4-2(完)
病院は嘘みたいに静まりかえっていた。外来用の駐車場に車を斜めに停め、入り口へ走る。
ロータリーのバス停のベンチに、夏実はいた。頭に包帯を巻いている。極寒の中、両手を膝についてうなだれていた。その姿はあまりにも弱く、小さかった。
そばに寄ると、夏実は顔を上げた。こっちを見ているようで、目の焦点が合っていない。十秒くらい見つめ合った後、僕だとわかるとばつが悪そうに顔を背けた。
「何してんだよ」
抑えようとしたのに、強い口調になってしまった。
「事故った」
夏実は目を合わせない。
「なんで」
「ボーっとしちゃって、それで木にぶつかって」
目の前の女の子は本当に夏実かと疑いそうになった。
でも、彼女は夏実だった。見間違いようがない。癖のある長い髪に、形のいい顔の輪郭、大きくて鋭い瞳、小ぶりな口もと。美人なくせにとんでもなくおしゃべりで、せっかちでこだわりが強くて、めちゃくちゃ強気。
こんなぼろぼろになった姿を見て、僕は胸が張り裂けそうだった。こんな彼女を見たくなかった。
「怪我はひどいの?」
「大したことない。でも吐き気がする」
弱々しく語る彼女の口から、白い吐息がもれる。僕は上着を彼女にかけて、それから隣に座った。
「寄りかかっていいから」
夏実は素直に従ってくれた。肩が触れ合って、体が震えているのが直に伝わってきた。僕は彼女の肩に手を回した。華奢な体が腕の中にすっぽりと収まった。
「頭は平気なの」
「うん。ちょっと切っただけ」
「本当に、ただの事故なの? ビーエムは?」
聞きたいことが多すぎて、整理できないまま口に出してしまう。
夏実は自分のペースで言った。
「ビーエムはまだ修理中。それで今までずっと代車だったの。でも軽だからあまり乗りたくなくて」
彼女が異常なほど軽自動車を嫌っているのは知っていた。だからといって、事故を起こすほどの運転をするなんて考えられなかった。
「間に合わなそうだから急がなきゃって、スピードを出しすぎたみたい。たぶん、いつもの車なら大丈夫だったけど、制御できなくなって」
夏実はひと呼吸置いてから、いや、と付け加えた。
「車のせいにしちゃダメだよね。いつもと違うってわかってるんだから、もっとゆっくり走るべきだった。パトレイバーのおやっさんも言ってたでしょ、人間が間違わなければ機械は悪さしない、って。ほんと、その通りだったよ」
段々と、夏実の口が回るようになってきた。でもそれは、自分を慰めているようにも見えた。
いや、実際そうなのだろう。運転には絶対の自信を持っていただけに、きっとプライドは粉々だ。おまけに乗っていたのは自分がこき下ろした軽自動車だ。
かけてやれる言葉がなくて、僕は黙って彼女に身を寄せていた。あれだけ考えていたのに、いざとなると何も出てこない。
「あーあ、これで保険の等級が下がっちゃうな。ほんとにバカなことした」
何気ない夏実のぼやきだったけど、それを聞いたとき、僕の脳裏に光が奔った。
これだ。
「……お前は救いようのないバカだよ」
「え?」
「バカな運転するからこんなバカみたいな事故起こすんだよ」
このときの夏実の顔はもう、傑作だった。逆立ちした犬が雪道をフェラーリでドリフトしていても、こんな驚いた顔はしない。
「ばーか」
僕は何のためらいもなく言い放った。
「ばーかばーか」
「……グスッ」
夏実は鼻をすすり上げた。
「ああごめん。言い過ぎた」
「ちがうよ、もう……下手に慰められるより、ずっと……」
殴られる覚悟だったのに、夏実は今にも泣き出しそうなほど顔をくしゃくしゃにした。
「ごめ、ん……なさい」
とうとう彼女は顔を覆って泣き出した。それは僕に見せた、いや、他人に見せた初めての涙だった。
はじめは声を抑えていたけど、途中からあきらめて、これでもかと声を上げた。今の今までため込んだ泥を全て吐き出すように。人気のないロータリーにその泣き声が孤独に響き渡った。
ようやく彼女が本当の姿を見せてくれた。それは触れたら壊れそうなほど脆く、小さかった。
どこにも行ってしまわないように、僕は強く彼女を抱きしめた。夏実は僕の胸に顔を押し当てて、さらに泣いた。
永遠に思えるほど時間が経って、夏実はのっそりと体を起こした。
「今の、やっぱりなかったことに、できない?」
目もとは真っ赤に腫れていて、声もかすかに震えている。どこか照れくさそうだ。
