勇者と商人

白ノ光

勇者と商人

 剣を抜き放ち、平野を駆ける影がひとつ。

 刃こぼれのない武器に金の刺繍がされた純白のマント、宝石の散りばめられた金の腕輪は、貴い身分を思わせるが、彼女はひとりだった。

 中天に昇ろうとする太陽が少女の金髪を照らし、同時に竜の瞳を大きく光らせる。

 自らの巣に近付く不届き者に気付いた緑竜は、瞼を開け、迎撃の姿勢を取っていた。

 少女の左手が腰元に伸び、ベルトに差し込まれた薬瓶を器用に開けると、少女は走りながらそれを飲み干し容器を捨てる。

 竜が叫ぶ。常人ならば、死を覚悟させるこの咆哮を前に、立っていることすらできない。

 竜の口内に溜められ、吐き出された燃え盛る唾液が火球となり少女を襲う。

 炎が爆ぜ、黒い煙で視界が覆われた。

 矮小な人間は、竜に唾を吐かれるだけで死んでしまう。それが人間と竜の圧倒的な力の差であり、被捕食者と捕食者の正しい関係でもある。

 直撃を確信した竜は、他に敵がいないかどうか頭を持ち上げて様子を窺う。

 強者の驕り。

 弱者は常に、復讐の機会そのときを待っている。

 今までされてきたことの、仕返しの瞬間を。

 黒煙の中から、白いマントを引き剥がして少女が飛び出す。

 まだ遠いと思われた両者の距離は瞬きの間に詰められ、すれ違いざまに振るわれた剣の一撃が、竜の右眼を奪った。

 同時に、傷口に雷光が奔る。剣に塗られた特殊な液体のせいだ。

 痛みに呻いた竜は、反射的に翼をはためかせ、上空へ逃れようとするも遅い。

 全身をバネのように縮めた少女は、たった一度の跳躍で竜の頭上を行くと、両手に持った剣を大きく振りかぶる。

 「う、りゃああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」

 雷が落ちたような光と、竜の頭蓋が砕ける、鈍く重い音。

 舞い散る鱗の破片と血飛沫の中、少女は竜の死骸と共に落下した。


 「終わったか」

 仕立てのいい革の服を着た少年が、少女に話しかける。

 年のほどは彼女とそう変わらないだろう。だが、その背の高さか目つきの悪さからか、大人びて見えた。

 「うん」

 少女は火球を凌いだマントを拾い上げ、煤を掃う。

 防御力に優れたマントは、傷一つなく変わらず純白であり、見た目だけの装備ではないということを証明している。

 凛とした少女の立ち姿は、本来その年齢にあるはずの、あどけなさや弱さをまるで感じさせない。魔を狩ることに慣れた、熟練の剣士のものだ。

 剣士としてはかなりの軽装で、マントを脱いだことにより、健康的な色の二の腕が露である。

 「チッ、ロクな宝を持ってないな……」

 少年は竜の死骸を無視して、竜が寝ていた巣を漁る。巣はへし折られた木と砕かれた岩石で構成されていた。

 死骸が放つ黒い霧が、空気中に融けていく。

 人類種の敵である魔族は、それがどんな形をしてどんな力を持っていようと、死ねば霧になり全て無に還る。

 それが魔族の宿命であり、ゆえに、価値を貴ぶ少年は消えゆくものに興味を持つことはない。

 「商人さんは現金だねー」

 「あたりまえだ。俺たちの生活に関わることだぞ。剣を振るうだけの勇者ほど、能天気にはいられない」

 「の、能天気って私のことー!?」

 少年が目を付けたものは、壊れた台車に乗せられた樽だった。

 道行く行商人かはたまた、近隣の村から奪ったのだろう。車輪は破損しているが、幸いにも樽は無事だ。

 「なにそれ」

 「邪魔だ、太陽を遮るな」

 少年が樽の中身を調べていると、少女が興味深そうに周囲を動き出す。

 樽の中身は液体だ。開口部から溢れ出る芳香から、それが酒であることは明らかだが、少年の顔は苦い。

 「ねえ、ねえ、何だったの? ねえ」

 「うるさい。ただの酒、恐らくはオー・ド・ヴィーだな」

 「オー? 高く売れそう?」

 「いいや。この酒樽を持ち帰る手段もないし、置いていくしかない。……だが、手ぶらで帰るのも癪だ」

 少年はポーチから取り出した空き瓶を、酒で満たす。

 酒は綺麗な琥珀色をしており、太陽の光を反射し、輝いている。

 「飲むの? 私はお酒、苦手だなあ」

 「飲まない。酒は飲むものでなく、売るものだ。ただ、飲む売る以外にも使い途がある」

 少女と少年──勇者と商人は、歩いて来た道を辿って、平野を進む。


 その村には、活気がなかった。

 誰も住まなくなった廃屋が目立ち、そうした家は手入れがされないので、すぐに朽ちる。

 外に出ている住人は老若男女問わず貧相な身体で、子供でさえも、血管の浮く身体に喜びのない顔をしていた。

 勇者と商人の二人は、そうした暗い雰囲気の村を横目に、傾斜の付いた道を上る。

 村長の家は、村の中でもひときわ大きく、小高い丘の上にあった。

 「いやはや、竜退治とはご苦労なことでした! 本当に成し遂げてくれるとは、衷心より感謝申し上げます」

 中心に長テーブルの置かれたダイニング。

 口の周りに髭を生やした中年の男は、勇者の手を握って頭を下げた。

 ぼろきれのような服を身に纏う村人もいる中で、村長は来客用の、きちんとした身なりをしている。

 「突如、魔王と名乗る魔族が現れはや百年。こんな辺境にまで竜が出没するようになってしまいました。そこにようやく、勇者様という希望が現れて……」

 しかし村長も、

 「平野に現れた竜が退治されれば、今まで竜を恐れ村を迂回していた行商人たちも、きっと以前のようにこの村を訪れる。我々も飢えから解放されるというものです。ああ、どれほど感謝しても足りないほどですよ」

