32 夏の陣へ
……豊臣と徳川の和睦は粛々と進み、豊臣秀頼が気づいた頃には、徳川はすでに引き上げていた。
「これは、何としたことじゃ」
あの秀吉が作り上げた豊臣家など、かならず
情けないにもほどがある。
「も、もう一度、いくさを」
そう声を上げたが、誰にも受け止められることはなかった。
母である茶々ですら、笑殺した。
「秀頼
あれよあれよという間に、もはやいくさができないくらい、大坂城は裸にされていく。
たとえば、総堀を埋めるという約束だったが、総堀すなわち外堀だけでなく内堀まで埋められた。
話がちがうではないかと秀頼が抗議すると、総堀とは総ての堀を埋めるということであると返された。
「このような大仰な城にいるから、みんなおかしくなるのです」
茶々はそう言い切り、集めた牢人たちも、大坂から出すよう命じた。
この頃には
牢人である
「されど何もせぬわけにはいかぬな」
信繁は、妻子の主だった者を残し、ある程度は大坂から引き払わせた。
具体的には小野お通が受け入れ、そこから大半を信繁の兄・信之の
「
これは真田屋敷をわざわざ訪ねて来た秀頼の娘・奈阿姫の言葉で、八歳の彼女は、信繁の十歳の娘・
「ここにおりまする」
奈阿姫が信繁の背後に、
「いたいた」
二人は嬉しそうに、信繁の周りをきゃっきゃと走り、追いかけっこを始めた。
信繁はそれを見て、やはり嬉しそうに笑った。
*
事の発端は、その大坂から出ていくよう求められた牢人たちに始まるとされる。
彼らは、徳川と豊臣の和睦において、「城中諸士につき、不問と処す」とされているため、徳川から罰せられることはなかったが、さすがにいくさがなくなれば、用なしとなることはわかっていた。
「左衛門佐のような名のある者はまだいい。だが、われらは、どうするのだ」
小幡勘兵衛という者が、そのようなことを言い出して、他の牢人を煽ったといわれるが、実はこの男、徳川からの間者で、のちに幕府から一五〇〇石の扶持されており、また、甲州流軍学を興した人物として知られる。
その勘兵衛に煽られた者たちは、堀を勝手に掘り返し、また、大坂や京の町で放火や乱暴、狼藉をするようになった。
「徳川め、来るなら来てみろ」
「われら
大坂の陣が始まってから雇われた牢人ほど、よくそう言って吠えた。
この動きを予期していたのか、徳川秀忠は江戸に戻らず、まだ京・伏見城にいた。
「ふん、牢人どもが。思うたよりも早く、こちらの思惑通りに、動くとはのう」
冬の陣の和睦を受けて、家康はさっさと駿府に戻っていたのだが、秀忠はこれを理由に、江戸に戻らなかった。
家康は特に反対しなかったが、賛意も示さなかった。
勝手にすればよかろう、ということらしい。
秀忠としては、好都合で、彼は
「江め、余を
言われるまでもなく、豊臣家は
そうなれば、誰に言われるまでもなく、茶々は人質なり降将なり、いや、そういう名目はなんでも良いが、自家薬籠中の物にできるだろう。
「江が文句を言おうが、大坂の陣が終わってしまえば、この秀忠は凱旋将軍だ。手に入れた茶々をどうしようが、余の自由。そのような文句、撥ね返してくれる。くっくっく……」
ほくそ笑む秀忠。
父・家康がいないことをいいことに、彼はやりたい放題だった。
たとえば、和睦中だというのに、国友の鍛冶衆に大砲の鋳造を命じていた。
牢人どもの言動はまだ、勝手な暴動と言えたが、秀忠のこれは明らかに、将による組織的ないくさの支度であり、約定違反といえた。
しかし秀忠は意に介さない。
彼にとっては、豊臣の滅亡は既定のことであり、今、気にすることと言えば、さすがに一旦は江戸に戻らないと、豊臣征伐の起点が伏見では格好がつかぬということだった。
「江がうるさく言う前に、すぐにまた大坂へ征く機を狙う。その方が、いかにもいくさを先に考え、妻子は二の次という、武人らしい印象を与えるしのう」
関ヶ原での遅滞は、今でも秀忠にそういうことを気にする人間にさせていた。
ゆえに、伏見城に
「いくさの備えは、武家の務め。公家の豊臣家は引っ込んでろ」
と応じた。
治長が無表情のまま退出するのを見届けると、秀忠はそろそろ頃合いかと判じた。
「またあやつめが、したり顔で
それにしてもまた江の顔を見るのが厭で、秀忠は伏見城で見つくろった侍女に、今宵の夜伽を命じようと、城主の間を出た。
誰か侍臣にそれをやらせても良かったが、またぞろ江にそれを感づかれても面倒なので、自分で言いに行くことにした。
こうつぶやきながら。
「あと少し、あと少しぞ。あと少しで茶々が抱ける。それまでの辛抱じゃ。とりあえずは今宵は茶々似のあの侍女を
それは誰にも聞こえないと思ったからこそのひとりごとだったが、実は聞いている者がいた。
その者は、やはり無表情でうなずき、そして去っていった。
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