23 徳川家康
茶室は静まり返っていた。
豊臣秀頼と九条
やがて忠栄は、おのれの為すべきこと――豊臣家を長らえること――を思い出し、意を決して口を開く。
「秀頼
「何じゃ」
「お心のうちは、ようわかりました……わかりましたが、だからといって、あなたさまが死ぬことはないでしょう」
「死、か」
秀頼は何でもないことのようにつぶやいた。
実際、そのような出生と聞いて、生き死になど、何でもないことなのだろう。
だが。
「さよう、死、です。それに、この城には
「どうにもならぬ」
秀頼はそこで、一胴七度を置いた。
放り投げるように置かれたそれは、からんと音を立てた。
「さようなことをおっしゃらずに、
「どうにもならぬと言うておる!」
激昂。
何もかもに関心を失ったかのような秀頼が吠えた。
吠えたあとに、またぐったりとしていたが、忠栄の視線を受け、ならばと語り出す。
「……徳川は兵を出すそうじゃ」
「そ、それは」
ほんとうのことなのかと言いながら、忠栄は腰を浮かしかけたが、秀頼がそれを手で制した。
「
「は」
茶室の
その男――大野修理治長は、かつては秀頼の父と噂されていた男だが、今こうして秀頼の話を聞いてしまうと、それも何とも皮肉な話だった。
「忠栄卿」
修理は古式ゆかしく一礼して、忠栄に向かって口を開いた。
「それがし、駿府にて徳川家康公に拝謁かないまして、話をしてきました」
例の方広寺鍾銘事件で、治長は片桐且元、文英清韓に付き従って、駿府に行っていた。
そして、途中の宿場、鞠子で清韓だけが先に家康に召喚されたあと、おもむろに家康から呼び出されたという。
*
駿府城。
城主の間。
その豪奢な造りの空間の中、ひとりの老人が座っていた。
時折震えているのは、怒りなのか、
「よう来た」
老人――徳川家康はそう言って治長をねぎらった。
「さっそくだが、秀頼
「……何なりと」
さんざん方広寺の鍾銘だの、文英清韓だけを先に連れて行っての、この話題である。
治長としては、海道一の弓取りの異名を持つこの老人に、奇襲を食らった気分ではあるが、だからといって、おさおさ油断するつもりはない。
「かまえずともよい」
家康は
許したというより命じたに近いが、それでも治長は礼儀正しく、膝立ちでにじり寄った。
「なかなか立派な所作だ。礼にかなっておる」
「恐れ入ります」
「……今の秀頼
「……どういう意味で?」
「言葉どおりの意味だ」
家康がにらんだ。
治長は思わず、頭を下げた。
目を合わせていられない。
それだけの、
白髪、皺だらけの顔の目から発せられているとは思えないほどの。
「……お戯れを」
「戯れではない」
聞いておるぞ、秀頼
「な……」
「何故それを、か。ありきたりだな。これが
聞いたこちらが驚くような返しがあった。
だが今の豊臣家にはそれが無い。
「まあ、よい。種明かしだが……千姫の侍女だ」
千姫は秀頼の乱行を憂慮し隠す側だった。
が、その侍女たちまで、そうとは限らなかったらしい。
「だけではないぞ、大坂の城にいる、誰も彼もが言いに来ている」
出入りしている商人もだ、と言われて治長は頭を抱えた。
これでは、京の九条忠栄など、秀頼の乱行を隠そう止めようとしている者たちの努力は、何だったのか。
やはり防諜について、もっと検討する必要がある。
そういうのに
「お互い様ではないか」
家康は
「この小袖」
「は」
言われてみると、随分派手な小袖である。
質素で鳴らしている家康らしくない。
「
「…………」
家康は実はこういう小袖を好んでおり、「板坂卜斉覚書」に、「日本衣装結構なことは家康に始まる」と記されているほどである。
「……ま、このことで豊臣を攻めようとは思わん」
家康はつまらなそうに懐中から扇を取り出し、ぱたぱたとさせた。
治長は恐れ入った
「攻めようとは、ですか」
「……ほ、さすがに
家康は笑った。
歯を
「……余に注進する輩が、余にだけそれをもたらすと思うてか?」
「……まさか」
「さよう。この国の大名小名たち、みんな、みんな、それを知りたがっておる」
徳川でなくとも、高値を付けて、「それ」を買っていよう。
そして彼らもまた注進に及ぶのだ。
耳寄りな話があります、と言って。
「修理よ」
家康は扇を振りながら――舞いを舞うようにしながら、治長に問うた。
「
「……この国の大名小名たち、それらの離反。あるいは、心離れ」
「そうじゃ」
老人は満足そうにうなずき、立ち上がった。
「……さすがの徳川も、まさか秀頼
治長の肩をぽんぽんと叩く。
それがいかなる意味か。
慰労か、あるいは軽侮か。
それとも両方か。
「されどさようなうつけであるということで、どれだけの者が豊臣家から離れていったのかのう……」
「…………」
家康は狡猾だった。
秀頼の乱行を知るや、それを捨て置いた。秀忠が秀頼の乱行に無関心で、それどころか茶々の情報を集めるのに腐心できたのも、これが理由だ。
そして捨て置いた乱行の話が、諸国の大名の「豊臣離れ」を招くのを、
「頃はよし」
家康は老人離れした機敏な動作でくるりと回転し、自席へ――上座へと戻った。
「わしは豊臣を
それは、宣言というよりも、単なる事実確認のように発せられた。
そう、季節が春から夏になるとでもいいたげな、そんな感じだった。
そして。
「これで……これで豊臣の子を、否、あの忌まわしき
家康は初めて己の感情をその顔に
それは、憎悪。
それは、執念。
戦国最大の版図を誇る武士である家康が、たかが下人あがりの秀吉に乗ぜられ、その後塵を拝すことになったことへの、恨みだろうか、呪いだろうか。
とにかく、その凄まじいまでの怨念が、今、この老人を突き動かしていた。
「殺す。殺す。あの豊臣の……
もはや隠そうともしない殺意は、確実に実行できるという手はずがついた、という証なのだろう。
「修理よ、帰るがよい」
家康は脇息にもたれながら、物憂げに言った。
話すことはもうない、ということか。
「察しのとおり。秀頼
それは、わざわざ対峙した治長への礼儀か、豊臣家への宣戦布告か、あるいは強者としての驕りなのか。
いずれにせよ、治長は急ぎ駿府を退去した。
片桐且元や文英清韓を置いておいて。
その後、且元や大蔵卿局が家康に対して働きかけをするが、治長は一顧だにしなかった。
「片桐どのや母上(大蔵卿局)のやることは、滅びへの時を多少稼いでいるに過ぎない」
だがそれすらも利用して、徳川相手の大いくさへのしたくに、治長は邁進することになる。
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