24 瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)

 茶室は静まり返っていた。

「……はは」

 その乾いた笑いは、誰のものか。

 九条忠栄ただひでか、豊臣秀頼か、大野治長か。

 いずれにせよ、虚しい、空しい笑いだった。

「…………」

 秀頼は一胴七度をもてあそび、治長は端然とその傍に座し、忠栄は空になった碗を、いつまでも手のひらの上で転がしていた。

「……これは、何としたことじゃ」

 そのつぶやきは、忠栄のものだった。

 今度こそ、忠栄のものだった。

「秀頼ぎみのご乱行、これが露見したら――徳川に知られたら、もう終わりだと思っていた」

 だがそんなことはなかった。

 家康はそれをすでに察知していたが、即、攻めることはなく、むしろ放置し、豊臣家の求心力低下に利用した。

 忠栄と完子さだこはそんなことは知らずに、謎解きに隠蔽に熱中していたのだ。

 徳川家は、そんな不確定なものではなく、きちんと豊臣家にとどめを刺すために自ら動き、方広寺の鍾銘という、動かぬ証拠を押さえていたのだ。

「と、いうか……家康どのは、最初から豊臣をほろぼす気だったのだ……」

 そんなはずはない、という幻想にすがっていた。

 たしかに、徳川家康は豊臣秀吉を憎んでいようが、いくら何でも滅ぼすということは無いと思っていた。

 しかし、そんなことは無かったのだ。

 かつて、豊臣秀吉が織田信長の跡を継いだ時とは、わけがちがうのだ。

 当時はまだ秀吉に外敵がおり、信長の子孫も安土城を失っていた。

 今、家康には外敵が無く、秀頼は大坂城の主だ。

 条件がちがう。

 そこを、はき違えていた。

「それでも一大名として、一公卿としての扱いを期待していたのだが……」

 要は、臣下に降るという選択肢も無いのだ。

「しかし、そこまで豊臣家を忌み嫌っておいでとは……」

「どうでもよかろう」

 秀頼は逆に、さばさばした顔をしていた。

 彼は元々、豊臣家を滅ぼすつもりでいた。

 そのために、方広寺の鍾銘を

 誰の目にも明らかなそれは、豊臣家の死命を制した。

「余は、秀吉に勝った」

 豊臣秀次を父と信じる彼は、秀吉を呼び捨てにした。

「もはや、帰られるがよろしいかと」

 治長は、むしろ親切であると思って、そう言っているように聞こえた。

 忠栄としても、ことここに至った以上、そして真相を究明した上で「この結果」となった以上、京に戻るしかない。

 されど――

「最後に」

 ひとつだけ、知りたいことがあった。

「最後に、教えて下され」

 秀頼はうなずき、治長は厳かに傾聴の姿勢を取った。

「ひ、秀頼ぎみは……その、秀次どののこと、誰に聞かれたのでありましょうや」

 茶々はあり得ない。

 たとえそうだとしても、彼女の誇りが、それを認めることは無いだろうし、ましてや息子だ。

 それを語ることは、人倫として許されない。

「では、誰が」

 秀頼は憐れむような視線を向けた。

義兄上あにうえ、義兄上は、完子さだこ義姉上あねうえを密かに、母上に会わせましたな」

「……そ、そのとおり」

 小野お通の邸での、完子と茶々の邂逅。

 それは江戸のごうによる差し金だったが、それでも、完子と茶々にとっては、実のあるものだった。

 ……そこまで考えて、ふと忠栄は、思い出す。

 そもそも、わざわざ小野お通の邸であったのは、何のためだったのか。

 それは──ではなかったか。

「……まさか」

「そのまさかよ。余と会わずに済ますのであれば、それはむしろ好都合。余は母上と義姉上が会っている間に、『その方』と会っていた……ことの真相、顛末が、余の考えたとおりであったのかを、な」

 何ということだ。

 かたわらに控える、大野治長すらも出し抜いて、そんなことを。

 方広寺の鍾銘といい、この出し抜きといい、やはり秀頼は秀吉の子ではないかと思えたが、それを言うのはいくら何でも酷過ぎてできない。

 そしてそれよりも聞きたいことがある。

「『その方』とは?」

 秀頼がそのような言い方をする相手とは。

 忠栄が首をかしげると、秀頼はにんまりと笑った。

 治長だけでなく、忠栄も出し抜いた。

 その満足感が、本来は悪戯小僧であった秀頼に、笑みを浮かばせたのであろう。

「わからぬか」

「いえ」

 忠栄は首を振った。

 治長にも同様に問うと、彼は「わかりませんでした」と述べた。

「でした、か」

「城の出入りはいずれにしろ、それがしに報告されるので」

「なるほど」

 考えた結果ではないことに満足した秀頼は鷹揚にうなずいた。

 そして。

「……瑞龍院さまじゃ」

「ずっ」

 瑞龍院とは何者か。

 しかし、問うまでもなかった。

 『その方』には、たしか完子が会いに行っていたではないか──ことの起こった、最初のあたりに。

 その時、『その方』は秀頼の乱行のことを聞いて、こう答えていたではないか。

 ──そりゃあ、まぁるで、 治兵衛みてぇな真似ぇしとるようだでや。

 治兵衛とは、豊臣秀次のことである(農民だった頃の名)。

 そう、『その方』とは瑞龍院日秀──俗名を「とも」といい、豊臣秀吉の姉であった。

「余はだから、乱行を始めたのじゃ」

 秀次と同じ乱行を繰り返す。

 そうすることにより、おそらく豊臣家の内々しか知り得ない話として、内々のさらに内部に位置する、今やたったひとりの秀吉のきょうだい──姉のともには、まず間違いなく、耳に留まるであろう。

「次いで、ふみを書いた」

 このあたりの閃きと策戦はよもやと思わせるが、今は言えない。

 秀頼はそんな忠栄の内心の動きなど気づきもせずに、滔々とうとうと述べる。

「余の乱行は、日秀さまのお子に似てませんか、と」

 それから文のやり取りが始まり、ついには会おう、ということになった。

 当初は秀頼が自身で、日秀のいる京に足を運ぶつもりだった。何せ日秀は、齢八十の老婆だ。しかも二年前、長年連れ添った夫に先立たれ、京の嵯峨、村雲の地の瑞龍寺から、滅多に出ることはなくなったという。

「ところがじゃ、余が母上が京、小野お通の邸におもむく機をとらえて行くというと、それには及ばぬと言う──」

 驚くべきことに、日秀はひとりで大坂城にやって来た。

 城の門番も、まさか太閤秀吉のたったひとりの姉に対して、門を閉じることはなかった。

「そして余は会うことができた……聞くことができた……」

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