4-1
毎日のように曇りか雨の日が続いている。この日はその中でもとびきり寒かった。芯から凍えそうな上に、雨も冷たい。
そんな日なのに、大学で見かける連中の表情はどこか明るかった。そういえば、もうすぐクリスマスだっけか。
寒さから逃げるように研究室に入ると、蓮花の姿があった。
「あっ」
という声が重なる。
「ど」
上ずった声で蓮花が言った。
「どうしたの? 元気なさそうだよ?」
笑顔もぎこちない。努めて平然としているのが丸わかりだった。そんな健気なところを見せられたら、言いたいことも言えなくなる。
「いや、少し考えごと」
「どんな?」
「それは、ちょっと言えない」
「何で? 教えてよー」
見ていられなくて、僕は目を逸らした。
もう切り出していいだろうか。蓮花のことを考えて、今日はやめた方がいいだろうか。
いや、それだといつまでも何も変わらない。真田さんにそう言われたじゃないか。
「あのさ」
「ん?」
「この前のことなんだけど」
瞬く間に蓮花の目がにじんだ。
「あれはさ、やっぱり――」
「あーあー。もう大丈夫聞きたくないから」
蓮花は耳を塞いだ。涙をこぼさないように目もギュッと瞑っている。
「蓮花。頼むから聞いてくれ」
声をかけても、彼女は頭を振り回して聞こえないふりをしている。これでは話にならない。
「蓮花!」
声を張り上げると、蓮花は怯えた子犬のようにこっちを見た。こらえきれなかった雫が一筋、頬をつたった。
やっちまった。取り返しがつかなくなってももう遅い。こんなせっかちなのは、きっと夏実のせいだ。
「あの夜のことは、もういいから。蓮花は悪くない」
蓮花は口を開いたけど、言葉が出てこない。
「あのとき、素直にダメって言わなかった僕が悪い。蓮花に変な期待させてしまった。傷つけたくないと思ってたけど、そのせいで余計に辛い思いをさせてしまった。ほんとにごめん」
僕はまくしたてる。一度でも止まったら、もう何も言えないだろう。
「僕には好きな人がいるんだ。いつも真っ先にその人のことを考えてしまうくらいに。だから……」
けど僕は言葉に詰まった。擦り切れた雑巾みたいに、蓮花はぼろぼろと泣いていた。
今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。自分のせいで目の前の女の子が泣いている現実を直視したくなかった。
でもそれではダメだ。自分がどうしたいのか、はっきりさせなければ、また同じことを繰り返す。心を鬼にするんだ。
「だから、蓮花とはつき合えない。ごめん。ほんとに、ごめん」
心の中では、その何十倍も謝った。
「でも、蓮花のことが嫌いなわけじゃない。また今度、飲みに行こうよ」
蓮花は何度も鼻をすすり、声を漏らすまいと唇を噛んでいた。手のひらで何度も頬を拭い、それでも時々こらえきれずに低い声が出た。
僕はいてもたってもいられず、蓮花に近づいた。でも、彼女はそれを手で制した。
やがて落ち着いてくると、涙の混じった声で蓮花は言った。
「もっと早く言ってほしかった」
「…………」
僕は何も言い訳をしなかった。
袖で目元を拭いて、蓮花は笑った。
「でもありがと」
その笑顔は、眩しいくらいに輝いて見えた。
でも、これ以上はもう限界だった。
「ごめん、ちょっと、トイレ」
蓮花はうつむいたまま研究室を飛び出していった。
「……ごめん」
取り残された僕は、もう一度だけ、謝った。それから、安心感と罪悪感が同時に襲ってきた。こんなこと、二度と味わうことはないだろう。もちろんそれを心から望む。
でも、これで終わりじゃない。本番はこれからだった。
建物を出ると、僕は夏実に電話をかけた。メッセージでなく、声で伝えた方がいいと思った。
長いコールの果てに、彼女が出てきた。感情のない声だった。
『……もしもし』
「もしもし間庭だけど。今、時間ある?」
『……あるけど』
電話越しなのに、彼女の声が聞こえる度に心臓が跳ねあがる。今からこんな状態で、実際に対面したら僕は死ぬんじゃないか。
「話したいことがあるんだ。ああ、電話でじゃなくて、もっと大事なこと。だから、さ、今夜、どこかで会えるかな」
沈黙は長かった。二度、電話が切れていないか確認した。
「イヤだったらいいよ。でも、このままでいるのはお互いによくないと思うんだ。だから」
もう一度、念を押すように電話口に語りかける。でも、夏実の返事はない。
外は雨が降っているのに、気味が悪いくらいに静かだった。外を歩く人影もない。何だか、自分だけが違う世界に取り残されているようだった。夏実の声だけが、元の世界とつながる最後の希望のように思えた。早く、返事をしてくれ。
