31 休戦

「江戸にて、実母ははに会います」

 九条忠栄ただひでの正室、完子さだこは決意を秘めた目を見せた。

 忠栄はその決意を首肯した。

 今、徳川家の首脳陣――徳川家康と徳川秀忠らは、大坂に貼りついて、そして誰からのとりなしも受けようとしない。

 であれば、搦手からめてである、江戸の御台所みだいどころ――ごうを頼るべきではないか、と。

「しかし御台所さまは、先の書状のとおり、九条家こちらから、豊臣との和睦を、というようなふみを寄越すな、としている」

「承知の上です」

 完子にはある確信があった。

「おそらく実母は――義母茶々を、妬んでいます」

「……妬み?」

「はい、小さい頃から姉として仰ぐ相手で、長じては天下人の愛妾となった義母ははを。そして今、御台所となった実母ははは、もうその妬みがあったことすらなかったことにしたい。だから――」

 茶々とつながる存在である完子から、その茶々の豊臣家との関係についての書状を拒否した。

 そこから完子は、江に何か屈託があるのではないかと検討をつけた。

 それで。

「大体、四辻与津子の件で、豊臣家の言質を取れなどと言ってくるところから、何かおかしかったのです」

 その面会こそうまくいったものの、そもそも、京を離れられない九条忠栄にそのような無理難題を言って、何が得られるのか。

 それは、忠栄と完子の、豊臣家との関係の煩わしさを感じさせることにあると、完子は見た。

「……そうではないかもしれませんが、いずれにせよ、江戸の実母ははなれば、『いくさで忙しい』と会わないようには、できますまい」

 何しろ、相手は養女に出したとはいえ、実子である。

 これに対して、あだやおろそかにはできない。

 ましてや、「会いたい」と言っているのを、会わないで済ますのは、かなわないだろう。

「……なるほど、会うことはできよう」

 忠栄は完子の言いように、一理あることを認めた。

 しかし、会えたところでどうするかが問題だ。

 今さら、縷々るる豊臣家への同情を訴えたところで、どうにもならないであろう。

「そこで、忠栄さまが秀頼ぎみに聞いた、あれを話します」

「あれをか」

「はい」

 あれ。

 すなわち、豊臣秀頼が話した、おのれの出生の秘密。

 豊臣秀次こそが、秀頼の、血筋の上での「父親」であるという話である。

「……家康公は、太閤殿下、豊臣秀吉こそがにっくかたきと思っており、であるからこそ、殿下の子である秀頼ぎみを成敗すると思い決めています」

「そうか」

 秀吉の子である秀頼を殺す、ということならば。

 秀吉の子ではないと言えば。

「では、江戸へ行ってもらおう」

 忠栄は早速、筆を執って、京都所司代・板倉勝重あてに書状を書いた。

 今や、京の支配者は徳川である。

 であれば、京を出るにあたっては、徳川の許しが要る。


 ……こうして江戸へ発とうとした完子であるが、その旅路は始まる前に頓挫することになる。


 徳川と豊臣が和睦したのだ。



 きっかけは、徳川方の大砲によるという。

 昼夜問わず、間断ないその砲撃の中には、大坂城本丸に至るものもあった。

 そしてそれは、茶々の侍女たち八名の命を奪う。

「これが、いくさか」

 さすがに秀頼は怖気おぞけを震った。

 彼は、いくさが初めてであった。

「そう、これがいくさじゃ」

 一方の茶々は落ち着いたものだった。

 彼女は、浅井家の姫として生まれ、その浅井家が滅亡し落城の憂き目に遭い、次いで、柴田勝家に嫁いだ母・お市についていき、そこでまた羽柴秀吉という男に攻められ、命からがら城から落ちのびるという羽目を味わった。

 つまりは、負けいくさを二度も経験しており、その悲惨さもわきまえている。

「落ち着かれませ」

 城主の座でおびえる秀頼をなだめる茶々は、だがこれは好機だと思い至る。

 今なら。

 秀頼がいくさというものの一端を味わった今なら。

「和睦の道が、つくのやもしれぬ」

 茶々は早速、侍臣である大野修理治長おおのしゅりはるながを呼びつけ、徳川との交渉を命じた。

わらわがおびえた、とでもしておきなさい」

「……それで、よろしいのですか」

 治長は、茶々の気概を知っている。

 近江の雄・浅井長政と北の覇者・柴田勝家を父に持ち、何より、戦国最大の覇王・織田信長を伯父に持つという、茶々の気概を。

「もはや徳川には勝てん。それはわかっていたこと。問題は、秀頼ぎみがそれを理解していても、周りや自分の命が、どうなるかまではわかっていなかった……否、わかっていても、今こうして受け止められなかった、ということ」

「…………」

 やはりこの方は聡明だ。

 もしかしたら、秀頼ぎみがおのれの「出生の秘密」に気づいたことを、知っておられるのでは。

 そこまで考えて、治長は首を振った。

 それだけは。

 それだけは、この大野治長が、死力を尽くして阻止して来たことだ。

 乱行に興じるのは、若さゆえにあやまち。

 いくさにのめり込むのは、客気かっきのなせるわざ。

 そう茶々に朝な夕なに言い聞かせ、思い込ませてきた。

 だがこの女人にょにんは、何を考えているかわからないところがある。

 韜晦しているが、実はかなりの激情家ではないか。

 激情家だからこそ韜晦して、おのれ自身も誤魔化しているのでは。

「修理」

「は」

 どうやら思いに深入りし過ぎたようだ。

「大丈夫ですか?」

「……大丈夫です」

 今は徳川との和睦に動かねば。

 治長はおのれの「やりたいこと」に支障が生じるかもしれないということはわかっていたが、徳川との和睦を結ぶことに成功する。

 なぜなら、茶々がそう望んだのだから。


 ……そしてその交渉時に、たまさかに九条忠栄と会い、二人きりになる機会を得た時に、忠栄から完子のやろうとしたことを知り、慄然とした。

「そのようなこと、おやめくだされ」

「なにゆえ」

「秀頼ぎみと……何より、茶々どのの恥をさらす気か」

 常に無表情な治長が色をなして抗議する。

 その異常な雰囲気に呑まれ、忠栄は完子とともども、徳川の首脳陣の誰ひとりとして、それを言わないよう、約束させられた。

 

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