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 練馬駅から歩くこと十分。横に長い三階建てのマンションは、ちょうど白線の内側に日陰を落としていた。

 日差しが入り込まない分だけ暑さが和らいでいるエントランスには各部屋の郵便受けがまとめられていた。指でなぞるようにして三〇三号室を探す。

 間違いなく、大和とある。

 八百万に暇を告げた後、事件の目撃者である大和が居住していたアパートを尋ねた。大和は既に部屋を引き払っていたが、大家の直田は転居先をあっさりと教えてくれた。大和がどういう人物だったかも尋ねたが、大した印象はないらしかった。

 藤池光彦が冤罪だという結論を何とかして手に入れようと望むなら、大和の目撃証言が噓っぱちだと言い張るしかない。フィクションでならありそうな展開だが、可能性はゼロに等しい。

 虚偽証言を疑うなら、何者かが大和に情報をリークしたと考えるよりない。だがそもそも、大和の証言以前に「マルーンのステッカーが光彦の車の後方に貼ってあった」という事実を認識していた者がほとんどいないのだ。藤池光彦当人は死亡している。残るは光彦の同僚に加え、菊子、稔、凛香、そして論理的には徹と水脇くらいだろうが、誰をとっても大和にマルーンのことを知らせる義理はないし、だいいち面識も関係もない。

 時間は平日の真昼間。仕事に出ていたら致し方ないと思っていたが、幸い数秒で大和は姿を見せた。血色が悪い肌が寝間着の灰色に同化している。徹を訝し気に見る目は赤く充血し、乱れた長髪と無精髭は廃墟に繁茂する雑草を思わせる。

「実は、訳あって藤池光彦の事件を調べ直していまして」

 藤池光彦という名を聞くや、大和は目を大きく見開いた。

「当時、大和さんは重要な目撃証言を出されてますね。今一度、お話を伺えませんか」

「その時、話した通りだと思いますけど」

 大和はおずおずと言った。

「夜、散歩に出たら、なんか車があったっていう」

「どんな車でした?」

 大和の視線が記憶をまさぐるように彷徨う。

「黒の車、だったと思います。正直、そんなに覚えてないです」

「何時ごろだったか、覚えてますか?」

「夜中の二時とか、それくらいだったと思いますけど」

 声に自信がない。

「リアガラスにステッカーが貼ってあったんですよね?」

「――リアガラス?」

 大和は困ったように目を細める。

「車の後ろのガラスです」

 大和はなぜか小さく声を立てて笑った。

「ああ、後ろのガラス。そうでした、何かのキャラが貼ってあったんですよね。あの、アニメの、白玉、みたいな」

「マルーン、でしょうか」

「ああ、そうそう、マルーン。マルーンです」

 十二年も前になる。記憶が薄れているのは自然なことだった。

「調書では、その日はよく眠れなかったとおっしゃってましたね?」

「あの日は、大丈夫だろって思って、エナドリを夜飲んじゃって、結局、ダメで」

「しかし、よく散歩しようという気になりましたね」

「見てみたくないですか、夜の雪の街とか」

 徹自身は大して興味を惹かれないが、見てみたいと思う気持ちも理解できる。

「事件当日に車を見たことは、聞き込みを受けるまで忘れていましたか?」

「忘れてたっていうか、忘れかけてたっていうか、まさか事件と関係はないだろって勝手に思い込んでたっていうか、でも、いざ話を聞かれると、あれって、もしかしてって思って、一応、話しておこうかなって思って」

