38 もう助からない
──みんな、狂ってる。
そう言い残して、千姫は行った。
徳川の陣へ。
当然ながら、彼女は嫁入りの際に連れて来た侍女たちをすべて同行させた。
彼女たちは千姫の護衛であり徳川の間諜でもある。
一緒に連れて行けば、先ほどの
茶々は硬直している。
秀頼は先ほどから、ずっと下を向いている。
「……ここまではいい。だがこれからだ」
治長は隣の
「これから、ここからだ。ここから先に、おれのやりたいことがある」
「……そのために、おれはここに来た。やれ、
治長はうなずき、やおら立ち上がって、茶々のそばに寄り。
その肩を抱きしめた。
「茶々」
「……
その優しく抱きしめる様は、恋人同士のようであり、長年連れ添った夫婦のようでもあった。
優しさに
そして言った。
「なぜじゃ、なぜあんな根も葉もないことを」
「根も葉もないこと」
秀頼が顔を上げた。
今の茶々は極限状態だ。
言うことに嘘はないのではないか。
そういえば、先ほどの激昂も、「真実を言い当てられた」からではなく、衷心からのものではないのだろうか。
「で、でも、だとしたら、なぜ、なぜ瑞龍院さまは。日秀さまは、あのようなことを」
瑞龍院日秀と名乗る、秀吉の姉・ともは、その子・秀次こそ秀頼の父であると言った。
豊臣家の前身、木下家のかつての子を得るための方策と共に。
「瑞龍院さまか」
泣き終えた茶々は、冷静さを取り戻したのか、目じりをこすりながら、沈鬱な表情をした。
「瑞龍院さまは……秀勝さま、秀保さま、秀次さまと、産んだ子を、豊臣の子をすべて
まるで、夢を見ているようなことを言い出すようになったという。
特に、秀次のことについての、夢を。
「夢を、見ている……」
秀頼は惚けたような表情をした。
そういえば、日秀が語った、秀次と茶々のこと。
あれは、ただ単に、そういう夢を見ていたのでは――。
「治兵衛(秀次のこと)が治兵衛がと、あることないこと語り出し、それによって殿下も振り回され……」
何しろ、相手は天下人・豊臣秀吉の実姉だ。誰もが文句を言えぬ。制止もできぬ。
「そういうわけで、殿下は瑞龍院さまを離すことにされた」
息子たちが死に、実弟から距離を置かれ、日秀はさらに心を壊す。
そのため、高台院(秀吉の妻、ねね)をも敵視し、当初は京で高台院と同居することも考えられていたが、拒否したという。
以来、高台院とも大坂とも没交渉となった瑞龍院日秀は、おのが脳内で、秀吉が子どもたちを殺したのだという怨念を育て上げた。
そこへ
「つまりは……そういうことなのでしょう」
茶々は、「秀頼の出生の秘密」に、瑞龍院日秀が乗っかったのだと判じた。
なるほど、木下家において、弥右衛門と竹阿弥がそのようなことをしたのかもしれない。
でも、それを反証できる者は、もう豊臣家にはいない。
大政所(秀吉の母)も秀長(秀吉の弟)も、朝日姫(秀吉の妹)も、みんな死んでしまった。
生き残った日秀がこうと言い張ったらそれまでだ。
そしてそれこそが、日秀の、秀吉への復讐なのであろう。
「思えば……秀頼、そなたが完子の
完子の乳母は、完子の嫁入り前夜の宴の直後に死んだ。
誰もいない一室で悶死していたので、自決ということで処理されたが、秀頼はずっと不審に思っていた。
茶々は秀頼の乳母への思慕を知っていたので、問われたなら答えることにしていた――太閤と関白を言い間違えた乳母をたしなめ、乳母が激昂し、そのまま死んでしまったことを。
「それを、乳母と秀次どののことと、
乳母が感情的になったのは事実だが、それは酒が入っていたことと、長年世話して来た完子の嫁入りという折りということが原因であろう。
乳母の死んだとされた子が、実は四辻与津子であって、生きていたことは初耳だが、それは乳母の死に何ら影響していない。
「そして……
茶々はため息をついた。
秀吉という男は、何を考えているかわからないところがあった。
そういうことを思いついて、実行してもおかしくないだけの男だった。
「……じゃがの、秀頼、太閤殿下は……そなたの父は、横取りするのは好きじゃが、横取りされるのは、大のお嫌い」
たとえば秀吉は、文禄の役、慶長の役で出陣中の大名の妻女に手をつけるのを好んでいた。
一方で茶々が懐妊した時に、「自分の
その時、大野治長は秀吉の馬廻り衆として近侍していたため、疑いを免れたが。
「そんな太閤殿下が、
「…………」
秀頼は、わっと泣き出した。
何ということを、してしまったのだろう。
そもそもの「出生の秘密」の誤解の時点で、まず茶々に聞くべきであった。
いかなる内容であるとはいえ、まずは茶々に聞けば、子である秀頼には、それが嘘かどうかわかったはずなのに。
それを。
それを。
「余は……取り返しのつかないことを」
出生の秘密に
いじった結果が、この大坂の陣だ。
誤解した秀頼が招いた、破滅だ。
「いえ、秀頼
ここで方広寺鐘銘事件が
そう確信できるだけの憎悪を、治長は家康から感じた。
そして。
「秀忠に至っては、茶々どのをわがものにせんと目論んでおります」
「なっ」
二代将軍・秀忠は、正室が茶々の妹・
ところがそんなことはなく、伏見で治長が聞いてしまったとおり、秀忠は秀忠で邪欲に狂っていた。
「……仮にその秀忠の思惑通りに行かなかったとしても、わが妹の江が、その妬心で
茶々は長年姉妹だったことから、江の心根を見抜いていた。
江は、末妹だったことからその劣等心を養い、いつかは一番になろうと企んでいる……そんな妹だった。
「何かにつけ、
それが今や、天下人の──征夷大将軍の
だというのに、秀忠が茶々にうつつを抜かすなどという事態になったら、その土台が崩れる。
であれば、江は遠慮なく茶々を処断するだろう。
「……つまり妾はもう助からない」
「……茶々」
治長は茶々のもう片方の肩にも手を置いて、抱きすくめた。
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