 「いえいえ、私は勇者として当然の仕事をしたまでです。困っている人たちや、お腹を空かせた子供たちの味方をするのが、勇者ですから!」

 「なんと殊勝な心掛け。あなたのような素晴らしい信念の持ち主ならば、必ずや、魔王を倒して人を魔族から救えるでしょう」

 満足そうに頷く勇者と、笑みを浮かべる村長。

 気分の悪そうな顔をしているのは商人だけだった。

 「感謝は報酬の額で見せてほしいものですが。それで、約束していたデア銀貨千枚は集まったんですよね」

 「いやはや……、申し訳ない。まだ村人から集金の最中でしてな。明日の朝にはお渡しできるよう努めますから」

 「じゃあ、今ある分だけでも渡してもらいたい。なんのかんのと引き延ばされては面倒ですから」

 「今ある分と申されましても……」

 「そっちの生活が辛いことぐらい、見て分かりますけどね。こっちも慈善事業じゃないので、ただ働きなんてできませんよ。俺たちは竜を倒すと引き換えに、あなた方から報酬を頂く取り決めをした。そして、俺たちは約束を果たした。次はそっちが誠意を見せる番だと思いますが」

 商人は椅子に腰かけると、テーブルを指で叩いて急かす。

 「しょ、少々お待ちください」

 気まずそうな顔のまま、村長は二階への階段を上って行った。

 部屋には、勇者と商人だけが残される。

 「ちょっと、あんなに言わなくてもよかったのに」

 勇者の言葉にも、商人はどこ吹く風だ。

 「魔物を倒して金を貰う。どこかおかしなことがあるか?」

 「もう。それはそうだけどさ、たとえば報酬をちょっとまけるとか、期限を延ばすとか、この村の人たちのことを考えてあげてもいいんじゃないの?」

 「お断りだな。俺たちは、俺たちのことだけを考えていればいい。他人はどこまでいっても他人だ。情けをかけようと、命を救ってやろうと、明日にはそれを忘れている。人助けというのは結局、自分の心を満たす行為でしかない」

 「うーん、どうしてこんな捻くれた子に育っちゃったんだろ」

 「お前が能天気なだけだと言ったろう。俺からすれば、王国から追放されておいて、よくそこまで人の味方になれるものだと思うよ」

 伏し目がちな商人は、人間を信用していない。好きであるとか嫌いであるとかではなく、取引相手として、信頼できないと思っている。

 勇者が生まれつきのお人好しであれば、商人は生まれつきの人見知りだ。

 「ところで、今回の竜退治でいくら出費したか知ってるか」

 「え? どれぐらいかな……」

 「会敵前に、筋力を増強させるポーション、持久力を向上させるポーションを飲んだな。そして、剣に塗った雷エンチャントの薬品。接近中には、反射速度を高めるポーションを使った」

 「ひとつ銀貨五十枚とするなら、二百枚ぐらい?」

 「正解は、それぞれ八十、八十、二百、百四十。計算は出来るか? 合わせて五百枚だ」

 「そんなに!?」

 「そんなに、だ。俺が報酬に拘る理由も分かるな?」

 二人が話をしていると、村長が二階から帰って来た。

 「お待たせしました」

 彼がテーブルの上に置いたのは、中身の詰まった革袋。しかし、満杯ではない。

 「今ある手持ちで、デア銀貨四百枚です。明日には残りの六百枚を納めさせていただきます」

 手を揉む村長に対し、商人は革袋の中身をしかと確認すると、それを引っ提げて立ち上がる。

 「頼みますよ、村長。今日もこちらに泊まっていっていいですね」

 「ええ、もちろん。夕食ができましたらお呼びします」

 勇者と商人は階段を上り、二階に向かう。

 二階は二つの客室と村長の部屋に分かれており、勇者たちはこの客室を借りて、今日まで竜退治の算段を立てていた。

 二人は別々の部屋に入らず、商人も同じ勇者の部屋に入ると、そこに荷物を置く。

 勇者はベッドに腰掛けたが、商人は荷物の中身を改めている。

 「よかったね。ちゃんとあるじゃん」

 「お前の耳は一度掃除した方がいいな。四百枚だぞ四百枚。全く足りてない! そもそも、報酬自体既に安く見積もってやったんだ。本来、竜退治となれば、銀貨三千枚はふんだくってもいいんだぞ」

 商人は小さな机の上に貰った銀貨を広げると、荷物から取り出した天秤の片方に、五枚ずつ乗せていく。

 反対の秤には既に重しが乗っており、デア銀貨が既定の重量であれば──銀含有率が正しければ、天秤は正しく釣り合う。

 「でも、明日残りを持ってくるって」

 「馬鹿め。いい加減、人の言葉をそのまま受け取っても希望はないと学べ。よしんば銀貨を持ってきたとしても、残りの六百枚満額ってことはないだろう。そも金があるなら、最初から俺たちが竜退治に行っている間に集めて、満額を手渡すべきだ。奴らは金が用意できない。だから、支払いを先延ばしにしようとしている」