「ちなみに現在は、お仕事は何を?」

 供述にさしたる不審点はない。話すべきことはほぼ尽きている。

「ああ、バイトをしながら、ウェブライターをやってます。だから真昼間なのにこんな格好で、はい」

 気後れしたように大和は笑った。

 早々に話を切り上げて、大和の部屋を後にした。

 時刻を見ると、まだ午後二時を少し過ぎたばかりだ。疲労は溜まっているが、この際だから寄ってしまおうと決めた。

 徹には尋ねたい人があった。


   *


 短く刈り揃えられた銀髪が遠目からでもくっきりと見える。

「どうも」

 声を掛けるや、出川は目線と口角を上げた。

「テツ、随分とご無沙汰じゃないか」

「今、大丈夫ですか」

「構わん」

 若手の警官に交代を頼み、奥の休憩所に上がった。到るところがささくれ立つ畳からはイグサの香りがとうに消え去り、代わりに男の臭いが染み込んでいる。

「麦茶でいいか」

「はい」

 今日二回目だというセリフを喉元で押しとどめる。赤坂見附交番お手製の麦茶は色が濃いわりに、どういうわけか味は薄い。

 胡坐をかいた出川は、間違い探しでもするかのように徹の顔を見つめてくる。相変わらずの視線の圧の強さだ。

「お前、ちゃんと寝てんのか?」

「当直明けなので」

「ならさっさと帰って寝ろ」

「ここまで来たのに、ただで追い返す気ですか」

「そういうのをサンクコストバイアスって言うんだ」

 お得意の衒学的な言葉遣い。

「青柿はどうしてる?」

「相変わらずです。立派な係長様ですよ」

「だろうな」

「可愛い後輩のはずだったのが、いつの間にやら」

「実力主義だ」

 徹の苦笑につられるように、凝り固まった出川の頬が淡く緩む。

「そう言えば、この前久々に水脇さんと話しました」

 出川の目が丸まる。

「珍しいな」

「ちょっと野暮用があったので。出川さんの話もしましたよ」

「どうせ悪口だろ」

「とんでもない。ただ、交番相談員というのが意外だなと」

「意外?」

「いや、退職して読書三昧かと思っていたので」

 出川はケッと吐き捨てるように笑って、

「俺もそこまで世捨て人じゃないよ」

 会話が途切れた。

「それで、何の用だ」

 出川の声のトーンが変わる。

「用がないと来ちゃだめですか」

「用がないとテツは来ないだろう」

 喉元まで出かかった言葉が、いざとなると出てこなかった。出川の眉間に小さな皺が寄る。鋭い眼光が徹を捉える。

 喉の奥に隠れた臆病な言葉を、ゆっくりと取り出す。

「実は、藤池光彦の事件を調べ直しているんです」

 斑模様の出川の瞼が、ピクリと痙攣するように震えた。

「お前が?」

「はい」

「なぜ」

「事情があって」

 出川はコップを右手で摑んだが、それを口元に運ぶでもなく、俯き加減に、鼻から強く長い息を吐いた。焦茶色の水面が揺る。落とし物を届けに来た男性とマニュアル通りに応対する警官の味気ないやり取りが鮮明に聞こえてきた。

「何が気になるんだ」

 出川が沈黙を破る。

「事件のことは、どれくらい覚えておいでですか」

「大体は」

その右手はコップを摑んだまま離さない。

「今回、何人かの関係者に話を聞いてみて意外だったのは、家族のみならず、光彦の保護司や職場の社長が、彼は更生を果たしたはずだと今でも信じていたことです」

 折角だ。関係者の証言を改めて取り上げ、出川の意見を仰ぐ。

「真人間になろうとしていた光彦が、あんな大それた事件を起こすなどありえないというのが、彼らの主張です。しかし――」

「ありえないことはありえない」

 右手がようやくコップから離れると同時に、予想通りの台詞が飛び出した。

「もちろん、そういった証言が重要でないとは言えない。だが、目撃証言や状況証拠を上回る証拠力を持つ代物にはなりえない。人間は関係的存在だ。目の前に誰がいるかによって、その振舞いを変える。テツを前にした私が、青柿を前した私と異なるようにね。藤池光彦についても同様、支援者の前で更生を果たしたかのように見えたからと言って、実際に更生を果たしたと即断するわけにはいかない」

