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「じゃ、またね!」

 前から子どもの声がした。目線を上げると、小学校低学年くらいの男の子が、歩きながら男に手を振っていた。

「ほら、前、前」

 そう言われて徹に気付いた男の子は、そそくさと徹の脇を通り過ぎてから、もう一度男に大きく手を振り、そして少し先の家に入っていった。

 徹は男に目の照準を合わせた。豊かな白髪と白髭、漫画チックな丸眼鏡、背丈は徹と同じくらい、身体はがっちりとしている。

 男の方も徹に気付き、何とはなしに、軽く頭を下げる。

 十二年前の被害のことを微塵も感じさせないこの男こそ、八百万喜吉だった。


   *


「自治会の取り組みで、子どもの一時預かりのボランティアがありましてね」

 台所から八百万の声だけが飛んでくる。

「少子化の時代ですから、お子さんのいる家庭を少しでも応援したいってことで、それで私も協力してるんです。元々、子どもも好きですから」

 ちゃぶ台の上には、さっきの男の子が読んでいたと思しき漫画が置きっぱなしになっている。

「さっきの子なんかね、一昨日預かったんですけど、その時、そこにある漫画が読みかけに成っちゃってね、それでもう、早く読み切りたいって聞かなくて、じゃあ土曜の朝に来たらって言ったら、ほんとに来て、それだけ読んで帰りましたよ」

 気ままなもんですと八百万は笑う。

「学童は、この辺りにもあるんですよね」

「そりゃもちろん」

「それだけじゃ十分じゃないってことですか」

「当然です」

 八百万はなみなみと緑茶が入った湯呑を二つ、慎重にちゃぶ台の上に置きながら、

「学童は六時には閉まりますから、それまでに帰って来れない親御さんは、習い事に行かせたり、託児所とか、民間の学童とかに入れたりってなるわけです。でも、そのお金も馬鹿になりませんでしょ? 子ども育ててみれば分かりますよ。まあかく言う私も、この年で独身なんですがね」

 八百万は徹に子どもがいないものと思い込んでいるようだった。確かに、自分が子どもを育てたことがあるとは言えないかもしれない。

「しかし、あれから十二年ですか」

 八百万は呟くように言った。

「しみじみするというと変ですが、何と言うか、妙な感慨があります」

 手元に引き寄せようと湯呑に触れたが、あまりの熱さに思わず手を引っ込める。当直明け特有のわずかな手のしびれがぶり返す。

「まだまだお若いですね、うらやましい」

 八百万は顔をほころばせる。

「この頃段々、身体が熱さを感じなくなってきましてね。エアコンとかも、本当はもう少し温度を下げた方がいいのかなあ」

 壁掛けのホルダーに収まったリモコンは二十六度と表示している。

「私は寒がりなので、これくらいが丁度いいです」

「おや、刑事さんとは気が合いそうだ」

 軽く仰け反るようにして八百万は笑う。勝手に頼りなく弱々しいイメージを膨らませていたが、実際に対面してみると、大柄な体格に恵まれ、活力にあふれた好好爺だ。

「でも、こんな昔の事件を調べ直すなんて、刑事さんも大変ですね」

「いえ。こちらこそ事前の連絡もなしに申し訳ありません」

「私にできることなら、協力は惜しみませんよ。あの事件の時は警察に、本当、お世話になりましたから。しかし、あの事件絡みで何かあったんですか?」

「それはすみません、捜査事項なので」

 私的捜査だとは口が裂けても言えない。

「そうですよね、こりゃ失敬」

 八百万はポリポリと頭を掻いてから、

「それで、あの日のことをお聞きしたいんでしたね」

 ふうと、八百万が息を吐く。

「なんてことない、普通の日でした」

 訥々と八百万は語り始めた。

「日中は絵画展に行ってました。確かターナーの特別展だったかな、上野であってね。それから、夕飯を食べて帰宅して、まだ眠くなかったので、そうだ、録ってた映画を見たんだ。アクションが派手なだけのハリウッド映画でね、タイトルは何だったかな――まあとにかく、その後、床に就きました。十二時頃でした」

 事件直前の記憶というのは往々にして鮮明になる。強制的に冷凍保存された、とりとめのない日常の一ページ。

「でまあ、寝てたんです。割とぐっすり」

 八百万は今一度言葉を切り、また湯呑に手を伸ばした。味が出過ぎた緑茶を飲み下す音が妙に大きく響いた。

「そうしたら急に、ぼんやり意識が戻って、身体が重くなったなと思ったんです。あれ、金縛りかなと思って、薄っすら目を開けようとした瞬間、黒い布が、頭の周りをこう、ぐるっとするんですよ。それが目隠しでした。その後、続けざまに、口にテープ貼られて、手足もロープで縛られて、それで、これは夢じゃない、泥棒だと確信したわけです。でももう後の祭りというか、手遅れじゃないですか。声も出せないし、動けないし。我ながらうすのろでした」

 そして、そこから始まった。

「身体中を殴られて、蹴られて、踏みつけられて、痛くて痛くて、でも、テープが貼ってあるから、声も出せない。それが、一体何分続いたのか、やられてる最中は、もうこのまま死ぬのかもしれないって思いました」