「ダメ」
僕はキッパリと言った。
「ここまでしておいて、今さら忘れろなんて、卑怯だと思わない?」
「……卑怯じゃないもん」
まるで小さな子供みたいな意地の張り方だった。
「でも、事故は事故じゃん」
「もう、いいでしょ。私が悪かったです。もっと安全運転します」
「そうしてくれると助かる。これ以上心配しなくて済むから」
夏実はサッと目を逸らした。
「そ、そもそも、間庭君が呼び出さなければ事故らずに済んだのよ」
痛いところを突かれた。
「で、大事な話って何だったの? そのために呼んだんでしょ?」
一転、夏実が攻勢に出る。でも、僕は退かなかった。
「ハッキリさせたかったんだよ。僕と、夏実とのこと」
夏実の口が引き締まった。
「ちゃんと蓮花には言ったから。つき合えないって」
「……それが、私に何の関係があるの」
「あるって。大ありだって」
「どこがよ」
僕を見る彼女の目は氷のように鋭く、僕の心を突き刺した。
「それは……」
「そんなんだから!」
言葉が途切れたところを、すかさず夏実が拾った。
「間庭君はね、いちいち回りくどいの。言いたいことがあるなら直接言ってよ」
再び彼女の目尻に雫がたまる。目は、口ほどに物を言う。
「そ……」
僕も負けじと反撃する。
「そっちこそ、毎回毎回ストレートに言い過ぎなんだよ」
「昔からそうなの。二十年生きてきて今さら直せって方が無理な話」
ああ。もっといい雰囲気にしたかったのに、なぜか言い争いに発展してしまう。ロマンの欠片もない。
けどきっと、それが僕たちなんだろう。なんだかんだ、こうやって軽口言い合っている時間が、一番心地いい。
でも、このまま平行線をたどるのはもうたくさんだった。もう一歩踏み込まない限りには、これ以上の進展はない。
すでに僕は気づいていた。夏実が本当に求めているもの、それは自分に立ち向かってくることだ。彼女の攻撃を一方的に受け入れるだけでなく、同じように攻撃し返す。そうやって彼女の固い殻を破って、深く心を通じ合わせる。これが必要なことだった。
だから、僕が本気で彼女を求めているなら、腹をくくって攻めるしかないんだ。
「いつも思うけど夏実はさ、ちょっとしゃべりすぎだよ」
「だから?」
「少し黙った方がいい」
「じゃあ黙らせてよ」
夏実はジッと僕を見据えた。その目は覚悟を持って開かれている。
もう今しかない。
「そうか……だったら」
さっきよりも強い力で夏実の体を抱き寄せる。鼻先がぶつかる距離で、音がするくらい視線がぶつかり合う。僕はそっと唇を重ねた。一気に腹の底から熱いものがこみ上がってきた。一度離してから、もう一度口づけをする。今度はもっと強く、激しく。夏実もそれに応えるように、僕に絡めた腕に力が入った。
僕らは息をするのも忘れるほど一心にキスをした。
やがて名残惜しく唇を離し、僕はささやいた。
「続きは、怪我を治してから。いい?」
「…………」
夏実は夢を見ているかのように頷いた。
辺りは時間が止まったかのように静かだった。それでも時計の針は一時になろうと動いていた。
「やるときは、やるんだね」
「僕も男だよ」
「そういうの、時代遅れ」
「それ、お前が言う?」
「うるさい」
照れ隠しなのはバレバレだった。
「帰ろう。立てる?」
「一人で立てるから」
この期に及んで夏実は強がった。なんて素直じゃない。
「無理しないで。ほら」
僕は先に立ち上がって、夏実の手を取った。彼女はしぶしぶ立ち上がる。
「……じゃあ、夏実が運転する?」
「……バカ」
そうつぶやいた彼女に肩を貸してやった。ゆっくりと、二人で歩く。
怖いくらいだ。本当に夏実と、ここまで近づけるなんて。実はこれは全て夢で、現実の僕はサー棟の駐車場で凍え死んでいるかもしれない。
車に乗り込んでエンジンの鼓動を聞いたときにようやく、僕は生きていて、今が現実であると実感できた。おかげで隣に乗っている人のことを意識させられて、胸がいっぱいで思わず叫んでしまいそうだった。
この先、僕らがどこまで行けるかはわからない。雪のようにすぐ消えてしまうかもしれないし、この車が走り続ける限りかもしれない。
不安はあったけど、同じくらい希望もあった。
夏実を選んだことは、絶対に間違いじゃない。これだけは自信を持って言える。だから、きっと大丈夫だ。
