2月28日(水)
例の騒動から三日が過ぎた。
あの日以来、ワニの目撃報告はない。月曜日も火曜日も何事も起こらず、清掃業務はつつがなく終了した。
芝原も野上さんも、あれは一体何だったのかとしきりに首をひねっていたが、他のスタッフに話すことはなかった。賢明な判断だろう。わたしも同様に口を噤むことにした。無論、頭がおかしくなったと思われないためだ。
しかし、慌ただしい作業の合間のふとした時に、あのワニの幻影がするりと頭の中に入りこむようになった。
あの柱の陰から、奴がぬっと姿を現すのではないか。あの角を曲がった先で、わたしに襲いかかろうと待ち構えているのではないか……などという妄想がわたしを脅かした。認めたくはないが、あれ以来わたしはワニの幻影に苛まれていたのだ。あれほど奇妙な現象を目の当たりにしたのだから、無理からぬ話ではあるが。
あの夜、作業を終えて帰宅した後に「ワニ クロコダイル」とスマホで検索をした。(クロコダイルって、ワニじゃないんすか……)という芝原の一言が妙に引っかかっていたのだ。
調べてみたところ、たしかにワニの英訳がクロコダイルだというのは間違いではないようだ。だが、ウィキペディアによれば、現存するワニは、ガビアル、アリゲーター、クロコダイルという三つの科に分類されるという。つまりクロコダイルとは、あくまでワニ目に属する科のひとつだということになる。
わたしは親指でスマホの画面をなぞり、流れてくる文章をぼんやりと眺めた。
ガビアル、アリゲーター、クロコダイル。
どうやら英語圏では、彼らはきちんと区別されているらしい。すくなくとも、彼らをひとくくりにする呼び名はないようだ。対して日本では、十把一絡げに「ワニ」の二文字で彼らを括ってしまっている。アリゲーターとクロコダイルの違いについても、これまでの人生で一度も考えを巡らせたことはなかった。
では、わたしが目撃したあれは、三つの科のうちどれに分類されるものだったのだろう……。
ベッドの上で考えてみるのだが、はっきりとこの目で捉え、頭の中にすり込まれたはずのワニの姿は、すでに靄がかかったようにぼんやりとしていた。さらにいえば、わたしの頭に残っているのは「ワニを目撃した」という客観的事実のみで、映像としての詳細な記憶は、ひどくたよりないおぼろなものになっていた。まるでシュレッダーで裁断されてしまったあとの紙屑のように……。
わたしは、脳内にたよりなく浮かぶワニの幻影を、網ですくい取るように頭から捨て去ると、ベッドのうえで眠りに落ちたのだった。
それから三日後の今日、わたしの担当は
G-SHOCKに目を落とす。閉店時間2分前。すでにタンクには必要量の水と洗剤を入れて、3階のバックヤードに控えている。
時計が9時を示した瞬間に、わたしは
パッドの回転する音と、洗浄液を吸引する音を響かせながら、無人の売り場通路をゆっくり走っていると、ぼんやりとした脳の間隙を埋めるように、思考とも呼べぬほどのとりとめのないものが押し寄せてくる。
ガビアル、アリゲーター、クロコダイル、ガビアル、アリゲーター、クロコダイル。
あの晩、スマホを通じてわたしの目の前を滑っていった言葉たち。その無機質なカタカナの羅列は、意味を失って干涸らびた呪文のように、わたしの頭の中でくり返された。
「ガビアル、アリゲーター、クロコダイル、ガビアル、アリゲーター、クロコダイル……」
わたしはぼそぼそと唇をかすかに動かしながら、通路をまっすぐ走り抜けた。
幅約3メートルの通路を充分に洗浄するには、
3階通路の作業を終えると、バックヤードの貨物用エレベーターを使用し、2階へと降りる。そして同様に、薄明かりの通路をゆっくりと走り抜けてゆく。
異常が起こったのは、中央エレベーターの前を通りかかった時だった。何の前触れもなく、
すわバッテリー切れかと慌てたが、バッテリー残量を示すランプを見る限り、そうではないらしい。誤って非常停止ボタンに触れてしまったわけでもない。
一度キーを回して電源を落として再起動を試みる。電源ランプはつくもののタイヤは動かない。先ほどまで音を響かせていたパッドや吸水ホースもだんまりを決め込んでいる。
原因不明の急停止……こんなことは初めてだった。
わたしは運転席から降りて機械のまわりをぐるりと点検してみた。原因はすぐに見つかった。タイヤの前輪が何かを巻き込んで、動かなくなっていたのだった。
直径二十センチほどのタイヤに絡みついたその物体は、一見すると薄汚れたタオルのようだった。
スタッフの誰かが落としたものを、気がつかずに巻き込んでしまったのかもしれない。それを取り除こうとわたしは手を伸ばしかけたが、触れる寸前にわたしは声をあげてしまった。
「なんだ、こいつは?」
それはうねうねと気味わるく動いていた。その動きからは、生命の息づかいのようなものが感じとれる。
