35 終わりのはじまり

「……見つけたぞ、前征夷大将軍さきのせいいたいしょうぐん、徳川家康!」

 真田左衛門佐信繁さなださえもんのすけのぶしげ、後世から「真田幸村」として知られる男は、その名を残す、神業を見せた。

 すなわち、天下人である家康に対し、深甚なる突撃を繰り広げたことである。

「御覚悟!」

「誰か覚悟などするか!」

 家康にも意地がある。

 これまで――幼少の頃より、三河の土豪の子として生まれ、人質とされ、従った今川義元をうしない、ようやくにして自立したと思ったら、嫡子を殺され、それでも海道を制し、本能寺の変という奇禍に乗じて甲信を抑えたが、さらに羽柴秀吉という異能に押されてと、苦労を重ねて来た。

「やっと、やっとだ。秀吉サルめが死んで、豊臣の子を殺す時が来た、それを」

 家康は刀を抜いた。

「おぬしのような、一介の端武者はむしゃに、たかが牢人ごときに、邪魔立てさせるか!」

 信繁はもとより抜刀している。

 交差する刃と刃。

 回転し、再び交差し、そのまま鍔迫つばぜり合いに。

 散る火花を眉庇まびさしで受け、そのまま押し合い、にらみ合う。

「殺す。殺す。豊臣の子は殺す! この家康を膝下しっかに従えた秀吉サルめの子など、殺してくれる!」

 先に決めた完子さだこへの処遇など、もはや忘れた。

 こうなったら豊臣の子は根絶やしにしてやる。

 家康の眼光が、狂気に染まっていく。

 馬廻りの者や、お付きの侍僧らがはようおげをとうながす。

「……その怒気、覇者としてのものではないな」

 信繁はひとりごちた。

 殺すなどと口走る。

 それはもはや、天下取りの英雄――覇者としての気概ではなく、ただ単に復讐がしたいだけの、老人の妄執のなせるわざだ。

「笑止。もはやわが天下は定まった。道は極まったわ。であれば……因果には、応報せねばなるまいて。このワシがのう」

 七十四歳にしては若々しい振る舞いをしていた家康が、徐々に老いて、その口ぶりも、老人のそれになりつつある。

 徳川家康という男は、長年、忍耐をしてきた男だ。

 嫡男に切腹を命じられた時も、耐えて来た。

 秀吉に平伏する時も、耐えて来た。

 ある意味、忍耐を糧にして、先へ先へと進んでいく――生きていく男で、そんな男から、忍耐を取り上げたら――その必要がないと思わせたら、どうなるであろうか。

 その結果が、信繁の目の前の老醜である。

 実際、家康はこの大坂夏の陣のあと、二年と待たずに死んでいく。

 行く手を阻むものがあってこそ、それがある限りは耐えていこうと、生きていく。

 それが、徳川家康という男だった。

「……であれば、この真田左衛門佐信繁の行く道も決まった」

 信繁の刀が、家康のそれを押す。

 家康は唾を飛ばして押し返すが、信繁はびくともしない。

「どうした前征夷大将軍さきのせいいたいしょうぐん

 信繁はせせら笑った。

げてもいいんだぞ」

「貴様!」

 皺だらけの顔を歪ませる家康。

 だが背後から、侍僧の文殊院勢誉もんじゅいんせいよがおげをおげをと引っ張ってくる。

「何をする!」

 勢誉だけではない。

 旗奉行や旗本の侍たちも、一斉に家康を信繁から引きはがし、そのまま後方へと連れて行った。

「ぶざまよな、前征夷大将軍さきのせいいたいしょうぐん

 信繁は刀を納めた。

「そうやって、どこまでもげていくがいい。それこそがおれの……いや、豊臣の手柄。前征夷大将軍さきのせいいたいしょうぐん、覚えたか!」

「おのれ! おのれ……」

 家康は憤ったが、さすがに自分より何十歳も若い旗本たちを相手に、押し返すことなど、できはしない。

 信繁は家康がそうやって遠ざかっていき、次第に米粒のような点になるまで見ていたが、やがて馬首を返した。

 あとに残された戦場には、誰一人いない。



 はしる。

 はしる。

 信繁ははしる。

 すでに越前藩・松平忠直が大坂城に躍りかかっている。

「急ごう」

 信繁は甲冑を捨てた。

 兜も捨てた。

 身軽にして、少しでも早く。

 鞭をくれようとすると、西尾仁左衛門なる越前藩士が襲いかかってきたが、かわした。

 愛馬が仁左衛門の顔面に蹴りを入れたおかげで、それ以上、かかずらわずに済んだ。

 あとで聞いた話で、仁左衛門が信繁を討ち取ったということになっていたが、それは蹴られて吹っ飛んで行った仁左衛門が、ちょうど信繁の兜のところまで転がっていったので、そういうことなのだろう。

「今は城に着くこと。秀頼ぎみと……茶々どのはどうしているか」

 きっと、大野修理治長おおのしゅりはるながが護持しているはずだ。

 あれはああいう男だ。

「そして修理よ……やはりお前の言うとおりであった。家康は、駄目だ」

 何も信繁は、死に花を咲かせようとして力戦奮闘していたのではない。

 豊臣家としての武を見せつけ、気概を知らしめて、もって、豊臣家を生き延びさせようと考えていた。

 すなわち、徳川に豊臣の意地を見せつけ、それをほろぼさずに生かすことこそ、天下人としての――英雄としての大度量ではないかと、思わせようとした。

 だが家康は妄執にりつかれていた。

「この上は修理よ、お前のやりたいことに――策に乗ろうではないか。そして冥府魔道に堕ちるとも、それが太閤殿下に報いる道であり……何より、秀頼ぎみ御為おんためだ」

 信繁ははしる。

 城に向かって。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る