車を走らせると、薄く積もった雪に轍が残った。
これがどこまでも続くことを願って、僕はアクセルを踏み込んだ。
「これでめでたしめでたしってことだね」
「まだですよお。むしろ、今夜こそ一番の勝負なんですから」
年が明けてから久しいある晴れの日、僕は真田さんの店を訪ねていた。相変わらずほとんど車は来ない。真田さんが洗っている一台だけだ。
今夜、夏実の回復祝いとBMWの退院記念にデートをすることになっていた。そのことで、僕は真田さんに相談しに来ていた。
朝から緊張しすぎて、僕は車で走り回っていた。何しろその辺の経験に疎いもので、振る舞い方がまるでわからない。蓮花とも一度やらかしたし。
その蓮花とは今も変わらず研究室で会っている。色々吹っ切れたのか、今では気兼ねなく話ができている。
バイトも続けていて、店長にしごかれながらせっせと働いている。あの人も、よくつき合ってみるといい人だ。映画に詳しいのには驚いた。
そんなわけで、色々あったけど僕は上手く日々を過ごしている。
真田さんは手を止めた。
「大丈夫だって。あの夏実ちゃんを落としたんだから、自信もっていけばいい」
真田さんはあっけらかんと笑ってみせた。
「ほら、あれ言ってごらん。覚えてるでしょ?」
「直感、ですか」
真田さんはにっこりと頷いた。
直感。忘れるはずない。僕はその言葉に救われた。おかげで、夏実とここまで近づくことができた。
しかし、これで終わりじゃない。この先も僕はいくつもの選択をすることになる。人生を左右するものだってある。でももう怖くない。そこで悩んだら、最後は自分が信じる方を選べばいい。
もし、そのときに一緒にいてくれる人がいたら。それがもし夏実であってくれたら。もう無敵だ。
「実はさっきまで、夏実ちゃんが来てたんだよね」
「え、マジっすか」
考えることは同じか。
「うん。あんまり上手じゃなかったって」
「は?」
真田さんは大口開けて笑った。
あの夜、あんまり夢中になりすぎたせいで怪我の回復が遅れたことで、僕は夏実にこっぴどく怒られていた。
「でも、すごく喜んでたよ、あの子」
「はあ」
そういうことは直接言ってくれないんだから。やっぱりあいつは素直じゃない。
真田さんは洗車機のホースで車の泡を一通り落とした。見事につやつやのボディが現れる。
「ちょっと手伝ってくれる?」
不意にタオルが投げつけられた。
「え、なんでですか」
「拭き上げ手伝ってくれたら、必殺技を教えるよ」
「必殺技?」
真田さんは不敵な笑みを浮かべた。
「そう。どんな女の子も一発で物にできるとっておき。昔、これで嫁をゲットしたこともある」
「え、聞きたい!」
僕は一心不乱に車を拭いた。それはもう隅々まで、一滴も残さないように。心なしか、停めてある僕の車が恨めし気にこっちを見ているような気もするが、多分気のせいだろう。
洗車が終わり、お客さんも出ていったところで、僕は待ちきれずに聞いた。
「で、必殺技って?」
「え? ああ、それね」
真田さんはとぼける。
「そんなものはない」
「え」
膝から崩れ落ちた。タダ働きかよ。
うなだれる僕の背中を、真田さんはバンと強く叩いた。
「しっかりしな。そんなお手軽な技に頼ろうとしているうちはまだまだってことだよ」
それもそうだ。僕は観念して立ち上がった。
「男だったら、車も女の子も乗りこなしてなんぼさ」
頼れる男の言葉は重かった。
「流石です」
具体的なアドバイスじゃなかったけど、僕は心強かった。いつだって真田さんは、前に進むための力をくれる。それを活かすか殺すかは僕次第だ。ガソリンスタンドの店員らしいというのは、少しこじつけが過ぎるか。
給油を終えて、僕は車に乗り込んだ。ちゃっかり安くしてもらってちょっとラッキー。
「ありがとうございます。頑張ります」
「おー。頑張れよ」
ギアを一速に入れ、サイドブレーキを下ろそうとしたとき、僕は思いとどまって、真田さんの方に向き直った。
「真田さんは、車と奥さん、どっちが大事なんですか?」
これには真田さんも目をぱちくりさせた。ぺチンと額を叩き、天を仰いで笑った。
「そりゃ、選べないわ!」
五速ミッションの選ぶ道 竹内るい @bonjin-51
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