 「じゃあどうするの? 商人さんのことだから、赤字で許したりなんて絶対しないよね」

 「足りない分は、身ぐるみ引っぺがしてでも埋め合わせをさせよう。村長は品質の高い服をいくつか持っているようだったから、合わせて銀貨百か二百はいきそうだ」

 「他人の服をそんな目で見てたの……」

 「それでも足りん。竜の巣から財宝を奪えれば利益が出るかと思ったが、肝心の竜も貧乏であってはな」

 貨幣全てに偽りのないことを確認した商人は、天秤と銀貨を荷物の中に戻し、部屋の扉を開けた。

 「黒字にする方法は考えておく。今日は疲れただろう、ゆっくり休め」

 「ん」

 商人が去ってひとりきりになった勇者は、しばらくベッドに横たわり天井を眺めていたが、眠ろうという気にはならなかった。

 剣を取り出し、刀身を拭いたりして手入れすると、他にやることもない。

 せっかく訪れた村なので、夕食の時間まで、外を歩いてみることに決めた。


 竜の脅威に晒されていた村は、元から質素であった暮らしぶりを、さらに加速させることになる。

 竜に襲われることを恐れ、行商人や旅人がこの村を通らなくなったことで、外からの貨幣も物品も入ってこなくなった。また、村人たちが外に出て他の街と取引をするというのも難しくなり、必然的に、この村にあるものだけで生活しなくてはならない。

 しかし、竜の噂を聞きつけてやって来た勇者たちにより、無事竜が退治された。

 その話が村長から伝わっているようで、勇者は村に下りるとすぐに、多くの村人に囲まれることになった。

 「どうかお受け取りください。せめてもの感謝の気持ちです。ごほっ……」

 村人たちは勇者に、思い思いの礼品を渡した。

 その品の大半は野菜であり、勇者は、両腕いっぱいにイモやウリを抱える。

 「要らないって言ってるのになあ」

 返そうとしても、受け取ってくれない。貰ったものを置いていくこともできないので、後で荷物に詰めておこうと思ったが、それにしても嵩張って重い。

 勇者が村を見て回っていると、壊れた家屋や抉れた地面が目立つ。どちらも竜にやられたものだろうか。

 そして、嫌な咳の音が、村のあちこちで聞こえている。

 「勇者様、何か気になるところでも?」

 杖を突いた老婆が問う。

 「おばあさん。いえ、皆さん、咳き込んで苦しそうで……」

 「それは──」

 言いかけて、ごほ、ごほ、と老婆も咳を始める。

 老婆の身体を支えてあげようと、勇者が近寄ろうとするも、手で制止された。

 「近寄らないでください、勇者様も病に侵されてしまいます」

 「病気なんですか」

 「悪い風が吹きました。身体の強いもんは無事ですが、弱い老人や、子供は咳が止みませぬ。程度の酷い者は死ぬこともあります」

 「そんな! 治す方法は、何か……」

 「薬があれば治るような病です。ですがこの村には、医者もおらねば薬を買う金すらなく、私も……ごほっ! 遠からず、この世を去ることになるやもしれません」

 「私、竜を倒せば皆が幸せになると思っていたのに。この村の脅威は、魔族だけじゃなかったんですね」

 「勇者様がお気にすることではありません。人はいつか死ぬものです。私も随分と年を取り、覚悟もできておりますから。ただ、まだ先を生きられるはずの子供が、死んでゆくというのは悲しいものですな……」

 勇者が老婆にしてあげられることは何一つとしてなく、仕方なしに、勇者はその場から離れた。

 村の外れ。竜を退治した平野とは逆の、森を臨む出入口で、傾き始めた太陽を眺めて立っている。

 勇者に、病を癒す奇蹟は扱えない。

 もし自分が、そういう魔法の修行をしていたら、この村の人たちを助けてあげられただろうか。

 無為な思考ばかりが頭をよぎる。

 自分の無力に唇を噛む彼女の元に、若い男がひとり、森の方からやって来た。

 「ああ、勇者様ではないですか。奇遇ですね」

 「あなたは、村長の息子さん?」

 青年は、商人より二回りほど年上で、身体つきは立派な大人だ。

 他の村人より上等な布の服を着て、手には籠を下げている。

 「……籠の中身が気になりますか」

 勇者の視線に反応し、青年が取り出したのは、三角の笠が特徴的なキノコ。

 籠の中にはもう一本の同じキノコと、首を絞められた子ウサギが入っていた。

 「夕食は、子ウサギのソテーとキノコのスープにしようという話でして。貧しい村ですが、私どもなりに勇者様をもてなそうと、材料を森へ取りに行った帰りです」

 「素敵な夕食じゃないですか!」

 「隠そうとしていたわけではありませんが、夕食のメニューがばれてしまいましたね。しかし、勇者様はどうしてこのような場所に?」

 「少し悩み事というか。どうやったら、もっと人の役に立てるのかなって考えてました。この村の人たちは病に苦しんでいるのに、私は何もできなくて」

 「────」

 青年は、勇者から目を逸らした。

 どこかを見つめているというわけではない。彼女と目を合わせたくなかっただけのようだ。

 「勇者様らしいお考えです。実は私も、同じような悩みを抱えていたところで」

 「そうなんですか」

 「私は村長の息子として、村民の幸福を第一に考えております。そして今、村を救う大きな決断に迫られています」

 青年の声は震えている。

 「大きなものを犠牲にしなくてはならない。失敗するかもしれないし、そうなれば、私もどうなるか分からない。ここが重要な岐路だというのに、私は我が身可愛さに、まだ踏み出せないでいるのです。……こんなとき、勇者様はどうするのでしょうか」

