ともに、生きる。

気まぐれなハリネズミ

ともに、生きる。

 カランコロン。


 店の扉を開けたとき、期待していた涼しさがそこにはないことが分かった。

花の香りが充満した空間に入った途端、私は少し咽そうになる。

「いらっしゃいませ」と花の似合う笑顔を見せた店員に、軽く会釈をした。


 水をかき分けるような感覚をおぼえる湿度の高さと、肌にじりじりと照り付ける日差しとで、ここに来るまでに随分と体力を奪われてしまった。薄いピンク色のブラウスが身体にまとわりつくし、汗が背中を伝っていくのがよくわかる。


 タオルで首元の汗を拭っていると、彼が呟いた。

「綺麗なガーベラ」と。

 返事をするか迷っていると、店員さんが彼に近づいて

「綺麗ですよね。花束などの相談がございましたら、気軽にお声がけください」と、応えてくれた。私よりは年下で大学生くらいに見える彼女は、私のほうにも笑顔を残してカウンターへ戻っていった。

「あなたも、誰かに花のプレゼントですか?」

 花の香りに慣れた頃、少々皺の刻まれた、純粋無垢な笑顔で彼は私に声をかけてきた。

「はい、父に。誕生日なんです」

「私も、可愛い娘に」

 そう言って、彼はまた花に視線を落とした。

「まだ六十歳なんです」

 私が祈るように言うと、彼は少しぼうっとしていたようで

「私の娘はバレエを習っていてね、その発表会の後に花束を渡したいんですよ」と、絶えない笑顔で話した。

「娘さん、喜んでくれるでしょうね」

「はい、娘はピンクが好きなんです。あ、綺麗なガーベラ」

 私は、彼の顔を見られなかった。私は、大して興味のない花にまで視線を運んでいた。

―父に花をあげても。

 そう考えてしまう自分が、嫌でたまらない。

 目の前の花がぼやけて、その靄が消えたと同時に、花に滴が落ちていった。そこで、私は初めて自分が泣いていることに気づいた。

 急いで涙を拭うと、「どうかされたんですか?」と、彼が声をかけてきた。

 ふと触れた彼の優しさと、心配そうな表情を見て余計に涙が止まらなかった。私が崩れ落ちるようにしゃがむと、彼は躊躇なく濡れた床に膝をついて私の背中をさすってきた。


「ごめんなさい」

 私は、彼に届くかわからない声で言った。

「泣きたい時は泣いていいですよ」

 彼の言葉が、頭の中でこだました。昔、父がよく言ってくれていた言葉。

「実は、お父さんの体調がちょっと良くなくて。側にいるのに何もできなくて」

「そうだったんですか。お父様のことを聞いてしまって申し訳なかったですね」

 彼は、自分のことのように心を痛めたような眼差しで私を見てきた。

「大丈夫…大丈夫です。私こそいきなりすいません」私が立ち上がると、彼も背中から手を離して立ち上がった。

「他人の私が何を言ってもという感じですけど、子供が側にいてくれるだけで親は嬉しいです。生きていてくれるだけで、嬉しいです」と彼は優しさに溢れる笑顔を私に向けた。

「そうですか」とだけ返していた。返事を考えに考えて出てきた言葉は、なんだかそっけないものになってしまったものだ。

「綺麗なガーベラ」

 そう彼は言った。

 私は「そうですね」と返して、花を選んでカウンターへ向かった。


「お待たせしました。プレゼントですか?」

「はい、父に」

 私はかえって心穏やかになっていた。

「花束は貰ったことしかないんです。昔バレエの発表会の時によく父がくれたんです。」と私はつづけて話していた。

 彼女は「いいお父様ですね」と言うと「あれ、紫苑ですか」とつづけた。

 私は静かに頷いた。

「紫苑の花言葉、『あなたを忘れない』ですね。ご存知でしたか?」

「はい」

 せっかく止まった涙が、また瞳を覆っていくのがわかる。

「私だけは覚えてないといけないので」

 財布の中を無駄に探りながら、応えた。

「そう、ですか。きっとお父様も喜びますね」

 戸惑ったような彼女は、そう言って、また優しく微笑んだ。 

 私は、口角だけで笑って見せた。


「帰ろう、お父さん」

 私は彼に花束を渡した。

 彼は首をかしげると

「綺麗なガーベラ」と呟いた。

 きっと、彼の中で私という存在は昔の姿のまま、時が止まってしまっている。

 私は彼の手を引いた。

 店のドアを開けると、さらに存在感の増した日差しが私たちを刺激する。

 私が覚悟を決めて一歩踏み出そうとした時、花の香りを運ぶ風が私たちの背中を押した。

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ともに、生きる。 気まぐれなハリネズミ @kiyo1015

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