39 回想

「……茶々」

 治長は遠慮なく茶々を抱きすくめた。

 それは愛し合うようでもあり、いや、実際これまで何度も愛し合ってきたのであろう。

「茶々、もうそなたは助からない。というか、おぬしはもう、太閤殿下に欲されたその時から」

 死ぬつもりだったのであろう。

 言外の問いに、こくりとうなずく茶々。

 わがものにならなければ、妹たちの命はないと脅されたという。

 茶々は、浅井長政や柴田勝家という「父」たちを喪い、二度も城から落ち延び、自分たちはもう、捨てられたも同然だと思っていた。

 どうせ生きるのなら、幼い日から共にいてくれた治長と一緒になって、それで「余生」を過ごそうと考えていた。

「そなたをものにすれば、豊臣家は──天下は安泰じゃ」

 秀吉には秀吉の理屈があったのであろう。

 へたに茶々ら三姉妹を誰かに嫁がせて、その誰かが織田や浅井や柴田などと言い出した日には、天下に乱が生じるやもしれぬ。

 そして茶々は天下一の美貌の持ち主。これを手に入れるだけでも、天下一である証となりうる。

「しかたない」

 茶々は諦めた。

 乱世の、大名の家の娘だ。

 そういう覚悟はあった。

 これも運命だと思った。

 せめて、二人の妹には、手を出さないで欲しいと願った。



 こうして茶々は秀吉に輿入れした。

 下にも置かれぬ扱いで、当時、秀吉の正室だった高台院(ねね)は、身を引いて正室の座を譲った。

 床入りも、したくなければよいと言われた。

 秀吉はもう、子どものことを諦めていたし、そういう相手をする女なら、ごまんといる。

 しかし、それでは何か公平ではないと感じたし、のちのち、それを理由に妹たちに手を出されたり害されたりしても困るので、することはした。

いのう」

 秀吉は高齢だったので、それは実に優しくおこなわれた。

 こういうものか、と茶々が思っていたら。

「子ができただと?」

 秀吉がまずおこなったことは、茶々の周りの男たちの抹殺である。

 彼は何より、自分のものを取られることを嫌った。

 何もないところから、成り上がったゆえに。

「どうやら本当にわが子らしい」

 かなり失礼な言葉だったが、茶々にとってはどうでもよかった。

 どうせ子は乳母めのとが世話をし、傅役もりやくがつけられる。

 茶々がすることは、「母でいること」だけだ。

「死んでしまった」

 最初の子、すてが死んで、初めて泣いた。

 ああ、本当にわが子だったんだと、その時感じた。

 もし、次に子を得たら、死なすまいと思った。

 たとえ、この命に代えても。

 それは妹のごうの子・完子さだこを養子とした時も強く思い、そして――。

ひろいと名づけよう」

 秀頼が生まれた。



「……秀次どのには、秀頼、そなたが大きくなるまでは、豊臣家を家督してもらい、その後は長老となって支えてもらうという話でした」

 治長の腕の中で、茶々はそう言った。

 秀頼は呆然として、それを聞いていた。

 そして、自分は何だったんだろう――と思った。

 誤解して。

 曲解して。

 暴走して。

 そして自滅する。

 母を巻き込んで。

 妻に嫌われて。

「余は……余は……」

「生きたいのでしょう」

 治長の言葉が、秀頼を撃った。

 それはまるで、つぶてのようであり、鞭のようでも、あった。

 そうだ。

 そうなのだ。

 いくさになって、とみに思う。

 やはり、死ぬのは怖い。

 生きたい。

 生きていたい。

「だが……」

「かなえて差し上げましょう」

「え」

 秀頼は狼狽うろたえる。

 治長はそんな秀頼を、慈愛に満ちた眼差しで見ていた。

 まるで――父のように。

「秀頼ぎみ、貴方がそう思っていたのは、わかっておりました」

 治長は、ずっと秀頼を見ていた。

 だから、秀頼が自棄やけになっていても、その根底には「生きたい」という思いがあることを見通していた。

「なぜ、そこまでわかる。見通せる」

「それは」

修理しゅりが、わらわのことを、ずっと見ていたからじゃ」

 茶々はもはや隠そうともしなかった。

 治長への気持ちを。

 たとえ秀吉のものになろうとも、そばにいつづけることを選んだ、男への気持ちを。

 ゆえに、彼の気持ちも、理解していた。

「だからここまで付き合ってくれた。だから秀頼、そなたを生かし、わらわの願いをかなえることが……できたのじゃな」

然様さよう

 堅い言い回しは、治長の最後の奉公としての気持ちであろう。

「では、良いな、修理」

「ああ」

 ここで真田左衛門佐信繁さなださえもんのすけのぶしげが立ち上がった。

 彼は優しく奈阿姫をなほから引き離した。

「おひいさま、お許しくださいませ」

 奈阿姫が不得要領な表情をしていると、なほは、おのれの顔を引きはがし始めた。

「えっ」

 驚く奈阿姫の前で、なほは――なほだった者は、その秀麗な顔を露わにした。

 その者は男で、すらりとした長身をしていた。

「才蔵、大儀」

「恐悦至極にござりまする」

 才蔵は一礼すると、奈阿姫の方に向き直り、両手で印を組み、一言二言、何かを唱えた。

 奈阿姫はくらりと倒れ――眠りについた。

「では次は、秀頼ぎみを」

「は」

 才蔵が立ち上がって、秀頼を見る。

 吸い込まれそうな目を見ていると、たしかにくらりと来そうだ。

「い、いったい何を」

 それでも秀頼は抵抗した。

 このまま眠らされて、どうするのだ。どうなるのだ。

「秀頼ぎみ、落ちのびられませ」

「しゅ、修理しゅり

 治長がいつの間にか秀頼の隣にまで来ていた。

「そのための手はずは整えてございます。左衛門佐なら、徳川の陣をかいくぐって、奈阿姫さまや、秀頼ぎみがすことができましょう」

「別々にがすがな。固まっては、一網打尽のおそれがある」

 いつの間にか信繁の周りには、才蔵を含めて十人ほどの男が立っていた。

 信繁はその中で、ましらのような体躯の男に問いただす。

「佐助。間道の方は」

修理しゅりどのに教えられたとおりでした。使えます」

「よし」

 その言葉を合図に、才蔵は両手で印を組んだ。

「ま、待て」

 秀頼は手を振る。

 これは、眠らされる奴だ。

 このままでは、眠らされて、目が覚めた瞬間には。

「は、母上。母上はどうなさるのじゃ」

「秀頼」

 茶々は治長に身を寄せながら言った。

「母は、死にます」

 そうであろう、と茶々がつぶやくと、治長はうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る