 「決まっています。私の行いで誰かを救える可能性が僅かでもあるのなら、迷いなく進むだけです」

 勇者は即答した。

 「迷いなく、ですか」

 「あなたがどういう決断をしようとしているのか、私には分かりませんが、その決断に村の将来が関わっているのでしょう?」

 「はい──」

 「あなたしか、その決断ができない。あなたが動かなければ、村を救えない。それでどうして、悩むことがあるのですか」

 「それは──」

 「私は勇者です。求められれば竜だって殺します。それは、誰かがやらなくちゃいけないことだから。失敗したときのことを考えるのは、怖いです。まだ死にたくないです。でも、そんなことを考えて足を止めていたら、何も解決しません。誰かが死ぬのをただ見ているぐらいなら、私は自分の命を懸けたい」

 凛とした勇者の言葉が、青年の心を強く打った。

 自己犠牲の怪物。

 逃げることを知らず、迷う弱さを持たない。

 彼女は、他者に己の全てを捧ぐのだろう。

 青年は、勇者がいかに自分と遠い存在なのかを知る。

 「……ありがとうございます。気持ちは固まりました。ようやく、踏み出すことができそうです」

 青年は頭を下げ、勇者の横を通り過ぎ、そして、何かを思い出したかのように振り返った。

 「私も、あなたのように真っ直ぐでありたかった。強く、正しい、勇者様のように」

 「そんな大層なものじゃないですよ」

 勇者は微笑む。

 「私は馬鹿だから、こういう生き方しか知らないだけです」


 日が暮れ、空に星の瞬きが見え始めた頃。

 勇者と商人は、村長の家で夕食を頂いていた。

 二人は隣り合った席で、村長とその息子は、二人の対面に座る。

 「このウサギ、美味し~い!」

 皮を剥がれ、きつね色になるまで焼かれた子ウサギは、その肉の表面に油を纏って光った。

 フォークとナイフで切り分けると、柔らかい肉は、旨味を含んだ汁を零す。

 「こっちのスープも、キノコとタマネギの歯ごたえが良くて……」

 勇者は戦いの疲れを癒すように、一時も手を止めることなく、卓上の料理を食べ続けた。

 対して商人は、無言のまま、つまらなさそうな顔で淡々と食べている。

 「あれ、村長さんたちはそれだけなんですか?」

 向かいに座る村長たちは、黒い岩のようなパンと、ふかしたイモだけを皿に迎えていた。

 彼らだけ別のものを食べているのではなく、パンもイモも、テーブルの上に並んでいる。

 ソテーとスープが、彼らの席にないのだ。

 「ええ、私たちはこれでよいのですよ」

 村長が言う。

 「お肉もスープも分けてあげますから、一緒に食べましょうよ」

 「いえいえ、結構です。お気持ちだけでありがたい。そちらは、勇者様方のために用意したものですから」

 勇者の誘いを、村長の息子が断る。

 「これも、報酬のひとつだとお考え下さい。私どもからの感謝の気持ちです」

 「そう言われては仕方がありませんね。それでは、遠慮なく頂きます!」

 みじん切りにされたキノコが具となったタマネギのスープ。

 キノコの欠片ごと飲み下せば、強い旨味が舌に残る。

 「本当は酒も用意したいところでしたが、勇者様一行は飲まないそうで」

 「えへへ、私はすぐ酔っちゃうので……」

 勇者のスープ皿はもう空になりそうだったが、商人はまだ触れてすらいない。

 「そちらの御仁には、お料理がお気に召しませんでしたか」

 青年が商人に声を掛けると、商人は首を横に振り、ようやくスプーンを手に取った。

 「いえ、何でもありません。頂きます」

 「ちゃんと食べないと駄目だよ。わざわざ彼が採って来てくれたんだから」

 「ほぉ」

 商人は初めて、村長の息子と目を合わせた。

 今まで見たことないほどの暗い瞳に、青年は内心冷や汗を掻く。

 敵意とまではいかないが、友好的に接しようという感情が、その冷たい視線からは微塵も感じ取れない。

 商人の口調は慇懃である分、なお恐ろしい。

 「美味しいキノコですね。採って来たというのは、すぐそこの森から?」

 「はい。気に入って頂けたなら幸いです」

 「どんなキノコか窺っても?」

 「ええ──」

 「ああいや、待ってください。当ててみましょう。この風味、セップ茸ですね。この辺りの地方ではよく食べられると聞きます。どうですか」

 「その通り、その通りです。鋭い味覚をお持ちのようですね。素晴らしい」

 青年はにこやかな顔のまま頷く。

 褒められたというのに、商人の顔は眉ひとつ動いていない真顔だ。

 「ああ、そうだ。勇者様はお二人で旅をしているとか。さぞ大変な道程だったでしょう、よろしければお話を伺いたいのですが」

 青年が勇者に話題を振ると、彼女は笑顔で答えた。

 商人とは真逆の、太陽みたいな温かさを覚える。

 「はい、大変でした。特にお金がすぐなくなっちゃうので、彼には迷惑を掛けっぱなしです」

 「なぜお二人なのですか? 勇者様なら、王国の兵士をたくさん連れて魔王を倒しに行くものだと、勝手ながら思っていましたよ」

 「ん……。どうやら、私はあまり王様に愛されてはいなかったようなので。期待されてはいないのでしょう」

 「これはよくない質問だったようです、すみません。改めて、お二人で旅をなさっているのなら、そちらの商人殿も剣の腕が立つのですか?」

 「え? いやいや、全然ですよ。この人、お金の詰まった袋より重い物は持てませんから! スライム一匹倒せません!」

 「そうなのですね。スライムといえば、最も弱い魔族として有名ですが、もしやそれではない?」

 「いえいえ、それです。弱いスライムです。子供でも倒せるんですけどねー。一回やらせてみたら、これが面白いくらい下手く──」

 テーブルの下で、勇者のつま先が、硬い革靴の底で踏まれた。

 余計なことを言うなと、隣人から痛みを伴う無音の忠告だ。

 「んんっ。ほ、他に質問などありますか?」

 「御一行は魔王城を目指されるのですよね。明日はどちらに発たれる予定で?」

 「南の、交易都市へ。今回現れた竜のように、あちらでも魔王の手勢が物流を阻害していると聞きます。私たちの力を必要とする人がいるはずです。魔王城は絶海に閉ざされているということで、船を調達できると嬉しいのですが」

