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 警視庁六階に収まる刑事部の大部屋には、普段通りのざわめきが満ちていた。入らずにちらりと奥を見やると、徹が所属する四係のデスクに相方の加茂下の姿があった。

 加茂下はすぐに気が付いて、徹の方に駆け寄って来た。弱冠三十五歳にして捜査一課に配属になったのは、持ち前の勘の良さあってこそだ。

「テツさん、何があったんですか」

 その童顔に、今は不安げな色が漂っている。

「迷惑はかけないつもりだ」

 中身のない回答に、表情に不満げな色が混じる。

「係長、えらい剣幕でしたよ。何したんです?」

「怒ってたか?」

「怒ってたっていうか――」

 加茂下は片時、思案顔をしてから、

「兎に角、相当です」

「ま、なんとか生きて帰って来るよ」

「後でちゃんと教えてくださいよ」

「おいおいな」

 突き当りの角を曲がった先、課長室の扉の横で、青柿が壁に寄りかかっていた。茶色のヘアゴムの先に伸びる尻尾のような髪の塊が灰色の壁に突き刺さっている。

「係長」

 青柿は視線を合わせぬまま、何を言うでもなく身を翻し、ドアを叩いた。

「どうぞ」

 奥のデスクに、中林は腰かけていた。

「お二人とも、こちらへ」

 応接用のソファとテーブルを避けて中林の前に赴く間も、その険しい目が徹に絡みついて離れない。

「なぜ呼ばれたか分かりますよね、松野警部補」

 痩身からくり出されるまとわりつくような声質は、取調べの名手という称号に似つかわしい。ノンキャリアからの叩き上げだが、それらしい泥臭さは皆無で、立ち振る舞いはスマートそのものだ。

「先刻、高地登志勝さんから抗議の電話がありました」

 中林は手元のメモに視線を落とす。

「昨日午後一時頃、松野と名乗る刑事が事前の連絡もなしに訪れ、前歴のことを根掘り葉掘り聞いてきた。捜査なら仕方がないと応じたが、途中からこれは私的な捜査に違いないと気が付いた。今は善良な一市民として暮らしているのに、過去のことを思い出す羽目になったがため、心身の不調を来している。これは捜査権の濫用だ――」

 楽しそうに抗議をする高地の顔が目に浮かぶ。

「松野警部補。高地さんから無断で事情聴取をしたことは、事実ですか?」

「はい、事実です」

 傍らの青柿が小さく息をつく。中林は回転椅子のビロードの背もたれ深く身を預けた。

「公務員職権濫用罪。ご存知ですよね」

 徹に答える暇を与えることなく、中林が条文を諳んじてみせる。

「公務員がその職権を濫用して、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害したときは、二年以下の懲役又は禁錮に処する」

 刑法百九十三条、と心の内で呟く。昇進試験の頻出問題の一つだ。

「松野警部補の行動は、公務員職権濫用罪に該当する可能性があります。警察官としてあるまじき愚行です」

 中林は足を組み替えながら、

「松野警部補。高地さん以外から同様の事情聴取をした覚えはありますか?」

 白状すべきか、ごまかすか。迷いが生じた時点で勝負は決していた。

「覚えがあるようですね」

 中林の目は騙せない。

「察するに、藤池光彦事件の関係者を当たっていたんでしょう?」

 黙るよりなかった。

「松野警部補はあの事件に因縁がありますからね。色々と、思うところがあるのかもしれません」

 理解を示すような声色に、思わず視線を合わせてしまう。

「だがそれは違法捜査の言い訳にはならない」

 正論だった。

「以後、このようなことは決してしないと、お約束して頂けますね?」

「申し訳ありませんでした」

「具体的な処分については、追って通達します」

 唇を嚙む。

「青柿係長も、ご指導のほど、しっかりとお願い致します」

「承知しました」

 中林は再び徹に視線を転じた。獲物を狙う肉食獣のような鋭い眼光だった。

「あなたをここに呼んだのは、身勝手な振舞いをさせるためではない。あなたと青柿係長のコンビネーションに期待したからです。その期待を、これ以上裏切らないように」

 部屋を出るなり、青柿は徹の手首を乱暴につかんだ。連行先は階段だった。

「一体、何しているんですか?」

 階上階下に声が大きく反響するが、青柿は気にする素振り一つ見せない。

「すまない」

「こんなことして、松野さんに何の得があるんです?」

 返答に窮する間に、青柿は更に質問を重ねる。

「誰かから頼まれたんですか?」

 徹は口をつぐんだ。青柿は呆れたと言わんばかりに浅い息を吐いた。

「もう、二度としないでください」

「――すまん」

 実際、主だった事件関係者とは既に接触を果たしていた。案の上、事件に新たな展開はありそうにない。残された仕事があるとすれば、光彦に冤罪の余地などないという現実を藤池家に改めて伝えることくらいだった。

「もうとっくに、終わった事件ですよ」

 吐き捨てるように青柿は言う。

「もう、ほんと、馬っ鹿みたい」

 いつになく青柿は感情的だった。部下への叱責の一環という風でもなかった。これほどまでに憤懣を剥き出しにする姿を、徹は見たことがなかった。

 微かな違和感が、胸の底に芽吹く。

「青柿も、藤池光彦の事件が気になってたんじゃないのか?」

 だから、尋ねずにはいられなかった。

「――何のことですか」

 底の浅い声だった。

「さっき、出川さんに会って来たんだ」

 ピクリと、青柿の口元が動く。

「出川さん言ってたよ。水脇さんが辞める少し前、藤池光彦の事件のことを、青柿と話したことがあるって」

 徹の視線を受けるや、黒い瞳は落ち着きなく揺れ動いた。

 寒気が走った。

「お前、何か隠してないか?」

 己の罪をごまかそうとする犯罪者を、何百、何千人と目の当たりにしてきた。

 中林のレベルにまでは至らずとも、見間違うはずがない。

「あの事件に、何かあるのか?」

 数秒の静寂。

「ありませんよ、何も」

「青柿――」

「全部終わったことです」

 喉をかき切らんばかりの鋭い声が響く。

 徹を捉える眼差しにはいつしか敵意があった。

「自分の仕事に集中して下さい」

 そう言い残して、青柿は大部屋へと消えた。

 視線の残像が網膜にこびりついて離れなかった。


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