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アイスコーヒーをストローでかき混ぜると、氷がグラスにぶつかる涼しい音が立つ。それに引き続くようにして、ドアベルが軽やかに鳴った。
菊子と稔だった。
立ちあがって軽く手を挙げる。菊子は首で会釈し、右半身を引きずるようにして近づいてくる。ドアを静かに閉めた稔が駆け寄り、その右腕に軽く手を添える。
店は見た目よりも縦に長く、二人が徹のもとにくるまで十数秒かかった。話が周りに聞こえない方がよいかと隅の席にしたのだが、手前の席にすべきだったかもしれない。
「暑い中、わざわざすみません」
「とんでもない」
菊子はかぶりを振る。
「ご迷惑をおかけしているのは私たちの方です。これくらい、最低限です」
「坂佐井さんと黒部社長のことも、無理くりお願いしてしまって、申し訳なかった」
稔はうつむく。
「私、子どもじみていましたでしょう?」
「いえ、お受けしたのは私ですから」
店員が水を持ってきた。徹と同じくアイスコーヒーを頼んだ二人はコップにやおら手を伸ばす。
「事実それで、少し気持ちが変わった部分もあります」
少しの静寂の後、徹は言った。
額がむず痒くなるくらい強い眼差しを受け取った。
「知らないことばかりでした」
自分がその生を終わらせるきっかけを担った男のこと。自分の人生を大きく変えた人間のこと。
「知りたい、というよりか、こう、もっと、知らなくちゃいけないんじゃないかと、考えるようになりました」
黒部と坂佐井に話を聞くまで、光彦について知っていることは捜査資料に書いてあることだけだった。事件当日の行動、前歴、住所、勤務先、家族構成。それだけだった。
藤池光彦という人間のことを、徹はほとんど知らなかったのだ。
「そうしないと、ちゃんと、向き合ったことにならないんじゃないかって」
思考がまとまるより先に、言葉が見切り発車をしているような感覚だった。自分ですら自分のことを理解しきれていなかった。
でも、稔も菊子なら分かってくれるかもしれないと思えた。
だからまた、つたない言葉を絞り出す。
「自分にも、ああなったことの、責任みたいなものがあるんじゃないかって、ずっと思ってきました」
あの日、徹が光彦を追わなかったなら、間違いなく誰も死なずに済んだだろう。藤池家が誹謗と中傷の嵐に巻き込まれることも、佐市郎が失意の中で無言を保つことも、あるいは徹が家庭を離れることも、恐らくはなかっただろう。
自分の判断が間違っていたとは思わない。水脇が言ってくれるように、自分に罪があるわけではないのだろう。
それでも、右足でアクセルを踏み込んだ瞬間、ありえたかもしれない別の未来をかなぐり捨てたという事実は変わらない。
確かに結果論ではある。でも結果は結果だ。結果が結果なのだ。
「何かを自分は、しなければいけないんじゃないかと」
明確な答えが見つからないまま、時間だけが過ぎていた。その間、徹がしてきたことと言えば、事故の日に墓参りに行くことくらいだった。
でも自己満足とすら思っていたその行為に、稔は感謝を向けた。
全てが本心ではないかもしれない。大方、形ばかりの社交辞令だったかもしれない。それでも、稔の言葉の中にほんの少しでも真実が含まれていたのなら、その分だけ、ほんの少しだけだが、自己満足にも意味があったと言えるかもしれない。
「だからというか、少し、自分なりに、調べてみたいと思っています」
藤池光彦という人間のこと、あの事件のことを、自分の足で辿るのだ。自分のために。そしてもしかすると、稔と菊子と、凛香のために。
「これが、ご依頼を引き受けることになるのかは、正直、よく分からないんですが」
徹は稔と菊子に向き直った。
「今日は、光彦さんについて、色々とお話を聞かせてくれませんか」
「もちろんです」
菊子の声は力強く震えていた。稔が傍らで深く頷いた。
「いくらでも、お話します」
*
自動車ディーラーに勤務していた稔のもとに、陣痛が始まったという菊子からの連絡が届いたのは、一九八六年五月十二日の昼過ぎのことだった。すぐさまリフォームしたばかりの家に戻り、前年に購入したばかりの新車に菊子を乗せ、病院へと急いだ。どうやら稔は菊子以上に動揺していたようで、行きの道中で事故を起こすのではないかと、菊子は気を揉んだという。
