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 事故が起こったのは、二〇一〇年二月二八日、午前三時七分のことだった。

 徹は当時、梅ヶ丘署の刑事課にいた。


   *


 夜十時過ぎから雪が降り始めた。風はなく、勢いも大したことはなかったが、小さな雪片は固く引き締まっていて、都会にありがちな水分をたっぷり含んだ牡丹雪とは一線を画していた。

「雪見酒と行きたいもんだがな」

 水脇は至極残念そうな視線を投げかけた。

「ビールでですか?」

 からかい半分に徹は尋ねた。水脇はビールしか飲まない。

「ビールだって酒だろ」

「風情がなくないですか」

「余計なお世話だよ」

 水脇は口を尖らせる。

「まあ、これで我慢しましょう」

 徹は湯呑を水脇の前に置き、なみなみと茶を注いだ。水脇が大袈裟に鼻をふかす。立ち上る湯気が機敏に揺らめく。

「そろそろですね」

 自分のコップに注ぎながら言う。時刻は午前一時四十分を過ぎたところだった。

当直勤務は夕方の五時から翌朝の八時半まで及ぶ長丁場だ。仮眠時間が用意されていないわけもなく、午後九時から午前二時の間にとる仮眠を遅寝、午前二時から七時の間にとる仮眠を早寝と呼ぶ。どちらの時間に仮眠をとるかは当直担当者が自由に選択できるというのが梅ヶ丘署の習わしだ。水脇と徹が早寝派で、生活安全課や交通課から集められた残りの四人の当直は、今まさに遅寝のクライマックスを迎えている。

「だから口に出すなよな」

 水脇は唇が震えるような音を出しながら茶を啜る。

「そういうこと言うと、大抵何かあんだよ」

 早寝の長所は、朝に起きて夜に寝るという通常の生活リズムに即していること。他方で最大の短所は、仮眠前に事件が起きれば睡眠時間が削られてしまうことだ。

「んなのは迷信ですよ」

 組んだ両手に頭を預けながら、徹は言った。

「言おうが言うまいが、起こることは起こる。因果関係はありません」

 水脇はまた鼻を鳴らした。

「出川さんの受け売りか」

「出川さん風に言ってみました」

「そりゃ、底が浅いわけだ」

 笑うついでに弾みをつけて立ち上がり、窓から階下を見下ろした。駐車場にしんしんと積もる雪が、コンクリートと白線の境目を朧げなものにしている。

 その時、無線が響いた。窃盗事案発生。現場に急行されたい。

「ほら、言わんこっちゃない」

 水脇は得意げに不満げだった。


   *


 現場が管轄ギリギリの松原というのもツキがない。

 窃盗は刑事課本来の担当範囲ではないけれど、当直に明確な業務区分は存在しない。速やかに動けるものが対応するというのが鉄則だ。仮眠室から起き出そうとする四人に後は頼むと言い置き、現場へと向かった。

 雪化粧が施されても見慣れた道はなお味気ない。十分程度で到着し、いささか暖房が効きすぎな店内に入ると、松原一丁目交番の樋山が店員から話を聞いていた。

「あ、テツさん、水脇さん、お疲れ様です」

 樋山は生真面目に敬礼をして見せる。

「今、どういう状況?」

「奥の更衣室で永原さんがマル被から事情を聞いています。高校生です」

「高校生?」

「なので親御さんが今こちらに向かってます。それから店長とも連絡が取れていて、すぐに向かうとのことでした」

「で、万引きしたの?」

 水脇が聞くと、樋山はハキハキと答えた。

「のど飴です」

「――それだけ?」

「はい。でしたよね?」

 樋山の尋ねに、店員は頷いた

 水脇が肩をすくめた。同感だ。仮眠を潰すには些末に過ぎる。夜中に叩き起され、雪の中ここに向かっているであろう店長に親近感に似た同情を覚えた。

「雪ん中、お疲れ様です」

 ベテランの永原が姿を見せた。

「都立高校の三年生、尾田盛男くん。数日前が国公立の入試だったでしょう。それがどうもうまく行かなくって、むしゃくしゃしたみたいですね」

 そういえば一昨日の新聞に東大の入試問題が掲載されていたような気がする。

「身体は大きいけど、まだ子どもって感じですねえ、あれは」

 ひょいと覗くと、ラックに吊るされた制服を背に、尾田は身を縮こまらせるようにして座っていた。上質な黒のコートに飲み込まれてしまいそうだ。

 まもなく店長が現れた。詳しい経緯を説明する間にレインコートにへばりつく雪片が水に変わった。店長はやや眠たげな声で、相応の示談金を用意してもらうことになるだろうと言った。裏を返せば、示談金を治めてくれれば大事にするつもりはないという意思表示だった。

