第三章 沖ノ島
第17話 亀を助けにヨーソロー?
「私さあ、海って見たことないんだよね」
武ノ里を離れ、白兎の背に乗って南の浜へと駆ける私と残花。仁道家を発って早十日、だんだん気候が暖かくなってきた。手綱を握る残花の前身にすっぽり入るようにまたがる私は、首だけ振り返って残花を見上げ、話しかける。
「だから昔話でしか知らなくって。ほら、亀を助けたら魚が舞い踊ってお礼してくれるやつ」
「ああ、あの話か」
「あれってさあ、ホントにあった事なの? ホントだったらワクワクするなあ!」
興奮する私と対照的に、残花は真剣な顔をして口を開く。
「……ある意味、本当ではある。俺達もこれから亀を助けに行くのだから」
「へ? どゆこと?」
呆けた顔で聞く私に、残花が応える。
「亀のことはさておき、海は今、おびただしい灰に侵されている。普通の魚では、生きられない程に」
「え……」
残花は低い声で続ける。
「灰海に泳ぐは、灰人ならぬ【灰魚】だ。海に浮かぶ沖ノ島へ行くには、灰魚を倒しつつ航海しなければならない」
「え、どうするの? さすがに白兎じゃ行けないよね」
「ああ。だからまずは南岸の浜ノ村へ行く。船と船員を借りに」
「そっか、わかった」
残花はぐんと手綱を引き、白兎は速度を増して駆ける。はるか海を望む、浜ノ村へ――。
◆
「これが……海……」
浜ノ村に着いた私は呆然と立ち尽くし、思わず不安の声を漏らした。目の前に広がるはどこまでも続く灰色の海。前はもちろん、右も、左も、切りがない。途方もないとはこのことだ。遠くが何だかまあるく見える。
……広すぎる。灰だらけの浜をざっざっと踏み進み、波打ち際で水を掬ってみれば、灰混じりでとても泳ぐどころではない。これ、私、本当に治せるの……? 今までの範囲の比じゃないよ。
突然の強い潮風が勇気を奪うように吹き荒び、身がぶるっと震える。どこまでも続く灰雲と灰海が、とても恐ろしいものに見えた。視野一杯に広がる灰色が、全部黄泉の体の一部のような気がして。あまりの大きさに、身も心も
「ねえ、残花。私……」
「大丈夫だ」
私の不安な様子に気付いた残花が、真っ直ぐ見つめ返した。落ち着いた低音が胸に響いて。たったそれだけで、波立つ心が凪いでいく。やっぱり私、残花のこと――。
「さあ、村へ行くぞ」
いつの間にか小さくなった白兔を胸に、残花はザッと踵を返し歩き出した。灰だらけの浜には、海に一部せり出した丸太組の家が建ち並ぶ。家々は船小屋を兼ねているようで、どれも海側に開口部がある。……が、舟は無く、とても静かで人気が無い。
「……誰もいない?」
私の呟きに、残花が桟橋の伸びる海を見て言う。
「帰ってきたようだ」
残花の視線の先を見れば、はるか沖に大きな帆船と、囲むように続く手漕ぎ舟が何艘も見えた。ヨーソローと遠くからよく通る掛け声が上がり、桟橋に直進してくる。
「……漁に出てたってこと?」
残花に聞くと、首を振る。
「今の海で漁などできん。あれは、【海の民】の誇りとして海に出ているのだ」
「誇り……?」
私はよく意味が分からず呟いた。残花はただ黙って、だんだん近付く船を見つめていた――。
◆
やがて日も暮れ始めた頃。帆船が桟橋に停泊し、手漕ぎ舟が家々に入ると、賑やかに船員達が下船してきた。近くで見ると、帆船は全長八丈(※24m)くらいありそう! おっきい~! 帆船だけでも五十人くらいは乗ってたのかな。船員は男女問わず膝丈の裾短な小袖着流しで、武士にも劣らない屈強な体をしている。
――今回の航海もよう狩ったな!
――ああ、灰魚どもに銛喰らわしてやったわ!
――がっはっは!
ああ、そうか。彼らは魚を捕るのではなく、灰魚を狩りに出てたんだ。それが誇りってことなのかな。
帆船から桟橋に下船板がかけられ、降りたうちの一人がこちらに気付き、声を上げる。
「! おお、残花さん! よくぞお越しに! お
「ホントだ! お頭! お頭あ! 早く早く!」
口々に潮焼けしたダミ声でお頭を呼ぶ船員達。な、なんか、漁師っていうより海賊みたい。船員達が道を開け、帆船から降りてこちらに近付くのは、一人の綺麗な
「久しいな」
残花がお頭に声をかけると、綺麗な海女さんがお頭の横を離れ、黒く艶やかな長髪をなびかせながら、残花の胸にたっと飛び込む。え?
「……残花……! ずっと……ずっと、待ってた……」
え? え?
海女さんは目に涙を浮かべて残花を見上げ、残花の胸をとんと拳で叩く。
「……私、あれから、ずっと……」
「すまん」
残花は軽く頭を下げ、優しく海女さんの体を離す。なに、なに!? どど、どんな関係!?
あわあわキョロキョロする私に、残花が言う。
「タネ、この女性が海の民の頭領だ」
「あ、え!? そっち!?」
私が驚いて熊みたいな大男と海女さんを交互に見ると、大男がガッハッハと笑う。
「わしゃあただの守人じゃよ!」
「そーなんだ、私てっきり――」
えー絶対そう思うじゃん! 違ったの!? 海女さんが涙を拭って私に向き、丁寧に一礼する。おじぎすると、長い黒髪がさらりと流れるように垂れた。切れ長で涼やかな目に通った鼻筋、やけに開いた胸元(でかっ!)に、短裾から伸びるすうっと長い脚線美。身の丈も私より
「あらためまして、私は海の民の頭領、
あ、えーと、見せつけたわけじゃないよね?