「ハンドルの手が震えてるんです。急に加速したかと思えば、急ブレーキも凄くって。速くしなきゃって気持ちと、安全に運転しなきゃって気持ちとで、多分、どっちつかずになってたんでしょうね」
翌三日の午前二時十三分、光彦は産声を上げた。予定日より二週間早い出生だった。
「よく覚えてるのは、サッカーの、ワールドカップのことです。あの年、マラドーナの、神の手があったでしょう? 私たち、たまたま家で、生で見てたんです。あまりのことで二人して大声を出したら、それに驚いて泣き出してしまったんですよ」
光彦は内気で引っ込み思案な子どもだった。外で遊ぶことはあまりなく、車好きの稔に影響されてか、熱心に集めていたミニカーで遊ぶのが好きだった。背丈は中くらい、病気がちで、月に一度は風邪を引き、季節性インフルエンザには狙ったように必ず感染した。二人の心配は絶えなかった。
「勉強も体育も、あまり得意な方ではなくて」
稔は述懐する。
「学校を嫌がることはなかったですけど、でも、できることなら家でじっとしてたいというのが、本当のところだったんじゃないかなと思います。光彦はもう、ほんとに不器用で、一回、二年生の時、学芸会で台詞を飛ばして、舞台上で固まってしまったりね。きっと私に似たんでしょう、器用なのは手先だけで、色んなことをいっぺんにできるような、要領のいいタイプじゃない。それでも――ええ、それでも、気立てが穏やかで、優しい子でした」
光彦が十歳の時、凛香が産まれた。二人にとっては待望の第二子だった。
「光彦は、ほんとに、凛香の面倒をよく見るんです」
菊子が言う。
「シャボン玉、折り紙、かくれんぼ、何でも、やってあげて、そう、絵本の読み聞かせをしてあげたり、ですからね、心配も、私たち、したんですけれど、これは、本当に、いい子に育ったなと思いました」
進学した地元の公立中学ではスポーツが盛んで、何か一つ運動部に入ることが暗黙の掟になっていた。夏や冬に外に出る必要がなく、運動量も比較的少ないという消極的な理由から、光彦はバレー部を選んだ。ところが、これが思いのほか楽しかったようで、最後までレギュラーこそ取れなかったものの、三年間真面目に練習を続け、都立南八王子高校に進学後も、迷わずバレー部に入部した。
だが、光彦の様子は少しずつ変わっていく。
「高校一年の、二学期くらいからでしょうか。我々と口をきくことが減ってきたんです」稔は口元を引きつらせる。「最初はね、そういう時期なんだろうと思ってそっとしておいたんですけど、段々、夜も帰ってこない日が増えてきまして、高校からも無断欠席の連絡が入るようになりました。これはきちんと話さねばならないと、家にいるタイミングで様々問い詰めたんですが――逆効果と言いますか。暴言を吐かれて、それから家に寄りつかなくなりました。どこにいるかも分からないような状況で。警察に相談しようという話もしたんですが、やっぱり、少し様子を見てみようと」
光彦なら、きっと大丈夫。二人はそう信じていた。
だが、高校二年に進学したばかりの二〇〇三年五月二十日。二人のもとに光彦が逮捕されたとの連絡が入る。罪状は、住居侵入、窃盗、強盗致傷、強制性交幇助だった。
「俗に言う非行少年の、溜まり場って言うんですか。そういうところに入り浸るようになっていたみたいで、そこの連中に、まあ、そそのかされたわけです」
捜査資料に光彦の共犯者二人の実名が記されていたことを思い出す。一人は光彦のバレー部の先輩にあたる園木勝、当時高校三年生。そしてもう一人が高地登志勝。当時十九歳で、都内の私立大学の二年生だった。
高地は某財閥の三男で、資料を見る限りは温室育ちのドラ息子と言ってよい。大学にも碌に通わず、父が所有する一軒家に大量の酒と煙草を揃え、非行少年グループの根城としていたようだ。家出をした少年少女も何人か住み着いていたらしい。
光彦が溜まり場を初めて訪れたのは高校一年の夏。以前から足繫く通っていた園木に連れられてのことだった。以後、高地のもとを訪ねる頻度が少しずつ上がっていき、いつしか入り浸るようになった。
二〇〇三年三月。高地と園木が盗みをやってみないかと光彦に声を掛けた。後に逮捕された高地は、二十歳が間近に迫る中、「少年法で守られる間に、デカいことを一発やってみたかった」と供述している。
高地からの誘いに、光彦は一も二もなく頷いた。
