28 開戦

 片桐且元は大野治長に蔵米や金銭のことを引き継ぎ、そして去って行った。

 なおこの際、治長はわざわざ且元に人質を預け、且元が無事大阪を退去し、安全圏に入るまでは返さなくて良いと告げた。

「……痛み入る」

 且元は良くても、家臣たちは不安だったため、この配慮に感謝し、のちに且元は治長のある願いを聞き入れている……。



 江戸。

 徳川秀忠は大坂からの返事を心待ちにしていた。

「今さら抗戦などありえぬ。茶々どのが江戸に来ればよいのだ」

 次点として、豊臣家の国替えで、その時は安房にすると決めていた。

 江戸から目と鼻の先の、安房へ。

「さすればこの秀忠が、おとのうても、それは自然で仕方ないこと」

 秀忠の胸が高鳴る。

 茶々をものにするのは、長年の夢だった。

 今こうして、徳川が天下を取り、秀忠は豊臣家を倒すのを、今か今かと待ち望んでいた。

 秀頼の乱行を知った時は、今こそと思ったが、父・家康の「待て」のひとことで踏みとどまる。

「そして待った甲斐があった……父上め、やりおる」

 実は秀忠は家康を尊敬こそしているものの、そのしつこさに辟易していた。

 たとえば関ヶ原の遅参を種に、「だからお前は駄目なのだ」と責めてくるところなど。

「ふん、自分こそ三方ヶ原で信玄坊主相手に漏らしたくせに」

 わざわざその時の自画像を描かせて残しているくせに、言えば怒り出す。

 最近秀忠は、家康の老耄を疑っている。

「繰り言が多いのは、その証かもしれぬな」

 そこまで言ったところで、江戸城城主の間に、入ってくる者がいた。

 ごうだ。

「わが君」

「何じゃ」

 この、茶々の妹というだけで、特に何も茶々と似ていない女が、秀忠は疎ましい。

 最初こそ茶々とそちらは似ているのではないかと思って相手していたが、数年前、他の女を抱いてから、やはりそんなことはないと思い始めたからだ。

「大坂に動きがあったそうです」

「そうか!」

 秀忠はこの時、何故幕臣たちでなく江が伝えに来たのかを、特に疑問に思わなかった。

 そんなことより、今は大坂だ、茶々だ。

「では早速、そうだな、茶々どのはそなたの姉君あねぎみであるがゆえに、江戸城内に豪勢な御殿を……」

「何を言っているのです」

 江は冷酷を超えて、酷薄な笑みを浮かべていた。

「大坂は、片桐且元を追放しました」

「何!」

 秀忠は立ち上がった。

 この場合、且元は徳川への豊臣の「返事」を持って来る役割を担っている。

 つまり豊臣は、徳川への返事など要らぬと、反故ほごにしたに等しい。

「そ、それでは」

「はい、いくさですね、大坂と」

 江の嬉しそうな顔に、腹が立つ。

 こやつは、逆立ちしても勝てぬ茶々に、徳川の力を使って、勝ったつもりなのか。

「……お互い様ではないですか」

「何?」

「わが君とて、わたくしの体に姉上茶々の体を重ねて、よろこんでいたでしょうに」

「な……」

 なぜそれを、と秀忠は絶句した。

 しかし、その絶句こそが、何よりの証となっていることに、思い至らなかった。

 もしこの場に家康がいたら、だからお前は駄目なのだと、また繰り言を言うことだろう。

「……ま、それでもかまいません。かまいませんが、代わりに、わたくしの願いをひとつ、かなえてもらいましょうか」

 江は悪戯っぽく、指を一本、立てた。

「大坂を、ほろぼしてくださいませ」

「な、それは」

「厭とは言わせませぬ……何なら代わりに、幸松丸と言いましたか、あの子を殺して差し上げても、よろしいのですよ?」

 夜叉だ。

 夜叉がいる。

 幸松丸とは、数年前に抱いた女に産ませた、庶子だ。

 だがそのことは、土井利勝か井上正就らの側近しか知らぬこと。

 なぜそれを。

「ほほ……わたくしとて、御台所みだいどころですのよ? 知ろうと思えば、侍女や下女の些細なことも知れる……そこから、その女に色目を使ったり、手を出したりした男のことも」