「……私、芽ノ村から来た豊穣タネ。残花と一緒に、世界中の御神木を治す旅をしてるの」
意地悪かもしれないけど、ちょっと強調して言った。けど、江良の反応は思ったものと違った。
「……! あなたが、あの希望の種!? ああ、ようこそ浜ノ村へ。ついに【大亀様】を助けに来て下さったのね……!」
「え、え?」
江良は私の手を両手でしっかと握り、頭を下げた。残花が言葉を挟む。
「江良、タネはまだ何も知らん。もう日も暮れる。まずは宿を借りたい」
「あ……ごめんなさい、私ったら」
江良はぱっと手を離し、私に軽く頭を下げた。
「ここまでの旅で、くたびれてるわよね。私の家に案内するわ」
江良はサラッと髪をなびかせながら振り返り、浜沿いにある家のうち1軒だけ大きな屋敷に向かって行く。海賊――じゃなくて海の民達もそれぞれに家に散った。私と残花は、少し離れて江良の後に続く。
ふたり並んで歩きながら、私は江良に聞こえないよう、こっそり残花に耳打ちする。
「ねえねえ、どんな関係? 私びっくりしたんだけど」
「二年前、共に船に乗り灰魚と戦った。……それだけだ」
残花はサラリとそう言った。えー……でも、江良の方はどう見てもそれだけじゃないんだけど。ちょっと切り口変えてみよっか。
「あのさ……残花も、やっぱりあーいうオトナの
「何故そんなことを聞く?」
「いーじゃん! 教えてよ。どんな
えーいもうどうにでもなれ! この際聞いちゃれ! だって気になるんだもんっ。
残花は渋い顔をしたけど、私の勢いに観念したのか、天を仰ぎ優しい目で言う。
「強いて言うならば……
「へー、そうなんだ、なんか意外。てっきり大人っぽい
待って待って。郷を愛し、愛嬌に満ち、甘味が好き? 私って芽ノ村大好きだし、自分で言うのも何だけど愛嬌ある方だと思うし、甘味は間違いなく大好きなんだけど? あれ、あれ?
「もしかして、私のこと?」
「ふ」
残花はとんだ見当違いとでも言わんばかりに鼻で笑いこぼし、視線を逸らす。あー違った! はいはい調子に乗りました! あーもうサイアク! ていうか甘味が好きな女が好みって何! 甘味なんて皆大好きでしょ!
「何だか楽しそうね? 何の話?」
笑いこぼす残花と、顔を真っ赤にしてうつむく私を見て、江良が微笑みかける。気付けば、江良はいつのまにか玄関の前で待っていた。
「な、何でも!」
私は慌てて手をブンブン振る。もーこの話ヤダ!
「そう? さあ、上がって」
上等な木戸を開け、私達を招き入れる江良。履物を脱ぎ、玄関すぐの客間に上がった。海に泳ぐ色んな魚が墨で描かれた美しい襖が印象的な、広い畳部屋だ。まるで竜宮城の一室みたい。
家の者がさっと出した座布団に私達が座ると、江良も正座した。家の者は皆にお茶と茶菓子を出すと、すっと襖を閉め席を外す。
「……それじゃあ、あらためて話すわね。沖ノ島――いいえ、【大亀様】の現状を」
江良は胸を苦しそうに抑えながら語り出す。え、今何て? 私の表情を読み取った残花が言葉を挟む。
「タネ。これから目指す沖ノ島とは、神の眷属たる巨大な海亀なのだ。島のごとき大きな甲羅に、海の御神木が生えている」
「ええー! 沖ノ島って亀なの!?」
びっくりした! 残花が言ってたのはそういうことか! 驚く私に、江良が頷き言葉を継ぐ。
「そう。大亀様は、御神木を甲羅に乗せ海を回遊することで、果てしなく広大な海を浄化なさっていた。我々海の民はその背に住み、共に旅していたの……三百年前までは」
江良は再び辛そうに胸をぎゅうっと抑え、話す。
「海が灰に侵され、大亀様は泳ぎを止めた。海の魚は大亀様の周りにわずかに生きるのみ。それを捕るわけにもいかない。海の民は、海を離れ陸に降りざるを得なかった」
江良は悔しさにバンと膝を叩く。
「陸に立ち、何が海の民か……! 私達はそれでも誇りを捨てず、戦い続けているの。大亀様とその周りの魚を狙う、灰魚共とね」
江良の話に、残花が言葉を挟む。
「海は灰が流れ散り、陸に比べれば灰魚の復活は遅い。これまで海の民は灰魚を狩りながら、船の腕を継いできたのだ。いつか海が浄められる日を胸に」
江良と残花が私を見た。そっか、誇りってそういうこと。海に、帰りたいんだ。だから、私を待っていたんだ。何代もかけて、ずっと。
私は大きく頷く。
「わかった。助けに行こう、大亀を!」
私達三人は、みな意志の込もった強い目を合わせ、頷いた。それからしばらく明日以降の予定を話した後、客間に布団を借り、波音に揺られながら眠りにつく。……船に乗って灰魚と戦うなんて、正直まだあまり想像つかない。でも頑張るんだ。灰の無い海を取り戻すために――!
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