 吐き捨てるように、八百万は言う。

「本当に、酷い拷問でした」

 その一言の後、長い沈黙があった。

 その口から吐き出される息が不安定になりつつあった。数秒前に額にあった手は徐に口ひげに向かい、そしてまた数秒後には顎を不器用に撫でていた。

「すみません」

 やがて八百万は、上目遣いに徹を見つめながら言った。

「ちょっと気分を変えて、刑事さん、麦茶でもどうですか。暑い日に熱いお茶っていうのも良くなかったかなと思いまして」

 徹の返事も碌に聞かずに、八百万は立ち上がった。

 手持無沙汰な時間を紛らわせようと部屋を見回してみる。背後のテレビは大きな薄型タイプで、その脇に雑誌と本の地層が三つ並んでいる。一番上にあって目につきやすいのは季語辞典など俳句関係の書籍数冊。これを筆頭に、園芸、囲碁、将棋、麻雀、音楽と、ジャンルは幅広い。それに混じって、小説やエッセー、さらには児童書や漫画も散りばめられている。

 正面向かって左手は年代物と思しき漆塗りの箪笥で、てっぺんには筆記用具やら書類やら豚の貯金箱やらが雑然と置かれていた。その上の壁には写真が二枚、額に入れて飾ってある。一枚は紅葉に彩られた渓流を、もう一枚は雪に埋もれた集落を撮ったもので、どちらも見事なものだった。色が褪せてしまっているのが惜しい。

「この写真は、八百万さんが?」

 麦茶を持って帰ってきた八百万に尋ねると、

「ええ。雪の風景は白川郷まで足を延ばした時の、紅葉の方は御岳山の近くです」

 御岳山は青梅市の隅にあるのだと、八百万は教えてくれた。

「カメラ、ご趣味なんですか」

 八百万は微笑みながら、

「ええ、昔からずっと。実質、唯一の趣味ですな」

 やや意外だった。

「てっきり、多趣味な方なのかと」

 視線を本の山に向けると、徹の言わんとすることが分かったようで、八百万は笑みを強くした。

「ああ、確かにそれを見ると多趣味に見えますでしょう。ところがね、真逆なんです」

 八百万は胡坐に足を組み替えながら、

「たまに何か新しいことを始めようなんて思って、入門書かなんかを買って来て、しばらくは頑張って読んでみたりするんですが、大体最初の三分の一ぐらいで心が折れて、しまいにはそこで埃をかぶるわけです」

 よく見ると確かに、大体のジャンルは一、二冊止まりになっている。

「だから、その山は私の三日坊主の証です。いやあお恥ずかしい」

「とんでもない。自分はもう、そうやって本を買うことすらありません」

「だってそりゃ、刑事さんはお忙しいでしょう?」

「それでも昔は買ってたので」

 舌の上に虚しさが残る。

「仕事を辞めれば、また時間と余力ができますよ」

 そういう問題ではないと、心が呟く。

「えっと、話の途中でしたね」

 八百万は麦茶を半分ほど飲んだ。氷がグラスにぶつかる風鈴のような音がした。

「そう、散々殴ったり、蹴ったりされた後、もう身動き一つとれないと分かったんでしょうね、私のもとを離れて、家探しを始めるのが分かりました。かなり入念でね、うちには本当に大したものはないと言いたかったですが、ただ横になって、痛みに耐えることしかできなくって」

「盗まれたのは、預金通帳と財布でしたね?」

 八百万は眼鏡を外しながら頷いた。

「それと、少々の箪笥預金です。財布にはクレジットカードが何枚も入ってましたから、事件の後、手続が大変でしたよ。財布も通帳も、割合と分かりやすい場所に保管していましたから、ガサゴソって音が来る方向で、ああ、これは見つかってしまったらしいって分かるんですよ。しかしね、後になって、箪笥預金というか、へそくりまで盗られていたと知って、徹底ぶりに驚きました。一応、ちゃんと隠していたつもりなんですが」

 聞いているうちに、少し引っかかることがあった。

「そこにある貯金箱、事件当時からあるものですよね?」

 箪笥の上に置かれている豚に視線を向ける。

「ええ、そうです」

「事件当時も確か、そこにありましたね」

「はい」

 捜査資料に添付された現場写真にも、間抜けなピンク色の豚が写り込んでいた。

「こちら少し、拝見させて頂いても?」

「ええ、もちろん」

 手に取って見ると、なかなかの重みがある。腹の方に取り出し口があって、プラスチックの蓋越しに折り重なる各種硬貨が透けている。

「その貯金箱が、何か?」

 八百万が戸惑い気味なのも無理はない。

「いや、大したことではないんですが。八百万さんがこの貯金箱を利用するのは、どういった時ですか?」

「財布に小銭が溜まった時とか、そこに入れておくんです」

「それはどれくらいの頻度で?」

「頻度ですか?」

 八百万の困惑の度が増す。

「そう頻繁じゃないですな」

「一カ月に一回とか?」

「まあ、そんなところです」

「ここに溜めたお金を使ったことはありますか?」

「使ったことはないですけど、だいぶ溜まったんで、口座に入金したことはあります」

「それは何回くらい?」

「一回、だと思いますけど」

「それはいつ頃ですか?」

「えっと多分、十年くらい前だと思います」

「とすると犯人は、この貯金箱に関して言えばノータッチだったということですね?」

「ええ。そんなことしたら音で分かりますよ」

 徹がぼんやりと抱いていた違和感が、はっきりと像を結ぶ。

「つまらないことをしつこく聞いてしまって申し訳ありません」

 豚を住処に戻しながら言った。

「確認ですが、犯人の顔は見ていないのですよね?」

 些末な違和感について考えるのは取り敢えず後回しにする。

「ええ」

「事件当時、藤池光彦のことはご存知でなかった?」

「全くの見ず知らずです」

「近くに彼の実家があったということも?」

「ご近所づきあいさえ大してありませんでしたからね。いわんや、歩いて十分、十五分の場所なんざ、分かりませんよ」

 八百万は大袈裟に肩をすくめてみせる。

「藤池光彦が八百万さんに対して、一方的に恨みを募らせた可能性もあります。何か思い当たることはありますか?」 

 八百万は黙って首を振った。

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