 次いで到着した尾田の母の表情には数多の感情が去来していたが、思慮深くも、決して情緒の手綱を離すことはなかった。非行を働いた子のもとに駆け付ける親の中には、まるで自身が子に戻ってしまったかのように、気持ちの赴くまま行動する者もいる。そうなってしまえば通る話も通らない。

「今日はもう遅いですし、この天気ですからね。明日、盛男君とお母さんには署の方に出頭してもらい、そこで幾つか手続をさせて頂きます。よろしいですか」

 水脇がまとめにかかる。母にうながされて、尾田は力なく頷いた。

 初犯で反省の情もあり、、示談が成立する公算も高い。尾田少年の未来を鑑みれば、逮捕勾留はもちろん、少年審判すら開かれない簡易送致が無難な落としどころだった。

 もちろんお咎めなしとはいかない。生活安全課の誰かから訓戒を施されることになるだろう。とはいえ今からでは時間が遅すぎる。仮眠明けの説教など心に届くまい。

「後のことは、お店側と尾田さんとでご相談いただくということで。また何かあればご相談下さい」

 店長が手を挙げて承諾を示すと、尾田の母はその場の一同に眼差しを向け、そして身体を折るようにして頭を下げた。

「ご迷惑おかけしました」

 尾田もまた、頭を垂れた。


   *


「後はこっちで、家まで送っておくから」

 尾田の自宅はコンビニから徒歩で十五分ほど、永福町駅近くの一軒家だという。署とは反対方向だが、車で行けば五分程度の距離、送り届けるのは造作もないことだ。

「助かります」

 樋山の口から白い煙が立つ。

「永原さんは?」

「まだ中です。他に盗られたものがないか、念のためザッと確認するって」

 相変わらず抜かりが無い。

「交番、寒いでしょ」

「灯油ストーブで何とかしのいでます」

「ちゃんと窓開けろよ。一酸化酸素中毒で死なれちゃ困るから」

「その辺は永原さんがちゃんとしてるんで」

「自分もちゃんとしろよ?」

「はい。頑張ります」

 それから樋山は思い出したというような顔をして、

「あ、また是非、捜査本部に呼んで下さい」

 樋山は刑事志望なので、応援要員として何度か帳場に呼んでいるのだった。

「いいけどさ、あんま熱くなりすぎんなよ? この前みたいなのはもうなしな」

「すみません」

 みるみるうちに樋山は萎れる。前回呼んだ時、ペアになった別の署の刑事と揉めに揉めたのだ。その刑事はサボり癖があることで有名で、それに我慢がならなかったらしい。 真面目なのはよいのだが、樋山には少し直情的なところがあり、徹が収めていなかったら手が出ていたかもしれない。

「まあまた、近いうちにな」

 樋山は今一度、敬礼して見せた。

「はい。水脇さんにもよろしくお伝えください」

 車に戻ると、腕を組んだ水脇が軽く睨んできた。

「遅いよ運転手」

「これは大変失礼しました」

 口半分で言いながらバックミラーに一瞥をくれると、尾田親子は揃って俯いている。

「じゃあ、発車しますね」

 心持ち気楽な口調を心掛けた。淡々と降り続ける雪の中を、車は動き始めた。

「すみません、ご迷惑をかけた上に、送ってまで頂いて」

 しばらくして、尾田の母が口を開いた。

「いやいや、ついでですから」

 答えるのは水脇の領分だ。

「明日はまあ、適当な時間にお越しください。午前中の方が空いていると思います」

「分かりました」

 水脇は助手席から身を乗り出すようにして振り返った。

「盛男君も、大丈夫かな」

「あ、はい」

 尾田は小さく言った。声質はもう大人のそれなのに、言い方や態度に幼さの名残が見え隠れしている。

「まあね盛男くん、ちゃんとケジメが付けられて、俺は良かったと思うよ」

 首を後ろに向けたまま水脇は続けた。

「逃げちゃってたら、今頃、もっと不安だったろ。もし捕まったらどうしよう、もし家族や友達にバレちゃったらどうしようって。そういうね、もしかしたら、もしかしたらっていう宙ぶらりんの状態が、一番こたえるんだ」