「警察で、どうして断らなかったって聞いても、ごめんっていうばっかりで、最後まで、なんでかは分からないままでした」
菊子は力なくうなだれる。先輩にあたる高地や園木の手前、断れなかったのか。あるいは純粋にやってみたかったのか。真相を知るすべは残されていない。
一件目の犯行は四月十日夕刻。八王子駅から徒歩十分程度、住宅街の入り口に聳えるマンションの一階の一室に侵入し、現金約十五万円と宝石類を盗み出した。二件目は四月十八日の昼下がり。今度は北八王子駅近辺の戸建て住宅を狙い、現金約十万円と金券七万円、時計数点を奪って逃走した。
標的の選定は高地と園木の専権事項で、光彦は窓破りの役をあてがわれた。「細かいことだけは得意だったから、こいつなら上手くやれそうだって思って誘った」と園木は後に供述している。光彦が採用した三角割りは典型的な手法で、マイナスドライバー一本で事足りるためコストも低い。一件目では少し苦戦したが、二件目ではコツをつかみ、難なく成功した。
捕まったら元も子もないからと、二件で終わりにするはずだった。しかし五月に入っても警察の捜査の手は一向に及んでこない。主犯格の高地と園木に慢心が生まれた。もう一回行ける。
三件目、五月六日の深夜。多摩川の支流である浅川ほど近くの、古くも新しくもない共同住宅の一室。
だが、想定外のことが起きた。家人の女性が帰宅したのだ。
逃げ出そうとする女性の腕を、高地ががっちりと摑んだ。大声を出すなと、台所から取って来た包丁で園木は脅した。
二人は、女性に性的暴行を加えた。
光彦はそれに、手を貸した。
*
二週間後、光彦は警察に自首をした。
高地と園木も逮捕され、放埓に満ちた溜まり場は失われた。
*
警察署での面会の際、光彦は滝のように涙を流していたという。
「あの時は、すごく、変な気持ちがしました。怒らなきゃいけない、叱らなきゃいけないって、頭では分かってるんです。実際、そういうことをしました。でも、自分でも、酷いとは思うんですが、一番に来た感情は、安心でした」
菊子の笑みは弱々しい。
「私たちの知っているあの子が、帰ってきたって」
だが既に、事件の余波が藤池家を吞みこもうとしていた。
付添人の笠川の奔走の甲斐あって、被害者全員との示談が整った。示談金は総計約六百万円。貯金だけでは足りず、少し金銭を融通してくれはしないかと、恥をしのんで親族や友人に頭を下げて回った。
事件は相応に報道された。少年法に守られて実名こそ公表されなかったものの、光彦が犯人グループの一員であるということは近隣住民にとっては周知の事実だった。外を歩くだけで肩身が狭かった。学校の保護者会では、犯罪者の血族と関わらせたくないと名指しで難詰されることもあった。
稔は地元の販売店の責任者を任されるまでになっていたが、光彦の事件後、突然朝霞の販売店への転勤を命じられた。犯罪者の親が働いている店で車を買いたくないというクレーム電話が入ったらしかった。電車を三回乗り継ぎ、一時間以上かけてようやく辿り着く朝霞店では、他の社員からの白眼視に曝された。だが貯金は消え、借金がある。多少背伸びをして手を伸ばした新居のローンも払わなければならない。
「辞めさせられなかっただけありがたいと思うしかありませんでした」稔は唇を嚙む。
凛香もまた、同級生からいじめを受けるようになった。
「あの子は、本当に光彦によくなついていて、ランドセルは、光彦のおさがりの、黒のランドセルを使ってたんです。女の子だから、赤の可愛いランドセルとか、新しいの買ってあげるって言っても、これがいいってきかなくって。そのランドセルに、ひどい汚れを付けて帰って来たことがありました。チョークのカスをかけられて擦られたんだと、本人は言ってました。それを、あの子、泣きもせずに、黙って拭くんです。何回やられても、その度にきれいにして。まだ、小学一年生ですよ。本当に強い子なんです、凛香は」
いじめのことを学校に相談しなかったのかと口に出しかけたが、すんでのところで自制した。あまりに酷な問いかけだと思った。
「塀に落書きされたり、投石とかも」
稔の述懐に呼応して、菊子からポロリと言葉が落ちる。
「でも、後のに比べれば、だいぶマシでした」
無残に割られた窓ガラスを映すニュースの映像が、稔がしごくように拭いても消えない墓石の汚れが、網膜を過ぎる。
光彦は少年審判を受け、少年院送致となった。