 「なるほど。勇者様ほどのお力があれば、救えぬ人はいません。いずれ、魔王が討伐される日を心待ちにしております」

 勇者は、旅先で出会った人間と話すのが好きだ。

 商人が必要なこと以外を喋らず、勇者が話さなければ会話にならないという面もある。

 「そうだ、商人殿。件の報酬ですが──」

 村長が口を開き、黙っていた商人に話しかけた。

 「委細、上手く運びました。いやなに、お恥ずかしい話ですが、我が村に勇者様への報酬を出し渋る者がおりましてな。説得に時間をかけておりましたよ」

 「そうですか、それはよかった」

 「きちんと数を数えて、明日の朝、お渡しいたします。今夜はゆっくりとお休みください」

 男の顔は、息子とよく似ている。


 「美味しかったねえ、ご飯」

 「ああ」

 「お腹いっぱい食べて、たくさん喋って、もう眠くなっちゃった」

 「ああ」

 「もしかして、機嫌悪い?」

 「ああ」

 「ごめん、スライムすら倒せないは言い過ぎだったね。あれも三年前の話だったし──」

 「違う」

 「じゃあ、村長さん親子の方か」

 「ああ」

 「明日の朝には銀貨が貰えるらしいけど、どう思いますか商人さんは」

 「嘘だな」

 「そっか。今日は疲れたし、私はもう寝ちゃおっかな。お金のことはお任せします」

 「待て」

 「ん?」

 「お前は、あの男が採ったというキノコを見たのか?」

 「うん。森の入口で、偶然会ってね」

 「笠の大きなキノコだったろう」

 「え? いや全然? 大きくはないけど、尖ってたかな」

 「……分かった。体調が悪くなったら、すぐ言えよ」

 「どうしたの? まあいいや、じゃね」

 二人は二階の廊下で分かれて、それぞれの部屋の扉を開ける。

 机の上の蝋燭は火が消えたまま。

 窓から月が覗くだけの、暗い部屋だ。

 肩に重いものを感じる。

 頭がぼんやりと霧がかってきた。

 理由は明らか。

 商人は部屋の中心まで歩くと、すぐさま屈みこみ、腹を押さえてえずく。

 逆流。

 静かに吐き出された食材が、胃酸と共に床に広がる。

 まだかみ砕かれた形のまま残るウサギ肉、細々としたキノコの破片、スープと胃液の混ざった刺激臭のする液体。

 商人はその中からキノコの破片を摘まみ上げると、しげしげと眺めた。

 原因を取り除き、身体に感じていた軽い倦怠感も、じきに治まるだろう。

 廊下に出、隣の部屋の扉を叩く。

 一度。

 二度。

 三度。

 反応がないので、商人は無断で扉を開けた。鍵は始めから付いていない。

 同じ間取りの部屋で、やはり灯りはない。

 違いは、部屋の隅に二人の荷物が積まれ、床にイモやウリが散乱していることか。

 ベッドの上に、勇者が横たわっている。

 装備を全て外した下着姿で、すやすやと寝息を立て、完全に無防備な状態だ。

 扉がノックされたことにも、誰かが部屋に入って来たことにも気づいていない。

 商人は真っ直ぐ勇者に近付くと、勇者の色づいた頬を、思い切り叩いた。

 「んにゃ……む」

 叩かれた柔肌がさらに赤を強める。

 眠りは深い。

 致死性のある毒ではないようだが、勇者にはよく効いてしまう。

 穏やかな呼吸により、少女の膨らんだ胸が上下している。

 これほどにあられもない姿を晒す少女を前にすれば、少年の心の中におかしな波が立ってもおかしくはない。

 だが、商人の顔は変わらず、伏し目で不機嫌そうな顔のままだ。

 「チッ」

 商人は舌打ちをすると、はだけた掛布団を、そっと勇者に乗せてやった。

 廊下と階段に誰かいないか、よく確認してから扉をくぐる。

 商人の中では既に確信があったが、それで彼女を納得させられるとは思っていない。

 より決定的な証拠を求め、一階に下りた。

 人のいない場所に火を灯しておけるほど、豊かな村ではない。

 村長の家も例外でなく、月光だけを頼りに、そっと歩いていく。

 一階の廊下、閉まった扉のひとつから、光が漏れている。

 商人はそっと近づき、部屋の中の気配を探った。

 ひそひそとした声。それが二人分。

 この家に住んでいるのは、村長とその息子のみ。

 であるならば、その彼らがこの部屋の中にいる以上、一階を物色していても咎められる心配はない。

 狙いのものがあることを祈り、歩を進める。

 商人が立ち入った土間のキッチンからは、虫の音がした。

 竈の上に、不気味に佇む鉄鍋。中身は夕食の残りのスープのようだ。

 ウサギが解体されたと思しき盆は血を湛え、におう。

 籠の中にキノコが一本入っていることを確認した商人は、持参した布ごしにそれを持ち上げると、目と手で軽く鑑定した。

 そして、布にくるんだキノコを懐に仕舞い、用を終えたキッチンから素早く出る。

 行きに様子を窺った部屋の扉は、まだ閉じていた。


 短い蝋燭、その頼りない火を囲む男たち。

 二人のうちどちらがそう言ったわけでもなく集まり、押し殺した声で会話している。

 「……そろそろ、よいでしょうか」

 「ああ。すぐ効くものだが、もう待つのは十分だろう」

 親子は神妙な顔つきで、同じ火を見つめた。

 揺らめく火は、少しずつ、蝋燭を溶かしていく。