 利勝や正就は良くても、その家来や中間たちはどうか。

 そこから、知られても、見てもわからぬだろうと思ったことを、そのまま女に──江に伝えたら、どうか。

「く……」

 恐るべき女だ。

 やはり血は争えぬ。

 覇王・信長の係累の血を引き継ぐ、この目の前の女は、端倪たんげいすべからざる女だった。

「許してあげます」

 女が言う。

 今思えば、幕臣なり老中なりが来なかったわけは、この女のせいか。

 この女がいつの間にか、幕閣を縛り、あるいはおのずと来ないように操ったのか。

「さあ、お征きなさい。わが君のいない間は、このわたくしが、ゆえ」

 何なんだこの女は。

 支配しているのはこの秀忠おれだ。

 お前ではない。

 そう叫ぼうと思ったが、うっかり油断すると、この女、家康に告げ口するやもしれぬ。

「……しゅ、出陣じゃ! 誰かある! 馬引けい!」

 秀忠は、江のねっとりとした視線を振り切るように、立ち上がり、足早に出ていった。

 逃げるように。

 その背を黙って見つめていた江は、やがてぼそりと、

「小さい男」

 とつぶやき、そして憫笑した。

 そしてその手には、豊臣完子さだこの手になる、豊臣家への温情を求める歎願状が握られていたが、江はその書状を握りつぶして、近くにあった火鉢へと放り込んだ。

「……これで姉上は死んだ。女の一番は、わたくし

 憫笑の次は哄笑し、江は、奥へと戻っていった。



 京。

 九条忠栄ただひでは懊悩していた。

 豊臣秀頼の出生をめぐる秘密を、秀頼自身から聞かされ、そしてそれがために、秀頼が豊臣家を滅亡させようとしていることを知ったからだ。

「乱行など、物の数ではない」

 当初の秀頼の問題行動は、人斬りを望み、乱暴な言動を好むといったものだった。

 だが周囲の対応により、人斬りは死罪の者を斬ることで、乱暴な言動は隠蔽することで凌げた。

「が、それすらもまやかし」

 秀頼の真の狙いは、秀吉の遺したものの破壊。

 それゆえにこそ、乱行で煙に巻いている最中に、方広寺の鐘銘撰文に、細工を施すことができた。

「……結果、見事に徳川は釣られて、大坂の陣、か」

 山崎の戦いや関ヶ原の戦いとちがい、このたびの戦いは、どうしても大坂中心になる。

 乾坤一擲の野戦に挑むとは考えがたく、大坂に「陣」をかまえることになる──というのが、衆目の一致したところだ。

「陣を張るのは徳川……つまりは、徳川のいくさになるということか」

 聞くところによると、家康はすでに駿府から出陣し、もうすぐ、京──二条城に到着する運びだという。

「そして江戸──こちらも秀忠どのがやはり進発しているとのこと」

 完子さだこ御台所みだいどころごうあてに豊臣家への宥免を求める書状を出したが、それもなしのつぶてだった。

 ちなみに完子は、もう秀頼の「出生の秘密」を知っている。その上で、豊臣家を許してもらうよう、ふみを書いた。

「まだ──まだ母上が大坂にりまする。母上ある限りは、わたしは豊臣の子」

 自らが瑞龍院日秀の血筋と茶々ら三姉妹の間で子を作ることができるという「証明」にされて、もう豊臣家とは関わりを持ちたくないだろうに、完子は文を書いた。

「それが報われればよかったのだが」

 どうやら書状は読まれなかったようだ。

 江から「このようなもの、二度と送ることのなきよう」

 と、他人行儀な文面の便たよりが返ってきたきりだから。

 それ以来、完子は塞ぎがちだ。無理もない。

「……この上は、いかに茶々どのと秀頼ぎみの命をお救いするか」

 それが忠栄の願いとなっている。

 秀頼は「いらない」と言うだろうが、あのような心理状態のまま死んでしまうのは不憫だし、何より、忠栄自身が納得いかない。

 それに、秀頼が死ねば、茶々も死ぬだろう。

 秀頼の言ったことが真実であれば、その死は悲劇以外の何物でもない。

秀吉の意のままに子を産み、その子に付き合わされて、死んでいく、か……」

 

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