少年であればどんな罪を犯そうと少年法により刑罰から免れることができるというのは誤解だ。保護観察や少年院送致よりも刑事処分が相当だと認められれば、たとえ少年であっても刑事裁判を受け、実刑に服することになる。現に高地と園木は実刑判決を受け、少年刑務所への服役を余儀なくされた。
これに対して、光彦の少年院送致は寛大な処分と言える。本人が深く反省していることや、三件目の事件について犯行前に性的暴行が主たる目的であると知らなかったこと、家庭環境に問題がないこと、出頭し自供したことが重視されたのだろう。
「君はきっと更生できる。裁判官の方が、審判で、そうおっしゃってくれたんです」
大きく頷いてから、光彦は深々と頭を下げた。
*
素行良好に過ごした光彦は、二〇〇五年の年明けに仮退院し、実家に戻った。
日中はバイトをし、夜は高卒資格を取るべく通信制高校の勉強に励んだ。忙しい日々の合間を縫って運転免許講習に通い、出所後半年で取得した。保護観察は約十カ月で終了、少年院からの正式な出所を果たした。
二〇〇六年の元旦。光彦は離れた場所で一人暮らしがしたいと切り出した。
「家の周りには知り合いがおりますから、その視線が嫌だったということもあるとは思います。ですが一番は、例の溜まり場で一緒だった連中と完全に縁を切りたいというのが、光彦の望みでした。連中の何人かは家の場所を知ってまして、退院してきた光彦を待ち伏せて、色々と絡まれたようで、私たちとしても、自分のことを誰も知らない新天地で頑張ってみたいという光彦の気持ちはよく、理解できました。といっても、一人暮らしには家賃がかかりますし、何より、働き口がないといけない。それで、保護司の坂佐井先生に相談させて頂いて、先生がご存知の黒部運送を紹介して下さったんです」
坂佐井から聞いた通りだ。
光彦は黒部運送の従業員として働きつつ、喜羽荘での一人暮らしを始めた。二〇〇六年四月のことだ。就職祝いに、菊子と稔は中古の軽自動車を光彦に送った。
「光彦は遠慮してましたけど、ずっと自分の車が欲しいと言ってましたから、いい機会と思いまして。さすがに新車とは行きませんでしたが」
稔は言葉を接ぐ。
「車に関係する仕事に就けてよかったと、光彦は言っていました。私に似て、子どもの頃から車が好きでしたし、私がディーラーの仕事を楽しそうにしているのに憧れていたと言うんです。何と言うか――面映ゆい気持ちになりました」
勤続二年目の二〇〇八年には高卒認定資格試験に合格。仕事の方では少しずつ、重要な路線を任されるようになっていった。
あの事件と事故が起きたのは、全てが順調に見えた矢先だった。
「最後に光彦さんと会ったのは、いつでしたか?」
「二〇一〇年の、正月だったと思います。三日まで泊りに来ていたので」
「その時、何か変わったことは?」
菊子はゆっくりと首を横に振る。
「一日二日に多分、飲み過ぎたんだと思いますが、三日は少し体調が悪そうだったというくらいで、いつも通りでした」
「では、最後に連絡を取り合ったのは?」
「事件の二週間前に、夏にできたら旅行に行こうという話をしていたもので、その話をしたのが最後です。特に変わったところには、気付きませんでした」
菊子の声は虚しく響いた。
*
駅まで見送る頃には夕日が沈みかけていた。
「本当に、ありがとうございました」
改札の前で、菊子は稔に支えられながら身を折った。
「光彦の話を、こんなにしたのは、初めてです」
浮かぶ笑みには疲れの影がある。もう少し早く切り上げるべきだったかもしれない。
「松野さんには、どうお礼を言ったらいいか」
稔はひとりごちるように言った。
「とんでもないです」
否定しようとして、声が心なしか力んだ。
「感謝されるようなことは、何も」
稔は穏やかな表情のまま、ゆっくりと首を振る。
「もし、何かが分かるようなことがあったら、連絡を頂けますか」
そう言うと、菊子は笑みを深めた。
「それまでは頑張って、生きてるようにしますから」
思うように動かないはずの右の頬も、淡く緩んでいた。
帰路に向かう徹の頬を、夕闇が送り出した微風が撫でる。
疲れているはずなのに、心も身体も軽く感じた。
正しい道を選べたような、そんな気がした。
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