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 翌日、大山駅に着いた時には午後七時を過ぎていた。

 南口改札を出るとアーケード商店街だった。夕食時だからか人出が多く、予想だにしなかった賑やかさに驚く。地図アプリに指示されるまま人波をかわしながら進むと、飲食店、スーパー、惣菜屋、書店、ジム、薬局、さらにはカラオケ店まで、ありとあらゆる店がある。池袋に出るまでもなく生活が完結してしまいそうだ。

 緩やかな弧を描くガラス張りの天井は黒に染まっている。アーケードは緩やかな蛇行を繰り返しながら遠く先まで伸びていた。進めども進めども果てが見ない。スマホで調べてみると、ここハッピーロード大山商店街の全長は約五百六十メートル、板橋随一のアーケード商店街なのだという。一キロくらいあるのではと思っていたが、幾重もの曲折で出口が全く見えないために、実際以上に長く感じるのだろう。

 ようやくアーケードを抜け、異様に短い青信号の間に川越街道を渡り切る。街道沿いに少し歩いてから一本脇道に逸れ、細い路地が入り組む住宅街に足を踏み入れた。街灯がポツポツと灯り始める夜の入り口。商店街に充満していた溌溂たる熱気の後だと、どこか物寂しい感じがする。

 地図アプリが案内を終了したので辺りを見回すと、コーポ大山は真横にあった。

蛾が階段の明かりに気を取られている間に二階へ急ぐ。チャイムを鳴らすと、すぐさま凛香が姿を見せた。

「どうぞ」

 安価な清涼飲料水を思わせる、印象の薄い声だった。

 凛香は灰色のジャージに水色の麻ズボンというラフな格好だった。快適そうではあるが、やや奇怪な組み合わせであることは否めず、ファッションという言葉で正当化することも難しそうだ。藤池家で初めて会った時は余所行きの服だったと見える。

 徹はダイニングに通された。他人のことは言えないがシンプルな部屋だ。目につく家具は二人掛けのソファとセットのソファテーブル、テレビくらいで、よく言えば片付いており、悪く言えば生活感に乏しい。

 キッチンから凛香が戻って来た。女性の部屋をあまりジロジロと見るものではないと我に返り、テーブルの木目に慌てて視線を投じる。

 冷えた緑茶を徹に差し出してから、凛香は言った。

「無理をして、いらっしゃらないでしょうか」

 予想していなかった会話の始まりに少し戸惑った。

「それは、どういう?」

「その、かなり無茶なお願いを聞いて下さっていると思うので」

 凛香の肩が強張っている。

「確かに、無茶なお願いというのはそうかもしれません」

 徹は苦笑して見せた。

「でも、そこは気にしないでもらって大丈夫ですよ」

 おのずと言い含めるような口調になって、凛香が莉帆と同い年だということを改めて思い出す。

 莉帆と最後に会ったのは警察学校の卒業式の時だから、もう三年以上前になる。

 特段、仲が悪いわけではない。必要があれば連絡も取り合うし、昇任試験について電話で相談に乗ることもある。ただ会うというフェーズにまで至らないだけだ。

「ありがとうございます」

 凛香の感謝の言葉を聞いて我に返る。

「とんでもない」

 雑念を振り落とすべく、少し声を張った。

「ご両親からは、池袋の印刷会社でお勤めと聞きましたが?」

「はい」

「何という会社でしたっけ?」

「エノハルです。包装紙とかパンフレットとか、会社案内とかも作ったりしてます」

「具体的には、どういった仕事を?」

「受付とか、書類作成とかです」

「どうですか、やりがいは?」

「やりがい――まあ、ストレスは、あんまりないです」

 淡泊な受け答えが続く。

「今日は、凛香さんから見た光彦さんについてお聞きしたいと思っているんですが」

 言葉を区切って、ここからが本題だというシグナルを出す。

「率直に言って、光彦さんは、どういう人でした?」

 凛香は俯いた。しばらく沈黙があった。

「優しい、兄でした」

 小刻みに頷きながら、か細い声で、凛香は言った。

「どういうところが、優しかったですか?」

「小さい頃、よく一緒に遊んでくれました」

「光彦さんが逮捕される前のことですね?」

「はい。積み木をしたり、鬼ごっこ、トランプ、あと、アニメを一緒に見ました」

 不意に勘が働く。

「そのアニメというのは、マルーンですか」

 凛香はおずおずと頷く。

「マルーンも、よく見てました」

 あの頃、皆が見ていたアニメと言えばマルーンと相場が決まっている。

「光彦さんの車にマルーンのステッカーが貼ってありましたが、それは?」

「――私が兄にあげたものです」

 それが事件解決の鍵になったのだから、皮肉と言うほかない。

「事件を起こして逮捕される前の光彦さんの様子を、覚えていらっしゃいますか?」

「あまり、いませんでした」

 小さな声だった。

「たまに帰って来たかと思ったら、両親と大喧嘩、みたいな。ベッドで寝てても聞こえてくるくらいの、だから、布団にくるまってました。でも、私には優しかったです。終わったら必ず私のところに来るんです。それで、大声出してごめんって、その声は、いつもの兄でした」