雑巾と見まがうような、小汚く床にへばりついたその物体は、まるで自身が生物であることを示すように、文字通り懸命に蠢動しているように見えた。
その時、わたしはなぜかクマムシという生物の姿を思い浮かべていた。顕微鏡がなければまともに観察できないほどの小さな体を持つクマムシだが、あらゆる気温や気圧、放射線にも耐えて生存が可能だと耳にしたことがある。目の前の生物も、自分の体よりも大きな車輪に踏みつけられ、巻き込まれても動いている。おそらくはその不死身性からの単純な連想だった。無論、当のクマムシはこんなに大きな体を有してはいない。
わたしは苦しみ悶えている未知の生物と距離をとり、自動洗浄機に備え付けてあった小さなホウキに手を伸ばした。ホウキの柄の先で突いてみたり、タイヤから引き剥がそうと試みるが、思うようにいかない。
もどかしくなったわたしは、ついに、ゴム手袋を嵌めた手で直接それを取り除くことにした。
手袋ごしに伝わってくるその感触はまるで、つきたての餅か、子供の頃に遊んでいたおもちゃのスライムのようだった。柔らかく弾力があり、無理に引っ張ると千切れてしまいそうな危うさを指の中に感じながら、かすかに震えるそれを慎重に引っ張り出していった。タイヤに敷かれた体の一部は最後まで抵抗の姿勢をみせたが、最終的にはつるんとタイヤから剥がれ、わたしは勢いのままに
わたしの心の底で、なにやら黒く重いものが渦を巻きはじめていた。ゴム手袋の中がじっとりと湿り、不快感が指の末端から這いあがってくる。
この時、わたしの頭にある文句が浮かんでいた。深淵をのぞいているとき、深淵もまたこちらをのぞいている……とかいう、あの有名な一文だ。
その言葉通りというべきか、わたしが放り投げたそいつは、たしかにこちらを観察していたのだ。そこに眼球らしいものは見当たらず、ゆえに視線など感じるはずもないのだが、なぜかわたしにはそう感ぜられるのだった。
そいつはむくむくと動いていた。こちらを威嚇しているのか、あるいは逃げようとしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。そいつはゆっくりと形を変えていた。いや、もともと不定形の体であったのだから、形を持つようになったというのが正確だろうか。とにかく、黒と灰色の中間の色をしたぶよぶよの体をしていたそれは、ある生物の姿になっていたのだ。
それは、黒い蛇だった。
その姿を目にした時、わたしのなかの扉が開いて、そこから突風が吹きこんだような気がした。過去から現在へと一直線に吹き抜ける風。それは、わたしの奥で眠っていたある記憶の断片を運んできた。
十数年も前の話だ。
中学の陸上部に所属していたわたしは、実家の近くにある小山のハイキングコースを自主練習の場所としてよく利用していた。
その日もいつも通り、ひとりで軽快にランニングをしていたはずである。
はず、というのは、あれだけの出来事だったにもかかわらず、前後の記憶がほとんどないのだ。奇妙に思えるが、あの出会いの衝撃が、それ以外の記憶を吹き飛ばしてしまったのかもしれない。
手短にいってしまうと、わたしはその途中で白骨化した人間の死体を発見したのである。
ランニングの途中、尿意を催したかなにかで、わたしはコンクリートで舗装されたコースを外れて、人の立ち入らない山中へ足を踏み入れた。とはいえ小用を足すのにそれほど奥へ分け入る必要もなく、人目につかない木陰を探してせいぜい十数歩ほど歩いたに過ぎない。そこで突然、死体と出会ったのだ。
その白骨死体は胸元から上が空気に晒されており、下半身は湿った土に覆われていた。まるで木の根を枕に、土を布団がわりにして眠っているようだった。
(おう兄ちゃん、あんたも休んでくか……)と、そんな声が聞こえた気がした。
わたしは悲鳴をあげる余裕すらなく後ずさり、すぐにその場から離れようとした。だが、振り返ろうとした時に、頭骨がすこし動いたような気がしたのだ。
死体がこちらを見ている……わたしはそう感じた。
よく見ると、ぽっかりとあいた眼窩から、黒い蛇が顔をのぞかせていた。
頭蓋骨の中の深淵から、こちらをのぞきこんでいたのだ。
その後のことははっきりと憶えていない。無論、警察にいろいろと聞かれたり、死体発見のニュースがテレビに流れたりということがあったのだが、そこから先のことは知らない。結局、死体の身元が判明したのかどうかも知らないままなのだ。
ふと気がついた。
そういえば、あそこに蛇がいたことを警察には話さなかったな。
それどころか、今の今まで、あの蛇の存在を忘れてれたような気さえする。あんなに印象的だったのに。あんなに衝撃的だったのに……。
頭蓋からひょっこりと顔を出す黒い蛇。
お前はあいつなのか? お前はわたしの記憶から抜け出して、はるばるここまでやってきたのか?
