第32話
ソフィアとウィリアムという新婚夫婦を演じ、カイレルの社交界を連日連夜渡り歩く。
貴族達の話題は概ね平和なものばかりだったが、深入りするごとに少しずつ気になる情報が集まってもいた。それらはキナ臭さはあるものの、現在調査している事件とは全く関係の無いものが大半のように思えた。
ベルルシアには情報を精査するような技術や知識は無いため、只管にあらゆる雑多な情報を集めて報告するばかりだ。
それは先輩であるラクスもほぼ同様で、本人曰く、向き不向きがあるとの事だった。それが得意な者は、一足飛びに竜翼師団内でのし上がっていく。
その最たる例であるユランはというと、昼は2人の上げた情報を分析、夜は単独での調査に動いていて、碌に顔を合わせない日々が続いていた。
(……甘いものとか、食べられているのでしょうか)
カイレルに来てからは、竜翼師団の拠点の一つである小さな屋敷を使って全員が共同生活をおくっているものの、食事などの生活行動はそれぞれバラバラだ。
調査の補佐員として屋敷付きで雇い入れている人員がおり、掃除や食事の調理、洗濯などを全て賄ってくれている。
健啖なベルルシアの食事量などにも対応してくれる万全の支援体制だが、それはあくまで個人的な申告のもとで行われるものだ。
食事は割り当てられた自室でと聞いた上で、ベルルシアが恥を忍んでコッソリ食事の増量をお願いした事はさておき。
はたして、
長期任務が始まって十日目、夕方までの半日休を与えられたベルルシアは、迷った末に一人でカイレルの市街地へと出る事にした。
自分でもよく飲む甘いクリームと糖蜜のお茶の材料と、長期出張と連日の潜入捜査の疲れを癒すお菓子を買いに行くだけ、と自分に言い聞かせながら。
◆
ふらふらとパティスリーや茶葉店を辿りながら、カイレルの街中を気の向くままに探索する。
海辺の貿易都市と王侯貴族の夏場の避暑地という二つの軸で発展してきたカイレルは、カラティオンと比べるとかなり開放的で活発な雰囲気だ。
貴族平民問わず男女共に沢山の人々が街の大通りを歩いて行き交うため、簡素なワンピース姿のベルルシアの一人歩きが悪目立ちするような事も無い。
海から吹く潮風は涼しく、仕事を忘れて久々に爽やかな気持ちになると、悶々と考え込んでいた街歩きの動機が段々とどうでもよくなってくる。
仕事中毒の上司にたまには差し入れでもしようと考える事は、そんなにおかしいことではない筈だ。
どうせならオトラルドやラクスの分も買えばいい。仕事仲間と美味しいものを食べるのに、何をモヤモヤと落ち着かない気分になるような事があるだろう?
「あら、美味しそう」
通りに面した立派なガラスの出窓に、瑞々しい夏果の乗ったペイストリーを見つけて、ベルルシアは思わず呟いた。
タルトにパイ、デニッシュやシューやプディングなど、可愛らしく食べやすそうな軽食が美しく並べられた店内からは、甘いクリームとバター、小麦の焼けるいい香りがする。
大抵の店は朝までに作った商品を店棚に並べるが、ここの店では作りたてがどんどん補充されるようだ。
ここにしよう、と思って入り口を潜ると、人気店らしく中は客に溢れていた。
デイドレス姿の貴族令嬢と思しき姿の割合も多い。使用人に買わせるのではなく、本人が直接買うものを選ぼうとするほど種類があって味もいいのかと期待が膨らむ。
どれにしようか、ウキウキと気持ちを弾ませながら一つ一つの商品にじっくりと見入っていたベルルシアは、店内で己に近付いてくる人影に気が付かなかった。
「ねえ、ちょっとそこの方。貴女、ベルルシア・クレヴァリーではなくて?」
声を掛けられて、ベルルシアは飛び上がりそうになった。
すぐさま振り向いて、声の主に目を見開く。
「ナターリア様……?」
「ああ、やっぱり。半年も経たないのに、女学院の頃とは随分雰囲気が変わられたのね。間違えてしまったらどうしようかと思いましたわ」
ほぅ、と頬に手を掛けて品良く安堵の息を吐いてみせたのは、女学院時代の同級生だ。
ナターリア・セルウェスト侯爵令嬢。
ベルルシアの父の上司の娘である彼女は、唯一ベルルシアが友人と呼べそうな同性の存在であり、同時に『引き立て役』という不名誉な呼び名がつく事になった原因でもある。
「立ち話もなんですから、移動しましょう?」
「……ええ、構いません」
ナターリアに促され、ベルルシアは向かいのティールームへと入る事になった。
店の外で待たされている侍女らしき少女が恨みがましそうな目でベルルシアを見る。
ナターリアはペイストリーの外からベルルシアを見かけ、侍女を置いてわざわざ声を掛けに店まで入って来たのだ。
候爵家の侍女であるならば、ベルルシアはなどよりよほどいい血筋の令嬢である筈だが、ナターリアはあまり気にしていないようだった。
「ベルルシア、どうしてカイレルに? あなた、カラティオンの城の侍女官になった筈ではなくて?」
席に腰を落ち着けると、早速というように切り出された。高位の貴族らしい穏やかな表情は鳴りを顰め、真剣な顔で見詰められる。
どうやら卒業以来は無沙汰であった自分の事をそれなりに案じていてくれたらしいと気づいて、ベルルシアは少しばかり恥じ入った。
ナターリアはベルルシアの家柄からすれば、本来雲の上のような立場の人間である。それ故に、付き合いがあるのは女学院にいる間だけだと勝手に思い込んでいたのだ。
「その、実は、部署を移動になって。カイレルには仕事で来ています」
「女官の移動なんて聞いた事がなくてよ。あなた、大丈夫なんですの?」
「学んだ事が無駄になった訳ではないので、なんとかやれています」
「そうなの。それならよくってよ。ずっとお手紙も何もなくて、貴女も卒業後は社交界にもお見えにならないから、どうしたことかと思っていたのよ……」
ナターリアはそう言うと、深々と、心底からの溜息を吐く。
多少疎遠になっていた同級生に対する態度としては、随分大袈裟なように思えた。ベルルシアはふとそこに引っ掛かりを覚えて、内心で首を傾げる。
「社交界へは、結婚を求める気がないので参加しない事にしたのですが……私
異世界帰りの引き立て役は、平穏な暮らしに戻りたい けいぜんともゆき/関村イムヤ @keizentomoyuki
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