 いつものことながらペダンチックな物言いである。現役時代の哲学者刑事という異名には、畏敬と揶揄の双方が含みこまれていたのだろう。

「被害者に対する執拗な暴行については、どう思いますか」

「何ら不自然なことではない」

 即答だった。

「始めは身体の動きを封じるだけのつもりがやり過ぎたのかもしれない。それまでに溜まっていた鬱憤の捌け口だったのかもしれない。無論、強盗に仮託した怨恨の線も論理的にはないではないが、にしては強盗然とし過ぎている。強盗に見せかけるためだったら何も箪笥の奥のへそくりまで盗む必要はない。盗みが目的だと考える方が合理的だ。現に当時の捜査でも、藤池光彦と八百万喜吉の間にそういった関係性は見つかっていない」

「おっしゃる通りです」

 記憶は細部まで性格だった。まるで事前に練習をしてきたかのように、いつにも増して言い淀みがない。

 そして、徹にとってはここからが本番だった。

「実は今日の午前中、被害者の八百万さんから話を聞いていたんです。そこで一つ、気になることがありました」

 出川は無言をもって、話を続けるよう促す。

「犯人は八百万さんの自宅から預金通帳や財布、それから箪笥預金を盗み出しています。金目の物を目当てに、家中をくまなく捜索している。執念深さすら感じます。しかし犯人は貯金箱に手を出していない。家中の現金を丹念に探していたにもかかわらずです。八百万さんは、事件の二年後に貯金箱の中の硬貨を口座に入金したと言っていました。ということは事件当時、一定の金額が貯金箱の中に入っていたはずなんです。しかも、犯人が絶対に見逃さない場所に置かれていた。それなのに、なぜ盗まなかったんでしょう?」

 言葉が止まらない。

「そもそも、藤池光彦の逃亡への執念も不可解じゃありませんか?」

 疑念はさらに、あの日の光彦へも飛び火した。

「奴は捜査車両を押しのけてまで逃げた。自分にやましいところがあると自白するようなものでしょう。僕たちに目を付けられた時点で奴は終わりだった。藤池光彦もそうだと分かっていたはずです。ならどうして、あんな強引な逃げ方をして、余計な罪を重ねたんでしょう?」

「それは大した話じゃない。捕まりたくなかったからだ」

 間髪入れず、しかし言い含めるような口調で、出川は言った。

「一歩引いて見れば、藤池光彦がしたことは確かに合理的じゃない。逃げたところで罪が重くなるだけだということは目に見えていた。だがテツ、そもそも犯罪者に合理的なやつがどれくらいる?」

 答えられなかった。

「藤池光彦は、周囲から更生を期待され、あるいは更生を果たしたと思われていた。その信頼を糧に、人生をやり直そうとしていた。にもかかわらず再び罪に手を染めた。それが今にも露見しようとしている。強引に逃げようとした気持ちも分からないではない。言ってみれば、現実そのものから逃げようとしたとも言える」

 出川の言うとおりだった。というか、自分でも幾度となく反芻し、既に出川と同じ結論に辿り着いていた問いを、はずみで口にしてしまったのだった。

「で、問題の一つ目だ」

 出川は手をこすりあわせた。

「一度、整理しよう。犯人が金品を求めて家中を探し回たにも関わらず、すぐ目につくところにあったはずの貯金箱を盗まなかったのはなぜか。素朴に考えつく可能性が、一つ。コストがベネフィットに見合わないこと」

「どういう意味です?」

「単純な話だ。貯金箱に入っているのは基本的に硬貨だけ、所詮は端金に過ぎない。つまりそれを盗み出すことによって得られる利益は小さい。一方で不利益は大きい。重いのはまだしも、持ち運ぼうとすれば音が立つ。だから、貯金箱にわざわざ手を付けるような真似はしなかった」