 「これは必要なことだ。村民の命を守る行いの、何を恥じることがあるものか」

 村長はまるで、自分に言い聞かせるように呟いた。

 彼の顔は皺がいっそう深まり、昼間より年を取ったように見える。

 「その通りです、父よ。私は守るべきもののため、如何なる罪も背負う覚悟です」

 「息子よ、お前がやるつもりか」

 「はい」

 青年は、机の上に置かれたナイフを手に取った。

 古いものだが、よく研がれている。

 「私は必ずや、報いを受けるでしょう。死後、地獄へ行くは必定に思えます」

 青年の手は震えていた。狩りや農作業で荒れた手だが、それは、村を想う証だ。

 「やはり、私がやる。息子を地獄に落とすわけにはいかん」

 「いいえ。これは私の使命です。村長の息子である私がすべきことなのです」

 震えた手は固い。

 「もし我らが同罪に問われたとしても、神はきっと、私に重い刑をお与えになる。村のため尽くしてきた父に、孝行させてください」

 「しかし──」

 「誰かが死ぬのをただ見ているぐらいなら、私は自分の命を懸けたい。これは、勇者様がおっしゃった言葉です」

 青年は立ち上がった。

 「……すまない」

 村長はそれだけ言って、部屋を出る息子の後に続いた。

 蝋燭は消され、扉を閉める音だけが、静かに鳴った。

 ぎし。ぎし。ぎし。

 青年には、階段がいつもより音を立てているように感じられてならない。

 耳を澄ませば、自分の心臓の鼓動すら聞こえる。

 極度の緊張の中で精神が尖っていた。

 これから自分が成すこと。その後に残る功罪を考える。

 ──恐ろしい。

 ──だが、やるしかない。

 弱い自分を、責任と勇気が後押しする。

 青年が扉に触れると、今度は音もなく開いた。

 ナイフを右手に、そろりそろりとベッドへ近づく。

 盛り上がった布団の影。

 これに、右手を差し込めば、それで終わる。

 竜を殺した勇者。

 その勇者を殺すにはやはり、寝込みを襲うしかない。

 腹や心臓を狙っても、上手く刃が入るか分からないので、喉を狙うと決めていた。

 誰だって喉を掻き切れば死ぬ。勇者であろうと例外はないはずだ。

 何より、反撃されることもなく終えられる。

 喉がいい。

 あの細い喉に、刃を引くだけで。

 「……ん?」

 暗がりであったために、遠目で気付くことがなかった青年も、すぐ隣に立てば違和感を覚える。

 左手で布団を剥がすと、下にあったものは、人が寝ているように見せようと並べられたイモとウリだった。

 「なっ──!」

 予想外の事態に慌てた青年は、地頭の良さから、すぐに自分が謀られたことに気付く。

 しかし、気付いたところで、もう遅いのだ。

 「どうした?」

 部屋の入口で、青年の罪を見届けようと立っていた村長が、部屋の中に踏み出そうとする。

 それとほぼ同時に、部屋の隅にあったクローゼットが内側から空いた。

 「俺の言った通りだったろう?」

 「……うん」

 狭い縦長の空間に、勇者と商人が抱き合う形で入っている。

 寝ていたはずの勇者は、既に装備を整えており、純白のマントを纏って帯剣していた。

 二人は、目を丸くする青年と村長をそれぞれ見つめながら、おもむろにクローゼットから出ていく。

 「馬鹿な、何故! 何故、目を覚ましている──!」

 狼狽える村長を、商人の冷たい視線が射抜く。

 「おっと、動くなよ。この女は一撃で竜の頭蓋を砕いた女だ。お前たちがどうこうできる相手じゃない」

 それは、人を見る目ではなく。

 汚らわしい害虫を見るような目。

 もしくは、腐った果実を売り物にならないと退けるような、そういう嫌悪。

 「俺は、他所で出された食事には口を付けないことにしてるんです。心配性なものでね」

 次に、投げつけられた棒状の物体が村長の頭を打った。

 「この村に客人を毒キノコでもてなす風習があるとは、知りませんでしたよ」

 床に転がったものは、青年が採って来たキノコ。

 疑いようのない、裏切りの証拠である。


 商人はそのキノコを一階から押収した後、二階の勇者が寝る部屋に戻った。

 相変わらず小さな寝息を立てていた勇者を横目に、商人が荷物から取り出したものは、液体の入った瓶。

 昼間、竜の巣から拝借した果実酒だ。

 商人は、勇者の顎に触れ、彼女の柔らかい唇に瓶の口を押し当てる。

 そして、ゆっくりと、決して行き過ぎることのないように、瓶を傾けた。

 琥珀色の液体が、少女の口の中へ、ごく僅かに注がれる。

 「──ぶふっ!?」

 眠り姫のように横たわっていた勇者は、一瞬にして上体を起こし、高速でまばたきを繰り返しながら意識を覚醒させた。

 酒精による気付け。

 雪山などを行軍する際に、眠気を取る用途などで、よくこの手段が使われる。

 「わわわ、ちょっ、何を──!」

 「静かに」

 勇者が大声を出す前に、商人の手が彼女の口を押えた。

 もごもごと舌を動かす勇者も、彼の真剣な表情が意味するところを理解し、やがて黙り込んで頷く。

 「毒を盛られた。村長とその息子は俺たちを殺そうとしている」

 「な、どういうこと……?」

 「金を払いたくないんだろうさ。竜を退治した俺たちは用済み。眠らせてから始末すれば、全て丸く収まる。俺は戦えない、お前が迎え撃て」

