23 徳川家康

 茶室は静まり返っていた。

 豊臣秀頼と九条忠栄ただひで、義理の弟と兄は、黙りこくっていた。

 やがて忠栄は、おのれの為すべきこと――豊臣家を長らえること――を思い出し、意を決して口を開く。

「秀頼ぎみ

「何じゃ」

「お心のうちは、ようわかりました……わかりましたが、だからといって、あなたさまが死ぬことはないでしょう」

「死、か」

 秀頼は何でもないことのようにつぶやいた。

 実際、そのような出生と聞いて、生き死になど、何でもないことなのだろう。

 だが。

「さよう、死、です。それに、この城には母御前ははごぜを始めとして、大勢の人間がいる。そういう城――家を滅びの運命から守るためにも、乱行をやめ、方広寺の鍾銘も……」

「どうにもならぬ」

 秀頼はそこで、一胴七度を置いた。

 放り投げるように置かれたそれは、からんと音を立てた。

「さようなことをおっしゃらずに、完子さだこも、豊臣の家を……」

「どうにもならぬと言うておる!」

 激昂。

 何もかもに関心を失ったかのような秀頼が吠えた。

 吠えたあとに、またぐったりとしていたが、忠栄の視線を受け、ならばと語り出す。

「……徳川は兵を出すそうじゃ」

「そ、それは」

 ほんとうのことなのかと言いながら、忠栄は腰を浮かしかけたが、秀頼がそれを手で制した。

修理しゅり、入ってくれ」

「は」

 茶室のにじり口が開いて、白皙の無表情の男が入って来る。

 その男――大野修理治長は、かつては秀頼の父と噂されていた男だが、今こうして秀頼の話を聞いてしまうと、それも何とも皮肉な話だった。

「忠栄卿」

 修理は古式ゆかしく一礼して、忠栄に向かって口を開いた。

「それがし、駿府にて徳川家康公に拝謁かないまして、話をしてきました」

 例の方広寺鍾銘事件で、治長は片桐且元、文英清韓に付き従って、駿府に行っていた。

 そして、途中の宿場、鞠子で清韓だけが先に家康に召喚されたあと、おもむろに家康から呼び出されたという。



 駿府城。

 城主の間。

 その豪奢な造りの空間の中、ひとりの老人が座っていた。

 時折震えているのは、怒りなのか、年齢としのせいか。

「よう来た」

 老人――徳川家康はそう言って治長をねぎらった。

「さっそくだが、秀頼ぎみについて、聞きたい」

「……何なりと」

 さんざん方広寺の鍾銘だの、文英清韓だけを先に連れて行っての、この話題である。

 治長としては、海道一の弓取りの異名を持つこの老人に、奇襲を食らった気分ではあるが、だからといって、おさおさ油断するつもりはない。

「かまえずともよい」

 家康はちこう寄れちこう寄れと、治長に接近を許した。

 許したというより命じたに近いが、それでも治長は礼儀正しく、膝立ちでにじり寄った。

「なかなか立派な所作だ。礼にかなっておる」

「恐れ入ります」

「……今の秀頼ぎみに、それはできるかな」

「……どういう意味で?」

「言葉どおりの意味だ」

 家康がにらんだ。

 治長は思わず、頭を下げた。

 目を合わせていられない。

 それだけの、つよい視線だ。

 白髪、皺だらけの顔の目から発せられているとは思えないほどの。

「……お戯れを」

「戯れではない」

 聞いておるぞ、秀頼ぎみの乱行を――と、家康は治長の度肝を抜いた。

「な……」

「何故それを、か。ありきたりだな。これが秀吉サルめなら、もっと、ちがった」

 聞いたこちらが驚くようながあった。

 だが今の豊臣家にはそれが無い。

「まあ、よい。種明かしだが……千姫の侍女だ」

 千姫は秀頼の乱行を憂慮し隠す側だった。

 が、その侍女たちまで、そうとは限らなかったらしい。

「だけではないぞ、大坂の城にいる、誰も彼もが言いに来ている」

 出入りしている商人もだ、と言われて治長は頭を抱えた。

 これでは、京の九条忠栄など、秀頼の乱行を隠そう止めようとしている者たちの努力は、何だったのか。

 やはり防諜について、もっと検討する必要がある。