「それはそうだと思います。でも、個人的に、どうもしっくりこないんです」

 徹は反論した。

「泥棒が音を気にするというのは、一般論としてはその通りだと思います。ただ、あの事件についてはどうでしょうか。目撃証言によれば、犯人のものと思われる車は八百万さんの自宅前に堂々と停められていた。いくら音が立つといっても、車の中に入れてしまえば関係ないはずですよね。つまり、あの事件に関して言うなら、貯金箱を持ち出すリスクはさほど高くなかったんじゃないでしょうか」

 口を開きかけた出川に、もう一つあると目顔で告げる。

「それから、出川さんが言うように、貯金箱は端金だとは思います。ただ犯人は、金銭を見つけ出すのに並々ならぬ心血を注いでいます」

だからこそ犯人は、八百万が隠したへそくりまで見つけ出すことができた。

「犯人がそれほどまでに金銭に執着していたのだとしたら、たとえ大した額ではなかったとしても、貯金箱の金銭を見逃すことがあるでしょうか?」

 出川の鼻が鳴る。

「面白い」

 親指を顎に当てながら、出川は言った。

「が、説明の付け方はいくらでもある」

 声が踊っている。

「盗人の音嫌いというのは、往々にして身に染みついている。個別具体的な状況の下で音が出ることのリスクが比較的小さかったとしても、わざわざルーティンから外れてリスクを冒すかというと微妙だろう」

「しかし藤池光彦は常習犯ではありません」

「なら、犯行がなおさら慎重になってもおかしくないな」

 言葉に詰まる。

「犯人の金銭への執着というのも興味深いが、あら捜しという感もする。否定はできないが肯定もできない。例えば、真相はこうかもしれない。犯人は札には目ざとかったけれども銭には興味がなかった。フェティシズムってやつだ」

 まあ水掛け論だがな、と出川は付け加えた。

「まだ、何かあるか?」

 両掌を天に向けて降参を示す。満足げに頬を緩めた出川は、空になったコップをひょいと手に取った。

「別にテツの言うことを否定してるわけじゃない。論理的かつ合理的な反論が様々ありえるというだけのことだ」

 コップをすすぐ水音にかぶせるようにして、出川が声を張り上げる。

「まあ詰めが甘いのは確かだな。これくらいは自分で考えられなきゃいかん」

 出川の右手が蛇口を閉める。金属が捩れる嫌な音がする。

「いやぁ、でもやっぱり、さすがです」

「何が?」

 出川はシンクに腰を預けた。

「十二年も前の事件ですよ。よく細かなところまで覚えてらっしゃるなと」

「テツと水脇が巻き込まれた事件だ。忘れるわけないだろ」

 平然と出川は言った。

「それに、いい復習の機会もあったしな」

「復習?」

「ああ」

 出川はニヤリと笑って、

「それこそ、テツの上司と同じような話をしたことがある」

「青柿ですか?」

 声が少し上ずった。

「もう、随分と前の話だ。そう、水脇が辞める少し前だったな」

 六年ほど前ということになる。

「向こうが久々に会いたいって言うもんだから、いつものごとく、ノアで会った」

 ノアというのは、警視庁ほど近くにある出川行きつけの純喫茶だ。

「水脇がもうじき退職だって話をしてたらば、自然と話が事件の方に流れた。そしたら青柿が、少し気になることがあると言い始めて、概ね今日と同じような話になった。貯金箱の話はなかったがな」

「それだけですか?」

「それだけだ」

「青柿は、どんな様子でした?」

「様子?」

 出川は少し考えてから、

「様子って言われてもな――」

その時、携帯が勢いよく震えた。

こともあろうに、青柿からだった。

「松野さん、今どこです?」

 棘のある声が、何かがあったということを示している。

「中林一課長が松野さんをお呼びです」

 嫌な知らせだった。

「とにかく、早く来てください。課長室の前に、直接」


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