やがて、夏実はやけに事務的に返事をした。
『サー棟の駐車場。夜十時』
「頼む」
約束をすると、向こうから電話が切れた。でも、それだけで十分だった。
一時間も前から僕はサー棟にいた。傘をさして夏実が来るのを今か今かと待っている。僕の他にも誰か残っているようで、いくつか明かりの点いた部屋があった。
雨はいつの間にか雪に変わっていた。今季になって初めてだ。ほんの小さい白い塊が音もなく真っすぐと落ちて、アスファルトに染み込んでいく。
寒さに耐えかねて、僕は車に乗り込んだ。エンジンをかけて、エアコンを入れる。オーディオから『テイク・オン・ミー』が流れ出した。夏実の趣味だ。
アップテンポなシンセサイザーを聞き流しながら、僕はシートに深く身を預けた。
夏実が来たら、何て言おうか。今までの不甲斐ないことを謝って、それから自分の思いを打ち明けようか。いや、そんな回りくどいこと、夏実は好まない。なら、ズバッと素直に告白してしまおうか。でもそれだけだと何も伝わらない気もする。
思い返せば、僕は夏実に振りまわされっぱなしだった。彼女の言うことに頷いているだけで、自分から何かをしたことがない。
彼女を支えてやれる人が必要だ、と真田さんは言った。真田さんは何でも知ってるし、何でもしてくれる。そんな真田さんでさえ彼女を変えることができない。
結局、夏実を支えられるのは車だけなのだろうか。そう思うと、途端に自信がなくなってきた。
車。
夏実が車に求めているのは、絶対に裏切らないことだ。
「……そうか」
ひらめいたかもしれない。
支えるというのは、何もこちらから働きかけるだけじゃない。全力で向かってきた相手を受け止めてやるのだって、同じことなんじゃないか。ステアリングを握れば手足のように応えてくれる車のように、彼女を受け止められれば。
いや。
頭を振った。そうじゃない。それでは、今までと同じだ。
僕がしてやらなければならないのは、夏実が本当に求めているものだ。それは、ただ受け身でいることじゃない。
だったら、何だ。彼女が欲しいものって。
駐車場のアスファルトが、うっすらと白い膜を張っていた。落ちてくる白い塊が、先ほどよりも大きくなっている。みるみるうちに、僕の車を厚く覆っていく。
ふと、リックアストリーの曲が耳にとまった。これも何度も聞かされて耳で覚えてしまった。なんとなくサビを口ずさんでみた。
絶対あきらめない。絶対見捨てたりしない。泣かしたりしないし、傷つけたりもしない。
時代は古いけど、いつだって好きな人にはそうあるべきだ。でも――
逆に、夏実を攻撃してみたら、どうだろう。
「まさか」
すぐに否定した。そんな自殺行為ができるかってんだ。
考えても、何も出てこなかった。ずいぶん時間が経ったような気がして、僕は腕時計を見た。すでに十時を過ぎてから、三十分が過ぎようとしていた。スマホも確認したけど、間違っていない。
夏実にしては遅い。あるいは、来る気がないのか。
僕は後者でないことを願った。会おうと言ったのは僕だけど、時間と場所を指定したのは夏実だ。彼女は約束を破ったことはない。時間に遅れたことだってない。
まだ待とう。僕は夏実を信じて待った。
しかし、十一時を過ぎても、一向に来る気配がない。やがてサー棟の部屋の電気が全て消え、周りに停まっていた車もいなくなってしまった。僕だけが、白い闇に取り残された。じわりと、胸に苦い味が広がっていく。
真田さんの言葉が思い返される。いつでも大丈夫。そう油断していると、二度と手に入らなくなる。
嫌われたのだろうか。
もう手遅れなのだろうか。
認めたくないけど、この場に夏実がいないのが現実だった。
ギアを一速に入れて、また戻す。
諦めて走り出したい気持ちが顔を出しては引っ込む。なかったことにして、どこまでも遠くに逃げられたら、それが一番楽だ。
何度も思いとどまって、とうとうエンジンを切ったとき、電話が鳴った。夏実からだった。
食いつくように電話に出た。
「今どこ!?」
『病院』
「は……?」
目の前が真っ暗になった。
電話の向こうで、荒い息づかいが聞こえる。何が、何があったんだ。まさか、また、空を見上げて……
『迎えに来て』
「なんで……なんでだよっ!」
わけもわからず、僕は声を荒げていた。
『いいから』
夏実の声は生気が抜けたようだった。一刻の猶予もなさそうだ。
「わかった、すぐ行くから! どこ行けばいい!」
『大学病院』
再びエンジンに火をつけ、矢のように走った。
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