 「息子さんとは話したけど、そんな悪い人じゃなかったよ。間違い、じゃないの?」

 「お前はいつもそうだ。他人を簡単に信用して、簡単に裏切られる。世界には、お前が思っているよりずっと悪人が多いだなんてことぐらい、もう分かっているだろう」

 「でも──」

 「いくつか証拠を見せてやる。証拠があれば、俺を信じられるな」


 証拠のひとつは、キッチンに置かれた毒キノコ。

 全て料理に使われたか、片付けられた可能性もあったため、手に入れられるかは運次第だった。

 ふたつ目は、今このとき、無断で勇者の部屋に立ち入っている青年と村長。

 毒キノコを前に言葉を失った勇者は、商人の指示に従い、二人でクローゼットの中に身を潜めた。

 全ては、自分たちを始末しに来る刺客をその目で見るため。

 事実、それは来た。

 如何なるお人好しであろうと、こうまで証拠が揃っては、彼らの悪性を認めざるを得ない。

 「そのキノコが何か知っていて、私に訊いたのですね。商人殿は人が悪い」

 そう言ったのは青年だ。

 夕食でした話のことを指している。

 「俺たちにだけキノコ入りのスープを差し出すなんて、訝しまれても仕方がない。しかも細切れにして種類を分かりにくくしているときた。こっちの馬鹿は上手く騙せたみたいだがな」

 「また馬鹿って言った! ……その通りだけどぉ」

 「だからこっちも仕掛けたまでだ。俺がわざと間違えた答えを言って、お前たちがそれを訂正しないのなら、それは嘘を吐いているということも同然になる」

 「そういえば、何かキノコの当てっこしてたね。出したのは毒キノコだから、正しい答えを言えないんだ。あれ? どうして自分の答えが、間違えた答えだって分かるの?」

 「お前は……はあ、味音痴でもあるのか。どう味わってもセップ茸の風味じゃないだろ。俺たちが食ったのはもっと野趣のある、力強い香りがしたキノコだ」

 「そ、そうですね……」

 あえて自分からキノコの種類を指定することで、答えなくてはならない青年側に逃げ道を作った。

 青年としては、その場限りで騙せればよかったので、商人の言葉に同調したが、それこそが狙いだったのだ。

 「では、このキノコは村の森でしか採れない特産品です、とでも言えばよかったですか」

 「俺はお前たちの言葉を信じない。どちらにせよ吐き出していたさ」

 「怖いお人だ。あなたの敵は魔族でなく、我々人間だった、ということですか」

 計画の失敗を悟った青年は、ナイフを床に捨てた。

 「まっこと、ご無礼を働きました。如何様にも差配してください」

 青年はそのまま、両膝を床に付け、こうべを垂れる。

 「さて」

 商人は、絶望で膝を屈した村長の前に立つ。

 「勇者を裏切ったんだ。ただで済むと思うなよ」

 「────」

 村長は目を瞑ったまま、何も言わない。

 申し開くところなどなかった。

 「どうして……」

 眉をひそめ、呟いたのは勇者。

 憂いを帯びた表情は、自分の身を案じたものではない。

 「どうして、私たちを殺そうとしたんですか。お金がないなら、謝ってくれれば。それで済む話じゃないですか──」

 「違う。違うんですよ勇者様。それでは何も解決しないんです」

 顔を上げ、青年が言う。

 「私は、勇者様を殺して、あなたの身に着けているものを奪おうとした。それらを売れば、村民全員分の薬を買えると思ったのです。報酬の件で約束と違う金額に対し謝罪して、もしそれが許されたとしても、我らに未来はない。病で死に逝く村民を救えず、この村は消滅していくでしょう。竜を討伐してもらっても、結局、意味がない。滅びを回避するためには、どうしても今すぐに、多額の金が必要だった。醜い話です。自己中心的でしょう。それでも、これが私にできる唯一の、村を救える方法だったんです──!」

 それは心中を満たす一種の責任感から生まれた、嘘偽りのない本音。

 自分たちが生きるために勇者を殺すという覚悟。

 それを目の前で吐露されてなお、勇者は微笑む。

 「そうですか。なら、仕方がないですね」

 村を想う彼の気持ちは、十分に伝わっていた。

 勇者は次に、村長に向き直ると、

 「村長さん、銀貨の未払いは残り六百枚でしたっけ。それはここにあるんですか?」

 「……いえ、ありません。先に渡した四百枚が、即金で用意できる全てです」

 「ではこうしましょう。私が村のおじいさんおばあさんから貰ったこの野菜、これを銀貨六百枚で買ったことにします。ですから、あなたが支払う分は銀貨四百枚で間違いありません」

 「え? し、しかし……」

 「報酬として頂いたものを買い取るというのはおかしなことですが、それはそれ。間違いはないったらないのです」 

 「勇者様……! そのお心遣いに、感謝します……!」

 村長は顔面を床に擦り付けるように伏せると、勇者は彼の肩に触れて起こしてやった。

 しゃがんでいる勇者と目が合い、村長の目から涙が零れ落ちる。

 「待て。何を勝手に決めてるんだ。俺たちを殺そうとした相手だぞ? まさか、向こうの言い分だけ聞いて同情して、それで許そうだなんてつもりじゃないよな? こいつらは守るべき人間なんかじゃない。お前の敵、魔族と同じだ!」

