ある清掃員の備忘録

久良木 景

2月25日(日)

 ある新人バイトの口から発せられた信じがたい証言……。

 わたしの頭にまず浮かんだのは、ふたつの選択肢だった。つまり、彼の頭がどうにかしてしまったのか、あるいはわたしをからかっているのか、そのどちらかだ。

「いや、信じられないとは思いますけど、これマジなんすよ升野さん」

 芝原は、わたしの猜疑に満ちた目に抗弁するかのように声をあげた。

「いたんですって、でっかいワニが。通路をのしのし歩いてたんです。俺、たしかに見たんすよ」

 閉店後のスーパーに? そんなわけがない……そんなわけがないのだが、返答に困ったわたしは「ワニって、あの爬虫類の?」などと、間の抜けたことを彼に訊ねた。

「爬虫類かどうかは知らないすけど、それです。クロコダイルっす」

「クロコダイルだったの?」

「いや、知らんすけど。とにかくでけぇワニでした。つーかクロコってワニじゃないんすか」

「いや、イコールではないと思うけど。しかしまいったな……」

 わたしは天井を見つめ、ふぅーっと息を吐いた。

 こいつ、クスリでもやっているのか? 第一印象からして軽薄そうだと思ってはいたが、そこまでのダメ人間だったとは。

 問題は、こういう何をしでかすかわからない人間への対処法が仕事のマニュアルには載っていないということ、そして、この男の面接を担当して、採用を決めたのは自分自身であり、その責任の大部分をわたしが担っているということだ。

 わたしは頭を掻いて再度ため息をつき、芝原の顔を見た。

「で……今日の作業はどこまでやったんだ?」

「は? いやだから、ワニがいて……」

「それはわかったよ。だから作業ができなかったって話だろ? 残りは俺がやっておくから、今日はもうお前、あがっていいよ」

 芝原はぽかんとしてわたしの目を見つめた。

「いやいや……それどころじゃないでしょ。警察っすよ。いや保健所? 動物園? とにかく人を呼ばないと」

 芝原ははっと何かに気がついたように、目を見ひらいた。

「もしかして升野さん、俺のこと信じてくれてないんすか?」

「うーん、まあ……普通に考えてあり得ないだろ」

「だから……そのあり得ないことが起こったから、こうやって報告しにきたんじゃないっすか。そりゃあ俺だって、自分が突拍子もないことを言ってるって自覚はありますよ。でも本当に見たんです。信じられないなら一緒に見に来てくださいよ」

 面倒なことになった。芝原の言う通り、警察を呼んだ方がいいのかもしれない。だが連行されるのはワニではなく芝原本人だ。血液検査か尿検査かしらないが、すぐさま調べてもらった方がいい。

 だがともかく、作業を終えるのが先だ。

 わたしは左腕にまいたG-SHOCKに目を落とした。PM9:45。マルショーマートは9時に閉店し、そこから清掃作業が始まる。11時までにはすべての作業を終えて店から出なければならない。ゆえに、作業中にこうやってのんびりと話をしている暇などないのだ。

「わかったから、ちょっと待ってろ」

 わたしは自分の担当業務をきりのいい所まで終わらせると、怯えた様子の芝原をj引き連れて3階へと向かった。動きを止めたエスカレーターをのぼり、ひとつ上のフロアへ上がる。

 エスカレーターは動くものだという刷り込みのおかげだろうか、閉店後にエスカレーターをのぼるとき、足どりが重く感じられるのだ。その奇妙な感覚を味わいながら、ねばつく手すりを掴み、足元を確かめるように上階へとのぼっていく。

「そういえばお前、自動洗浄機スウィンゴはどうしたんだ?」

 振り返って芝原に訊ねた。

「3階に置きっぱなしです。フードコートの手前あたりに……」

 芝原はぼそりと答えた。

 自動洗浄機スウィンゴというのは床を洗浄する機械のことだ。人間がハンドルを握り、カートのように操作する。下部から洗浄液を出し、回転するパッドで床を擦り、汚水をホースで吸いあげる。

 それを3階から1階の売り場通路を走らせ、通路を清掃しなければならないのだが、時刻はすでに10時を過ぎようとしている。だが、いまだ3階の作業すら終わっていないというのだ。

「仕方ない、今日はもう間に合わないだろうから、2階はとばそう。一日くらいどうってことないだろう。だが1階はダメだ。食品売り場周辺は客足も多くて特に汚れやすいからな。さっさと3階の残りを終わらせて1階に降りよう」

 わたしがそういうと、芝原はなにか言いたげな表情を浮かべたが、結局口をつぐんだ。

 やれやれ、とわたしは思った。わたしにだってわたしの仕事が残っているのだ。自分の持ち場に戻りたいところだが、芝原をなだめすかして仕事をさせるよりも、自分が彼の作業を引き継いだ方がいいだろう。

 やはり、人出が足りないからといって誰でも彼でも採用すべきではなかったか、などと考えながら、わたしはフードコートの方面へと向かった。


 通路以外の照明は落とされ、薄暗がりの広がるフロアを歩いていくと、芝原の言う通り、自動洗浄機スウィンゴは3階フードコート前の通路に放置されていた。

その近くに人影があった。

「あれ? 升野さん……と、芝原くん?」

 洗剤のスプレーと拭き掃除用のタオルを持った野上さんがそこに立っていた。すでに4階と5階のエレベーターホールの清掃を終えて、フードコートの清掃に取りかかっていたらしい。