 可能性は、常に不安を生む。

「だから今日のこと、ちゃんと見つかったことは幸運だったと思って、自分でも、しっかり反省して、また明日、署に来てください」

 まもなく、尾田の家の前に着いた。

 雪の中、親子はまた深く頭を下げた。


   *


「訓戒はさっきので十分じゃないですか」

 甲州街道に入ったところで、徹は口を開いた。

「んなこたあないよ」

 サイドミラーの方に首を傾けながら、水脇は答えた。

「生安課の連中にきっちりしめてもらわないと」

 赤信号に引っ掛かった。前方には人も車もいない。道交法を守らずとも何ら実害はないだろうと、とりとめのない考えがよぎる。

「大人になりかけみたいなのが、一番危ない」

 水脇はひとりごちた。

 ワイパーが届かない死角に溜まる雪が気になって、相槌を打つタイミングを逃した。しばらく無言が続いた。

 大原の交差点を右折し、環状七号線に入った時だった。突然水脇が身体を起こし、後方を仰ぎ見た。

「後ろの、怪しいな」

 黒の軽自動車だった。

 甲州街道を走っていた時から後ろにはいたが、露骨に挙動不審というわけではなく、徹は気に留めていなかった。だがそう言われてみれば、僅かにだが、車体が左右に揺れている。心持ちスピードも安定しない。そうした細かい所作に、運転者の落ち着かない心が現れているようにも見える。

 何より、水脇の勘はそう外れない。

「止めるぞ」

「了解」

 徹は車両上部に警光灯を取りつけ、サイレンを鳴らした。水脇は拡声器を使って道路の左端に誘導する。黒の軽は大人しく従い、パトカーの後ろに停車した。数メートルの間隔があったので、逃走防止のため少しバックし、車間距離を数十センチまで狭めてからドアを開けた。

 外気と車内との凄まじい温度差に軽く眩暈がする。パトカーと軽自動車のタイヤ跡が積もった雪の上にくっきりと残っていた。一足先に降りた水脇が運転席のガラスを叩く。半分くらい開いた窓から、若い男の充血した目がのぞいた。

「何ですか」

 声、表情、仕草、その全てに、露骨な警戒感と焦りが漂っている。深夜ラジオのパーソナリティの下品な笑声が響く。

「こんな時にすみませんね。こんな天気で、しかも夜中ですから、交通ルールをちゃんと守ってもらわなきゃ危ないってことで、皆さんに協力してもらってるんですよ」

 あっけらかんとした水脇の声はいつも通りだったが、内心、これは当たりだと思っているはずだった。

「あ、エンジン止めてもらえます?」

 水脇は抜け目ない。

「――エンジンですか」

「うん、エンジン」

 小さく息をついた男は、少し乱暴な手つきでエンジンキーを回した。

「免許証、見せて頂けますか」

 男は素直に免許を差し出した。

「藤池光彦さん、二十五歳ね」

 名前を読み上げた水脇は、自分が照会するという目配せを徹に寄越した。徹は左手で合図をし、光彦に向き直った。

「梅ヶ丘署刑事課の松野です。仕事帰りですか?」

「ええ」

「こんな日に遅くまで、ご苦労様です」

 言いながら車内をざっと見渡す。いかにも闇に紛れるために用意したというような全身黒の服装。顎も黒マスクで覆われており、助手席には焦げ茶色の大きめのバッグと、やはり黒の手袋が見える。