 「君の言うことはもっともだけどね。でも、私は勇者なんだ。誰かに酷いことをされたからってやり返すような真似はしないよ。悲しくはなるけどね」

 「────」

 儚げに笑う勇者に対して、商人はただ、首を振ることしかできない。

 度を越えた献身に、深すぎる慈愛。

 大き過ぎる力を持った少女は、これまでに幾度となく利用され、裏切られ、しかしそれら悉くを許してきた。

 「もういい。こんな辛気臭い村なんかに来たのがそもそもの間違いだった。今から村を発たせてもらうぞ、寝てる間に殺されてはかなわんからな」

 商人は荷物を纏め上げ、大きなリュックを背負うと、村長を無視して隣を通り過ぎ、部屋の外に出る。

 勇者も自分のリュックにベッドの上の野菜を詰め、最後に忘れ物がないか確認してから、リュックを背負い込んだ。

 「そうだ」

 勇者は青年の腕を掴むと、商人の死角になるように、部屋の隅まで移動する。

 そしてひっそりと、青年の耳元で囁いた。

 「本当に申し訳ないことですが、私はここで死ねません。私には魔王を倒すという責務があるからです。だから、どうか、これを代わりに──」

 勇者に渡されたものは、暗がりの中でなお光を放つ。

 「ありがとう、ございます……!」

 青年はそれを大事そうに抱きしめ、涙ながらに、部屋の中から勇者を見送った。

 勇者はただ、伏して涙する親子に対し、手を振りながら別れを終える。

 「さっき、何をしていた?」

 「なんにも?」


 勇者と商人は、まだ暗い街道を、ずっと歩いて行く。

 魔族の多い夜に出歩くのは、よほど腕に自信があるか、やむを得ない事情があるかのどちらかだ。

 今回の場合は両方。

 本来は村でしっかりと睡眠をとり、朝になったら出発する予定だった。

 だが、そうもいかなくなり、眠気を堪えながら足を動かしている。

 勇者は夕食を食べ、少し眠りはしたが、商人に至っては食事を吐き戻し一睡もしていない。

 慣れてはいる。

 二人きりの旅路は時に過酷であり、それでも商人は、ずっと彼女に付き添った。

 「……おい」

 「ん?」

 二人は歩きながら、互いの顔を見る。

 「腕輪はどこやった? 精神魔法耐性が上昇するんだ、常に身に着けておけと言ったろう」

 「あー、あれね……」

 勇者は目を逸らし、自分の細い手首をさすった。

 隠し事が得意ではない。

 「まさか、忘れてきたのか!? 取りに戻れ、今すぐ!」

 「ち、違うよ! 忘れたわけじゃなくて、その──」

 商人に問い詰められ、勇者は渋々白状する。

 「あの人たちにあげたの。あれだけあれば、薬も買えるでしょ?」

 「お前──」

 商人が大きな息を吐いて、その場に立ち止まり、がっくりと肩を落とす。

 勇者が謝ろうと近づくと、首元のマントが思い切り掴まれた。

 「馬鹿! あれは魔王を倒すための大切な装備だろうがっ! 国王から貰った餞別だとしても、王国の一級魔道具には違いないんだぞ!? それを、あんな輩のいるあんな村に……」

 「あの人たちは、悪人じゃないよ」

 勇者は言い切る。

 「村長も、その息子さんも、村人たちのために薬を買うお金さえあれば、こんなことはしなかった。お金がないのは、竜があの村を襲ったから。だから、悪いのは魔族と、魔族を率いる魔王。違う?」

 「────」

 「それでも君が、世界に悪人の多いと言うのなら。これ以上の悪を増やさぬよう、私が魔王を倒す。だって私は、勇者だから」

 商人は勇者の首元から手を離し、代わりに自分の頭を抱えた。

 勇者の言葉に間違いはない。人類種にとって、魔王は疑いようのない悪だ。商人と違うのは、その視点。

 魔王──決して分かり合えぬ別種の敵。人間の生存圏を脅かす、絶対悪。

 ならば勇者とは何か。

 魔王の対を成すものであれば、それは、絶対善。

 いついかなるときでも人の味方であり、その行動に損得勘定の入る余地がなく、ただ脅かされる命を救う者。

 「ああ、そうだったな。勇者ってのはきっと、誰よりも馬鹿で、誰よりも夢見がちな奴のことを言うんだ。お前にはぴったりな言葉だよ」

 「ごめんね? 渡していいか訊いたら、絶対止められると思ったんだ」

 「謝るな。止めても止まるタチじゃないだろ」

 ふと、月を背に佇む勇者の姿を見て想起する。

 「──そうだ、ひとつ忠告してやる。寝るときは服を着ろ。下着だけで寝ると風邪を引くぞ。それとも、馬鹿だから引かないのか?」

 「んにゃっ!?」

 勇者は、寝室で商人に寝るときの恰好を見られていたことを思い出し、急速に顔の色を赤く変えた。

 毒キノコを食べてちょっと眠かったから。季節的に風邪は引かないと思ったから。誰かが入ってくるとか考えてなかったし。できるだけ薄着の方が寝やすいじゃん?

 言い訳のしようはあるが、問題はそこではない。

 「私を起こしてくれたのは感謝するけど! それは忘れてっ! 忘れなさい! そもそも、乙女の部屋に入る前はノックすることーっ!」

 「ま、待て! ノックはしたぞ! ……チッ、藪蛇だったか!」

 ずかずかと寄ってくる勇者から、商人は大股歩きで距離を取る。

 互いに早足のまま、せわしなく土を踏み。

 星が導く夜空の下を、一本の道に沿って。

 涼しい一陣の風が、二人の間を吹き抜けた。

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勇者と商人 白ノ光 @ShironoHikari

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