「何かあったんですか? わたし、今からここの作業を始めようと思ったんですけど、自動洗浄機スウィンゴが通路に置きっぱなしで、芝原くんの姿もないし、一体どうしたのかなと……」

「ああ、そのことなんだけど、野上さん……」

 ワニを見なかったか? などと訊くわけにもいくまい。

「何かおかしなことはなかった? 芝原がこの辺りで変なものを見たっていうんだけど」

 そう訊ねると、野上さんは「変なものって何ですか?」と首を傾げた。

わたしは背後でもじもじしている芝原を見た。芝原はしぶしぶといった風に、小声で呟くように言った。

「その、見間違いかもなんすけど……その、ワニがこの辺を歩いてて……」

「え? ワニ……ですか?」 

 野上さんはきょとんとした顔で、芝原とわたしの顔を交互に見つめた。なにをいっているのかわからないといった表情だ。当然の反応だろう。

「おい、なんでそんなに自信なさげなんだ。さっきはたしかに見た、絶対見たって俺に訴えてたじゃないか」

「だって、升野さんがいろいろ言うから自信なくなってきて……本当にただの気のせいだったのかもしれないっす。冷静に考えたら、こんな所にワニなんている訳ないし……」

「はあ? お前なにを今さら……」

 すっかり威勢を失った芝原と言い合っていると、まるで授業中に発言の許可を求める生徒のように、野上さんがタオルを持った手を挙げて言った。

「その……ワニって、あののことですか?」

「そ、そうっす。あのワニです。クロコダイル。四つ足ででっかい口の、爬虫類の……」

「あ、いえ、そうではなくてですね、あの……」

 芝原の言葉を遮るように、野上は挙げた右手をゆっくりと下ろし、わたしたちの背後をぴたりと指した。

「芝原さんがおっしゃっているのは、のことですか?」

 芝原は間の抜けた表情で、わたしの顔を見た。もしかするとわたしも同じような顔をしていたかもしれない。わたしたちは一瞬顔を見合わせた後、ゆっくりと後ろを振り向いた。

 その時、フロアに響きわたるほどの大声をあげてしまったのは致し方ないことだったと弁明しておきたいところだが、そのことはさておき、通路の向こう側に大きな影が蠢いているのを、わたしたちはたしかに目撃したのだ。

 売り場に掛かったネットカーテンの間を、大きな生き物がのっそりとした足どりで這ってゆく。

 その体長は、尾の先まで含めると5メートルはあろうかという大きさだった。まるで図鑑かドキュメンタリー映像から飛び出してきたような、まさにわたしたちが想像する通りの「ワニ」という生物がそこにいた。

 ワニはこちらを見向きもせず、フロア中央の吹き抜けの方へ向かって這い進む。わたしたちにできることは、それが視界から消え去るまでただ呆然と見守ることだけだった。

 わたしたちが唖然として、その場に立ち尽くしていた。時間にすると数十秒ほどの出来事だったに違いないが、まるで時間が止まったかのような感覚を覚えた。

 そしていつの間にか、ワニはそのまま曲がり角の向こう側へと姿を消していた。

「ほ……ほら、俺が見たのはアレですよ! やっぱり見間違いじゃなかった!」

 芝原は興奮したように、わたしの肩を揺すった。それがきっかけとなり、わたしは磔のような状態から戻った。芝原の腕を振りほどき、ワニの行方を追って通路を走り抜けた。

 あのゆっくりとした速度なら、簡単に追いつくことができるだろう。

 だが……追いついて、どうする?

 自分が何をしようとしているかもわからないまま、わたしは角を曲がった。

 そこにワニの姿はなかった。

 わたしの視界の外側で、ワニは忽然と姿を消したのだ。毛ほどの気配も残さずに、ふっつりと。

 ぽかんとして立ち尽くすわたしの方へ、芝原と野上さんが駆けてくる。

「升野さん、あのワニは……?」

 わたしは首を振り、ただ一言、こう告げることしかできなかった。

「消えちゃったよ、まるで煙みたいだ」


* * *


2月25日(日)

記入者:升野亮次


 諸事情により、2階のフロア洗浄を行わず。明日の開店前作業のスタッフに、目立つ汚れがないか軽く確認をしてもらうように連絡を入れることに。


 結局、あれはなんだったのか。

 世の中のあらゆることがそうであるように、説明をつけようと思えばどうとでもできる。気のせい、思い込み、見間違い、夢、集団幻覚……。

 だが、そんな説明が何になるのか? 異常な現象に好き勝手ラベルを貼り付けたところで、それが異常であることに変わりはない。

 だが、こうも考えられる。幻影はしょせん幻影に過ぎず、現実には干渉できない。要は気にしなければよいのだ。わたしたちの目の前に現れたのはワニの幻影であり、本物のワニではない。店を荒らしたり、人を喰ったりもしないのだ。

 きっと自動洗浄機スウィンゴで正面からぶつかったとしても、あっさり通り抜けてしまうだろう。あるいは、衝突の直前で忽然と消失してしまうのかもしれない。

 とにかく、わたしと共にあれを目撃した芝原と野上さんには、「あれは幻影だった」ということで納得してもらった。

 無論、そんな一言で片付けられる問題でないことは百も承知だが……実際、わたしたちの目の前から消えてしまったのだからそういうことにしておく他ないだろう。そして、もう二度とあれが出てこないことを祈るほかない。

 だがもし、またワニが出てきたら? それは、その時に考えることだ。

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