27 手切れ
片桐且元は「もはやこれまでか」と呟いた。
わざわざ駿府まで、
ところが鍾銘云々の話はもう「家康への呪い」として定まっており、向後、豊臣がいかに譲歩するかが論点となっていた。
こうなると清韓の立場はもう無く、彼はいつの間にか大坂へと戻り――逃げ帰っていた。
治長は治長で、先に家康に呼び出されたあと、「急用ができた」と言って、やはり大坂へと戻っていった。
代わりに駿府に来た治長の母、大蔵卿局は、女ながらも堂々と家康と渡り合い、「ならどう譲歩すれば良いのですか」と、その条件を聞き出した。
その条件は――
一、豊臣秀頼を江戸もしくは駿府に参勤させること。
一、茶々を江戸へ移し、住むこと。
一、豊臣家が大坂から出て、他国へ移ること。
……要は、他の諸大名と同じ条件で、徳川家に服属しろ、ということである。
*
「かくなれば、仕方あるまい」
「そうですね」
且元と大蔵卿局は、豊臣家と徳川家の力関係から、もはやこの条件を受け入れるしか、豊臣家の生きる道はないと確信した。
問題は、ではその生きる道を行くか、行かざるか。
彼らの主である、秀頼と茶々がどう選択するかである。
そのため、且元は秀頼に、大蔵卿局は茶々に説明することにした。
「このような時に、修理はどこへ」
「息子ですか」
それは大蔵卿局にとっても意外だったが、治長は秀頼と面会して何がしかの相談をしたあと、「すぐ戻る」と言って、どこかへと旅立って行ったとのことである。
「……仕方あるまい」
徳川への返事は、早ければ早いほど良い。
治長の戻りを待っているうちに、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
それは大蔵卿局も同様で、彼女も息子のことは待っていられないということには同意した。
「では、急ぎましょう」
もう、うわさとしてだが、徳川の事実上の降伏勧告のことは広まりつつある。秀頼と茶々の耳に入るのは、時間の問題だ。
下手に彼らに激昂される前に、自分たちが、事実として告げなければ。
*
結果は惨憺たるものだった。
まず、理性的と思われていた秀頼が「ふん、望むところではないか。狸めが!」と息巻いた。
一方、怒り狂うと思われた茶々だったが、秀頼の声を聞いて、大蔵卿局を振り切って城主の間に現れた。
彼女は秀頼の抑え役に回ったが、それでも「母上はこの秀頼の撰した鍾銘がばかにされて、悔しくはないのか」と凄まれると、何も言えなくなってしまった。
「い、今の話は、何じゃ」
物陰から様子を窺っていた織田常真(織田信雄、織田信長の次男)が、あまりのことに姿を現す。
それどころか、
「
且元はあまりの事態の急展開についていけず、大蔵卿局に「早く」とうながされて、ようやく自邸へと戻ることができた。
しかしその自邸の隣の織田有楽(織田長益。織田信長の弟)の邸では、兵が集められ、物々しい雰囲気となっていた。
「徳川へ
これは織田有楽ではなく、有楽の子、頼長によるものだったが(頼長は反徳川の急先鋒だった)、且元にとっては衝撃であった。
「徳川へ靡く? 不届者?」
声の主は現実が見えていないのか。
今、徳川は豊臣を凌ぎ、やろうと思えばいつでも滅ぼすことができる。
それが、見せしめのためか、あるいは「
それを、その千載一遇の機を、このような乱痴気で棒に振るとは。
「秀頼
なおも頼長は言い募るが、とうとう有楽が邸に戻ったのか、声は収まった。
だが且元の心は、絶望の一色に染まった。
「ひ、秀頼
若き日から忠節を尽くしてきた、豊臣に。その子に。
討てと言われて、且元は心の均衡を保つことができなかった。
それだけ、且元にとっては、豊臣とその子は、重い存在であった。
「どうするか」
且元が思い悩んでいると、意外な来客があった。
「大野修理だと?」
この折りに、大野修理治長が、ついに大坂へと戻って来た。
……軍勢を連れて。
*
「されば、修理どのはこの且元に大坂を出ていけと」
「有り体に言えば、そうなります」
且元はうなった。
治長は何を考えているかわからないところはあるが、それでも、現実はどうかという分別がつくと思っていた。
それが。
「それならこちらも有り体に申すが、修理、それがしが大坂を出れば、もう……後には戻れぬぞ」
且元と大蔵卿局は、家康から降伏条件を聞き、それを豊臣に伝え、家康に返事をするという役割を帯びている。
つまり、豊臣の臣であると同時に、徳川の使者でもあるわけだ。
それを追い出すということは、徳川の顔に泥を塗るということ。
すなわち、家康に対して喧嘩を売るということだ。
「……それでかまいませぬ」
「かまわんとは、どういうことだ!」
且元は吼えた。
かつての賤ヶ岳の七本槍が吼えた。
その咆哮は獅子吼であり、聞く者すべてを震わせた。
「それがしが太閤殿下に託された豊臣の子を、秀頼
「……それゆえにこそ、豊臣の子、否、秀頼
今度は治長が吼えた。
知らぬ者が聞けば、且元相手に、秀頼の威を借りてと嘲弄しよう。
だが、且元は見た。
治長の目に、真情が宿っているのを。
その真情はほおを伝い流れ落ち、治長の手の甲を濡らした。
「……なぜじゃ」
気づけば且元も泣いていた。
六十近くになるまで豊臣家に尽くした。
それが、豊臣家から去れと言われているのだ。
なぜゆえに。
なにゆえに。
それでも、治長は答えなかった。
そこで且元は気がついた。
それは、もう答えているから、何も言わないのか──と。
「それゆえにこそ、か」
そして「豊臣の子、否、秀頼
「それはもしや……」
「大坂を出なされ、且元どの。それが、御身のためであり、秀頼
長きにわたる奉公、痛み入る。
治長は秀頼に代わって、頭を下げた。
──こうして片桐且元は、大坂から退去していった。
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