 そういうのにけた者を城に入れなければ。

「お互い様ではないか」

 家康はして興奮した様子もなく、冷めた感じで、着ている小袖を指した。

「この小袖」

「は」

 言われてみると、随分派手な小袖である。

 質素で鳴らしている家康らしくない。

大蔵卿局そなたの母君からの贈り物よ。随分……余の好みを把握しているようじゃな」

「…………」

 家康は実はこういう小袖を好んでおり、「板坂卜斉覚書」に、「日本衣装結構なことは家康に始まる」と記されているほどである。

「……ま、このことで豊臣を攻めようとは思わん」

 家康はつまらなそうに懐中から扇を取り出し、ぱたぱたとさせた。

 治長は恐れ入ったていで平伏していたが、やがて顔を上げた。

「攻めようとは、ですか」

「……ほ、さすがにさといの。面白い」

 家康は笑った。

 歯をいてみせるその様は、さながら肉食獣だった。

「……余に注進する輩が、余にだけそれをもたらすと思うてか?」

「……まさか」

「さよう。この国の大名小名たち、みんな、みんな、それを知りたがっておる」

 徳川でなくとも、高値を付けて、「それ」を買っていよう。

 そして彼らもまた注進に及ぶのだ。

 耳寄りな話があります、と言って。

「修理よ」

 家康は扇を振りながら――舞いを舞うようにしながら、治長に問うた。

はいかなることになると思う?」

「……この国の大名小名たち、それらの離反。あるいは、心離れ」

「そうじゃ」

 老人は満足そうにうなずき、立ち上がった。

「……さすがの徳川も、まさか秀頼ぎみというだけで、兵を挙げるわけにもいかぬわ」

 治長の肩をぽんぽんと叩く。

 それがいかなる意味か。

 慰労か、あるいは軽侮か。

 それとも両方か。

「されどさようなであるということで、どれだけの者が豊臣家から離れていったのかのう……」

「…………」

 家康は狡猾だった。

 秀頼の乱行を知るや、それを捨て置いた。秀忠が秀頼の乱行に無関心で、それどころか茶々の情報を集めるのに腐心できたのも、これが理由だ。

 そして捨て置いた乱行の話が、諸国の大名の「豊臣離れ」を招くのを、じっと見ていた。

「頃はよし」

 家康は老人離れした機敏な動作でくるりと回転し、自席へ――上座へと戻った。

「わしは豊臣をほろぼす」

 それは、宣言というよりも、単なる事実確認のように発せられた。

 そう、季節が春から夏になるとでもいいたげな、そんな感じだった。

 そして。

「これで……これで豊臣の子を、否、あの忌まわしき秀吉サルめの血を、断つことができるわい」

 家康は初めて己の感情をその顔にのぼせた。

 それは、憎悪。

 それは、執念。

 戦国最大の版図を誇る武士である家康が、たかが下人あがりの秀吉に乗ぜられ、その後塵を拝すことになったことへの、恨みだろうか、呪いだろうか。

 とにかく、その凄まじいまでの怨念が、今、この老人を突き動かしていた。

「殺す。殺す。あの豊臣の……秀吉サルめの子は、かならず殺してやる」

 もはや隠そうともしない殺意は、確実に実行できるという手はずがついた、という証なのだろう。

「修理よ、帰るがよい」

 家康は脇息にもたれながら、物憂げに言った。

 話すことはもうない、ということか。

「察しのとおり。秀頼ぎみは身から出た錆で、恩顧の大名からもそっぽを向かれた……だから、『頃はよし』と言ったのだ」

 それは、わざわざ対峙した治長への礼儀か、豊臣家への宣戦布告か、あるいは強者としての驕りなのか。

 いずれにせよ、治長は急ぎ駿府を退去した。

 片桐且元や文英清韓を置いておいて。

 その後、且元や大蔵卿局が家康に対して働きかけをするが、治長は一顧だにしなかった。

「片桐どのや母上(大蔵卿局)のやることは、滅びへの時を多少稼いでいるに過ぎない」

 だがそれすらも利用して、徳川相手の大いくさへのしたくに、治長は邁進することになる。

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