「結構我慢したんですけど、結局、駄目で。あん時は切れやすかったんで、ほんと、馬鹿なことしました」

 停職処分が樋山には下された。

「でも、ようやく目撃証言が出てきてくれた。それ聞いて俺も、もう捜査から外されてましたけど、ほっとしました」

「その証言が決め手になって、藤池光彦は被疑者死亡で書類送検された。それで、終わりじゃないのか」

 樋山は徹に視線を合わせない。

「本当はね、内輪で、ひと揉めあったんです」

 唾を飲みこむ音が徹の中で大きく響く。

「その目撃者の取調べをした刑事が、送検に待ったかけたんですよ」

「どうして?」

 言いづらそうに唇をしきりに動かしてから、樋山はぽつりと言った。

「誰かに読まされてるような感じがするって」

 唾をゴクリと飲み下した。

「それ、何て刑事か覚えてないか」

「当時の捜査一課のエースですよ」

 樋山の口から零れたのは慣れ親しんだ名だった。

「中林刑事です」

 聞いた瞬間、血の気が引いた。


――以後、違法捜査は決してしないと、お約束して頂けますね?


 そう徹に忠告した中林自身が、目撃証言の信憑性に疑義を呈していた。

「中林さんも確信まではなかったみたいです。でも、証人の背後関係を慎重に洗うべきじゃないかって、進言した」

 いわゆる鑑取り捜査。

「でも結局、鑑取りは形だけで、捜査本部は藤池光彦を送検しました」

「どうして? 一課長が、そう言ってるのに――」

「そう言ったからですよ」

 樋山は徹にかぶせるようにして言った。

「もし鑑取りで、誰かが目撃者に入れ知恵をしていたことが分かったら、捜査はまた振り出しに戻ってしまう」

 すぐそこにある地獄の終わりが、遠のいてしまう。

「それを、捜査本部は嫌ったんです」

だから送検を強行した。臭いかもしれないものに蓋をするために。

「それが、僕の知っている全てです」

 うなだれる樋山が、おずおずと言う。

「テツさん。もう、いいですか?」

 思考が漏れるのを防ごうと、口元を手が覆う。

 虚偽の証言の可能性があるという中林の主張は、皮肉にも送検強行を招いた。ようやく訪れた送検のチャンスをみすみす潰すような真似はしまいと。

 だが、そもそも――

「そんな誰かがいたとして、それは、誰なんだ?」 

 樋山が素通りした重大な疑問。

「そいつはなんで、入れ知恵なんかした? 動機は何だ?」

「中林刑事の気のせいっていうのが、一番ある可能性だと思いますけど」

 徹は無視をした。

「誰にとって一番、大和海の証言は都合がよかった?」

 その問いの答えは簡単だった。

 大和海の目撃証言のような、決定的な証拠を求めていたのは誰だ? 

 現場の捜査員だ。捜査本部だ。主語を大きくするなら、警察組織だ。

「捜査本部の誰かが、大和海に情報を流した可能性があった――」

 そう言いながら、違和感が喉元をせり上がって来る。

 大和海の証言には、現場の警察官すら知らなかった事実が含まれている。

 藤池光彦の軽自動車の後方に、マルーンのステッカーが貼られていたこと。

 無論、光彦の遺族などへの事情聴取を通じてその事実を知っていた捜査員が漏洩を起こした可能性もある。ただ、かなり薄い線であることもまた否めない。

 誰かいないものか。警察関係者で、ステッカーのことを知っていた人間が――

 全身が粟立った。

 いるじゃないか。現に今ここに一人。

 そして、あの事故の時、隣に座っていたもう一人。


――そう、水脇が辞める少し前だったな


 出川の何気ない一言が不意に蘇る。

「もしかして」

 声のわななきを抑えられなかった。

「青柿は水脇さんを疑っていたのか?」

 樋山の顔が歪んだ。正解のシグナルだった。


――だったら時間の無駄だろ。何で調べ直す必要がある


 誰かから聞くまでもなく、水脇は端からマルーンのステッカーの件を知っていた。大和に情報を流すこと自体は論理的に可能だ。

 問題はそこじゃない。動機だ。

「どうして水脇さんなんだ?」

 樋山は俯く。

「樋山」

 声がほとばしった。

 長い沈黙が、樋山に口を開かせた。

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