「お仕事は、どんな?」

「配送です」

「配送というと、トラックとか?」

「一応、はい」

「それは大変でしょう」

「まあ、そんな、大したもんじゃ」

「ちなみに何という会社で?」

 一拍、間があった。

「黒部運送というところです」

「その会社は、どちらに?」

 光彦が青ざめるのが分かった。右手の人差し指がハンドルを叩き始める。噓を言ってごまかすか、事実を言うべきか、迷う光彦の心情が手に取るように分かる。

「調布の方です」

 その場しのぎの前者を選択したのは明らかだった。調べればまず間違いなく、黒部運送は光彦が来た方向にはないということが判明するはずだ。

 だが、それよりも気になることがあった。

「右手、どうされました?」

「え?」

「右手の、骨の出っ張りのところ、真っ赤ですよ」

 まるで、何かを激しく殴打した後のように。

「――ちょっと、ぶつけただけです」

 あまりにも苦しい言い訳だった。

「おい、松野、ちょっと」

 水脇の呼ぶ声がした。少し待ってくれるよう光彦に言い含めてから踵を返す。

「ビンゴ」

 光彦に聞こえないよう声量を落として、水脇は言った。

「少年院に入ってた前がある。それも、窃盗、強盗、強制性交幇助」

 思わず水脇の目を見る。

「テツの感触はどうだ?」

「真っ黒です」

 確信したといった様子で、水脇は二度、三度と頷いた。あとは、いかに任意同行に応じさせるかの勝負だ。

 その時だった。

 背後でエンジンが唸った。

 振り向けば、光彦の車は既に動き出していた。

 軽は捜査車両後方に衝突し、硬く鈍い音がした。軽は構わず強引に進路を変え、徹と水脇に向かって来た。

 半ば本能的に身をかわした。

「おい!」

 倒れ込むようにして車を避けた水脇が怒号を飛ばす。光彦の顔が、暗い車内に刹那浮かび上がった。

 恐怖と焦燥に表情を歪ませながら、光彦は前だけを睨みつけていた。

 瞬時に立ち上がって車の状態を見る。多少へこんではいるが、これで動かなくなるほど警察の車はやわじゃない。

 追尾できる。

 徹が運転席に飛び込むと同時に、水脇が助手席のドアを勢いよく閉める。

 フロントガラスの奥に、まだ軽の姿がはっきりと見える。

 アクセルに力を込めた。

 無線を手に取り、応援を要請する。拡声器を通した水脇の呼びかけがサイレンと張り合う。

 今ここで、確保しなければならない。

 逃げられれば証拠を隠滅されてしまうだろうというだけではない。赤く腫れあがった拳は暴力を示唆している。どこかに助けを求めている被害者がいる可能性が高い。

 数十秒前まで豆粒ほどの大きさだった軽自動車がじわじわと大きく見えてくる。大した速度が出ていない。恐らくノーマルタイヤなのだ。雪道で速度を上げればスリップの危険が増す――合理的な恐怖が、間違いなく歯止めになっている。

 だがスタッドレスタイヤを装備した捜査車両なら、まだ速度を上げられる。

 赤い光が目まぐるしく路上の雪を照らす。

 徹はアクセルを踏み込んだ。

 速度計の針が滑らかに右へと傾き、光彦の車がみるみるうちに大きくなる。二十秒で目視三十メートルに近づいた。捜査車両のライトが軽のリアガラスを照らす。莉帆の好きなアニメキャラクターのステッカーが、場違いにも右隅に貼ってあるのが見える。

 この距離を保ちたい。そう思ったのも束の間のことだった。

 突如として光彦の車があり得ない速度で前進した。ものの数秒のうちに、光彦の車体が再び小さくなっていく。

 明らかに速度が出過ぎていた。接近に気付きパニックになったのかもしれなかった。

腸の底を冷たい手で鷲摑みにされるような感覚に囚われた。最悪のシナリオが、脳裏をよぎる。

「おい、速度落とせ!」

 水脇が叫んだ、数秒後だった。 

 光彦の車のタイヤが道路を摑み損ねて、空回りするのが分かった。車体が不規則に揺れた。明らかにコントロールが効いていなかった。全ての運動が、突如として物理法則のなすがままに委ねられた。

 スリップだ。

 交差点が、目の前に迫っていた。

 右手から、青信号に従って直進しようとするワンボックスカーが見えた。

 二台の車は、まるで何かの糸で結びつけられているかのように引き寄せられた。

 サイレンをさえ打ち消す凄まじい衝突音が轟いた。

 跳ね飛ばされた光彦の軽は宙を舞い、横転した。制御を失ったワンボックスカーはガードレールに突っ込んだ。金属がひしゃげる音がした。

 水脇と徹がパトカーを飛び出したのは同時だった。

 徹は迷わずワンボックスカーの方に走った。雪片の中に紛れるようにして散らばった細かなガラスが靴の底で嫌な音を立てた。

「大丈夫ですか!」

 返事はない。側面も正面も中心に押し込められるようにして大破している。

 後部座席のひび割れた窓から中の様子を見た。

 二つの小さな体が、無造作に放置されたぬいぐるみのように、後部座席の上に落ちていた。

 息の仕方が分からくなった。

 変形したサイドドアを闇雲に引っ張ったが、びくともしない。反対側のドアはかろうじて原型を保っていたが、やはり動かない。

 徹は正面に回り込んだ。

 フロントガラスは数多の亀裂に白濁していた。それでも、運転席の女性と助手席の男性が、シートと車体の間に挟まれていることは容易に見てとれた。

 二人が再び動き出す気配が、微塵もないことも。

「おい!」

 水脇の声が闇を切り裂いた。

 振り返ると、横倒しになった軽自動車から、火の手が上がっていた。

 炎は瞬く間に車体を包み込んだ。

 目の前にあるのは、赤と白と黒だけの世界だった。


 

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