この閉店後のスーパーなんかに、わざわざ、わたしに会うために……。
「升野さん?」
名前を呼ばれ、わたしは振り向いた。後ろに立っていたのは、清掃スタッフのひとり、高尾だった。高尾は洗剤やモップ、バケツなどを積んだ清掃用のカートを押していた。これからフードコートの清掃に向かうところで、ここを通りかかったらしい。
「何やってるんですか、さっきから」
高尾は黒い太縁の眼鏡を押し上げながら、怪訝そうな目でわたしを見ていた。
「あ、いや……」
わたしは、黒い蛇に化けたあの奇妙な生き物のことを知らせようと、目線を向けたのだが、そこにはもう何もいなかった。
「あれ……さっき、そこに……」
なんとか言葉を紡ごうとするが、口がうまく動かない。
「本当に大丈夫ですか、升野さん。すごい汗ですよ。体調が悪いのなら交代しましょうか」
「ああ、いや、いいんだ。大丈夫……それだとまた、別のスタッフにしわ寄せがいくだろう」
わたしは
「ちょっとタイヤにゴミが絡まっちゃって、それを取ってたんだ。本当に、それだけだから……」
「あ、ああ……そういうことですか」
高尾は納得したようだった。
「すみません、なんだかちょっとびっくりしちゃって。だって升野さん、まるで死体でも発見したような顔で突っ立ってたから……」
「え、あ……そう?」
わたしの間の抜けた返答がおかしかったのか、高尾は笑って去っていった。清掃用カートのタイヤの音をカラカラと鳴らしながら遠くなっていくのを、わたしは機械の上から見つめていた。
* * *
2月28日(水)
記入者:升野亮次
2階のフロア清掃作業中、
わたしの前方不注意が引き起こしたことに違いないが、自分でも、なぜあの物体に気がつかなかったのか不思議である。前を見て運転していれば、それは必ず視界に入っていたはずだった。だが、
先日の件もあり、気がそぞろになっていたのは否定できない。ただでさえ、フロア洗浄作業のほとんどの時間、作業者はハンドルを握っているだけでぼうっとしてしまいがちなのである。
わたしがあの時考えていたのは、やはりワニのことだった。もっと具体的にいえば、ワニの分類法について……すなわち、ガビアル上科、クロコダイル上科、アリゲーター上科の三つについてである。
ところで、この文章を書いている今、蛇の分類についても気になってきた。
かつてわたしの前に姿を現した、あの黒い蛇は、一体何という蛇だったのか。
憶えている特徴といえば、その黒々とした鱗だけだか、図鑑を開けば突きとめることができるだろうか。
そして、自動洗浄機のタイヤに絡みついていた、あの黒い生き物は……。
いや、それを考えるのはよそう。あれは、ただのゴミだった。あれが黒い蛇に見えたのは、わたしの過去が生み出した幻影に違いない。
この指は、手袋ごしに触れたあの柔らかい感触を憶えている。それは間違いないことだが、きっとそれすらも、わたしの中だけで起こった錯覚なのだ。
ある清掃員の備忘録 久良木 景 @k_kuraki
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