29 冬の陣
慶長十九年(1615年)冬。
徳川幕府は全国の大名に号令をかけ、総勢二十万とも呼ばれる兵力を集めた。
ただしそのすべてを同一地点に集結させるわけではなく、瀬田や大津といった京の周辺や、大坂の近くといった集合地点を設定し、徳川家康と秀忠は茶臼山に陣をかまえた。
一方で豊臣方は、やはり全国の大名に檄を飛ばしたが、大坂に味方する大名は誰一人としていなく、逆に牢人が続々と押し寄せて来て、その数、十万に達したといわれる。
「これではじり貧ではないか、出撃して一戦すべし」
「いやいや、この天下無双の大坂城に籠もって、敵の疲弊を待つべし」
「いつまで待つと言うのか」
「そちらこそ、一戦して負けたらどうする!? 籠城すらできぬぞ」
大坂の軍議は紛糾した。
そうこうするうちにも、徳川は一歩、また一歩と詰めてくる。
ことここに至った以上、徳川は──家康は、豊臣家をかならず
豊臣の子など、一瞬のうちに屠られるに、相違ない。
「だからこそ前へ出るのじゃ、野戦にて徳川を破れば……」
「その野戦を得意とするのが家康じゃぞ?」
「……だからといって、一戦もせぬうちに城に籠もるのは」
……結局のところ、秀吉の残した名城・大坂城に籠もる方に
これには茶々の秘書的立ち位置にいる
そして意外なことに、治長の朋友である
「……いかに年来の友とはいえ、いくさとなると、それはまた別。むしろ、正直かつ有用なことを述べたい」
「それでいい」
治長は友の言いようを認めた。
治長が信繁に城の来るよう頼んだ時、信繁は治長の「策」に賛同を示した。
ただし、それは「いくさ人」として全力で戦って、それからだと断りを入れた。
「
そう言って信繁は、ある出丸を築くことを求めた。
真田丸という出丸を。
*
豊臣家の方針は籠城に決まった。
やはり、天下の名城に
「いかに大軍とはいえ、それをいかに食わせるか。今さら略奪などできぬ」
そう治長が唱え、それには信繁も賛同を示した。
徳川家は天下を治める大将軍であることを証しているし、自負している。
それが公然と、あるいはこそこそと略奪していたら、
それは諸大名も同じこと。
彼らは、必死になって兵糧を調達し、必死になって徳川に参陣していた。
「だがそれも、それぞれの所領の領民から搾取したもの。やはり、長滞陣されると、それぞれの所領が悲鳴を上げる」
一方で大坂城には、各大名の蔵屋敷から接収した米がある。福島正則などは、むしろそれを黙認して、福島家の蔵屋敷は何ら抵抗を示さず、さっさと撤収したという。
「……しかしそうなると、徳川の攻めは苛烈なものとなる。兵糧が
「そこは頼んだ、左衛門佐」
「こいつ……」
完成した真田丸の巡検に来た大野修理治長は、真田左衛門佐信繁と、密談ならぬ密談をしていた。
櫓の上で二人きり。
下には、信繁が手塩にかけて育てた兵が、忍びが控えている。
「それでも忍びやくノ一を退けるには、限りがあるぞ。牢人どもの中にも、当然、徳川の手の者がいようし」
「承知の上だ。あれさえ守られればいい。秘せられればいい」
「……そこだけは、受け合おう」
信繁は入城すると、早速、大坂の防諜を任された。
難しいことではあるが、信繁は豊臣秀吉の馬廻りを務めており、ある意味、土地鑑がある。
そして何より、信繁は豊臣家御一門であり、実際、豊臣の姓を賜っている。
たとえ相手が茶々や、秀頼であっても、「お待ちあれ」と言える立場である。
「しかし秀頼
秀頼は出生の秘密を
そして日がな一日黙しており、仕方なく茶々が軍議の場で発言し、秀頼がそれに力なくうなずくという始末だった。
ただ、防諜の関係上、また御一門として信繁があれこれ聞くと、それについては受け答えしており、信繁はその言葉の
「……結局のところ、徳川の刃がその喉元に届くまで、城主の座に座っているつもりなんだろう。だが、千姫や側室、その子らには生きていてほしいのだろう……」
この頃の豊臣秀頼の家族は、千姫と、側室の和期の方と小石の方、そして和期の方の子・国松と、小石の方の子・奈阿姫だ。
この中で奈阿姫は、信繁の子・
……まるで姉妹のように。
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