「光彦さんが変わってしまったとは、思いませんでしたか?」

 凛香は首を横に振った。

「逮捕されたと聞いて、どう思いました?」

 視線が宙に迷う。

「まだ、二年生だったので、兄が何をやったかは正直、ちゃんとは分かりませんでした。両親もはっきりは言いませんでしたし、というか、言えなかったんだと思います。でも、兄が、凄く悪いことをしたってことだけは、よく分かりました。近所の人の目もそうですし、あとは、学校で、色々あったから」

「いじめがあったとお聞きしました」

「ええ、ありました」

 機械音声を思わせる平板な響きがあった。これ以上聞くべきではないと悟った。

「少年院を出て家に戻って来た光彦さんは、どんな様子でしたか」

 一呼吸を置いてから尋ねる。

「沢山謝ってくれて、いつもの兄だなって」

 約一年間、再び家族四人での生活が続いた。

「光彦さんが一人暮らしを始めると聞いた時は、どんな心境でした?」

「驚きましたし、寂しくはありました、でも、二度と会えなくなるわけじゃないし、兄が決めたことなので」

 光彦のアパートに泊りに行くこともしょっちゅうだったという。

「大体は、両親と一緒に向こうに行って、どこかでご飯を食べてから、私だけ兄の部屋に泊まるっていう流れでした。部屋が狭かったので、とても両親までは入らなくて。それで次の朝、ご飯を食べた後、兄が車で送ってくれるんです」

 あの黒の軽自動車で、光彦は羽田とつつじが丘の間を何往復もしていた。道順は全て頭に入っていたことだろう。

「兄の部屋で大したことをするわけじゃありません。ゲーム機もないし、テレビも小さかったですし、おもちゃがあるわけでもない。でも、私は好きでした」

 心なしか、声に童心が弾んでいるような気がする。

「子どもの頃って憧れませんか、隠れ家とか、秘密基地とか。それでみんな、空き地とかにそれっぽいの作ったりして、でも、私は本物を持ってるんだ、みたいな、そういう、高揚感というか、優越感、いや、何かちょっと違うような気もするんですけど、とにかく、そういう感じで」

 凛香の頬が淡く緩んでいる。

「アパートのすぐ裏を多摩川が流れてて、少し歩くと大師橋っていう橋があって、多摩川にかかる道路なんですけど、脇に歩道もあって、そこから見ると、多摩川が東京湾に注ぎこむのも見えるし、奥の方にある羽田空港から飛行機が飛び立つのも見えるし――」

「思い出の場所ですか」

 どこかためらいがちに、凛香は頷いた。

「近くのファミレスで夜ご飯を食べた後、腹ごなしによく家族で歩きました。朝早く起きた時は、兄と二人で歩くこともあって、夜景が川面に写り込む夜もいいんですけど、朝日にキラキラ光る多摩川も綺麗なんです」

 徹の目には平凡な景色も、凛香とっては特別なものなのだろう。

「最後に光彦さんに会ったのは、いつでしたか?」

 凛香の表情から笑みの糸がほどけていく。

「事件の年の、正月明けに、泊まりに行った時です」

「その時、何か変わったことは?」

 意味深長な空白の後、

「特に、無かったと思います」

 浅い声だった。視線が徹の鼻元に落ちている。微かな動揺の為せる技だ。

 恐らく凛香には何がしかの心当たりがあるのだろう。最後の宿泊の際に異変を感じていたのかもしれないし、あるいは事件が起こった後から振り返って、光彦が凶行に到る兆候めいたものに思い至ったのかもしれない。

「事件のことを聞いて、どう思いましたか?」

 問い詰めることはせずに、違う質問を投げた。

 重苦しい沈黙が漂う。口を開きかけては窄めるという動作を凛香は繰り返していた。唇を離すたび、用意していた言葉が逃げ出してしまうかのようだった。

「今でも、光彦さんが犯人ではないと思っていますか?」

 質問を変える。沈黙はまだ続いた。

「分かりません」

 ようやく蚊の鳴くような声が響いた。肩を丸め込むようにして下を向く凛香を見て、徹は凛香に暇を告げた。もとより事件の後のことを聞くつもりはない。

 玄関で靴を履いていると、凛香が出し抜けに言った。

「最後の兄は、どんな様子でした?」

 ほどけかけた靴紐を結び直す手を咄嗟に止めた。

「必死そうに、僕には見えました」

 振り返らず、目の前のドアに声を飛ばした。

「必死に、逃げようと」

 返答を待った。

「そうですか」

 呟くように、凛香は言った。

 徹は再び靴紐に手を伸ばした。


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