21 豊臣秀次

 豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉のとも(瑞龍院日秀)と、弥助という農民の子である。

 それが、叔父の秀吉の立身出世にともない、武家へ、公家へ、関白へとその身を押し上げられ、「豊臣の子」となった、数奇な男である。


「おれが、天下人の後継ぎに?」

 その思いが、まず頭に浮かんでくる。

 最初は、子のない秀吉にとっての、ていのいい人質の材料として使われていた。

 しかし気がつくと秀吉は本能寺の変後の動乱を制し、天下人になっていた。

「おみゃあが頼りだで」

 秀吉はその人たらしの術を遺憾なく発揮し、あっという間に秀次を「天下人の後継ぎ」としての立ち位置に持って行った。

 ……そうこうするうちに、秀吉の愛妾・茶々が子どもを産んだ。

「では、後継ぎはその子で」

 秀次は秀吉にそう申し出たが、秀吉は手を振った。

「いや、いや。この子は病弱じゃ。そなたの後見が必要じゃで」

 すてというその子は、病弱だった。

 戦国最大のリアリストである秀吉は、そのような不安定な「後継ぎ」など、争乱のもとだと判じた。

 それゆえにこそ、秀次を「お役御免」にすることなく、むしろ豊臣家を支えて欲しいと願ったのだ。

 ……表向きは。



 そして棄は死に、「天下人の後継ぎ」の座は、秀次に戻った。

「小一郎(豊臣秀長、秀吉の弟)も死んだ。もはや……もはや、しか、あるまいて」

 秀吉の長年の補佐役であり抑え役であった、秀長。

 彼が亡くなったことにより、秀吉は誰にも言わずに「策」の実行を決断する。

 その日──何でもない日であったが、「朝鮮より、滋養強壮に良いとされる、虎の骨が送られてきた」と言って、秀吉は秀次を大坂城に誘った。

 この頃には秀次も、秀吉の後を継ぐのは自分しかいないという自覚もあり、鷹揚にその誘いに応じ、秀吉とその愛妾・茶々と共に、虎の骨が煎じられる様子を見て、そののち、三人でそれを食することにした。

「関白どのは子沢山ゆえ、今さら要らぬが、の」

 と秀吉は頭を掻くふりをしておどけた。

 茶々は愛想笑いを浮かべた。

 それを見て秀次も、つい、笑ってしまった。

 あとで思えば不敬の極みだが、今や豊臣の子として家を継ぐのは秀次のみ。

 その秀次が子沢山というのは、よみすべきこととして、肯定的に捉えた。

「ほ。それではいただこうかの」

 まず秀吉が真っ先にそれを口に入れ、殿下はしかたありませんねと茶々も食する。

 残る秀次も、最近、喘息の発作もあることだし、体に良いものならと、思い切り、飲み込んだ。



  ……夢を見ていた。


 その女はしとねにいた。

 その女を、自分が組み敷いている姿が見えた。

 姿が見えた、などという他人ごとのような言葉は、自分が自分でないような感覚の中で、そう、夢の中に揺蕩たゆたうようにしている自分を感じる。

 そういえば、組み敷いている女は当然の如く裸で、その艶かしい体をびくびくとさせて、震えている。

 それは、自分がこの女の中で動いているからか。

 動いているらしいが、先ほどより自覚がまるでない。

 これは、本当におのれの体なのか。

 そのうち、女がその腕をどけて、顔を見せた。

 美女だ。

 これ以上ないほどの。

 そう、自分はこの美女を知っている。

 たしか、この国最高の美女だ。

 母親もまた傾国傾城の美女として知られる。

 そう……母親の兄はたしかこの国の覇者だった。

 ただしその覇者は道半ばにして倒れ、は……。

「うっ」

 吐き気がする。

 怖気おぞけがする。

 寒気がする。

 そうだ。

 自分は何てことを。

 そう……何てことを。

 のこの国の覇王の、その寵愛を受けた美姫を抱くとは。

「な、何てことを」

 思わず口をついて出た。

 このことがばれたら、極刑に処される。

 いや、自分だけではない。

 妻妾、子女までもその罪は及ぶだろう。

 そんなことはわかっている。

 わかっているが、この女を抱くのを、組み敷くのを、突き伏せてその中におのれを放つのを止められない。

 それに、この女の所作は何だ。

 まるで、おのれをその中にいざなうがごとく、招き入れるがごとく、蠢いている。

 これでは、この女から誘惑されているようではないか。

 しかし、それはちがう。

 ちがうのだ。

 なぜなら。

「……泣いているのか」

 口をついて出た言葉に、女はうなずく。

 本意ではない、肉欲によるものではない、そういっているような、うなずきだった。

 ではなぜ。

 ──暗転。

 「ようやった」という声が響いた。

 何をやったのか。ようやったのか。

 喘ぐように動く口から、つい、女の名が漏れた。

「茶々……さま……」

 茶々。

 あるいは淀殿。

 その母は市──織田信長の妹である。

 つまりはこの国の覇者、豊臣秀吉に寵愛された、美姫であった。


 ……夢を見ていた。

 ……夢を。



 秀次が気がついた時には、彼はすでに自邸──聚楽第じゅらくだいにいた。

 大坂の城から、京の邸までどうやって……という思いはあったものの、あれはもしかして夢だったのかもしれないという安易な考えに飛びつき、そして夢のままでいてくれるようにと、いつも通りの日常を過ごそうとした。

 それでも、秀吉のことを意識的に避けて、なるべく京の聚楽第にいるようにして、秀吉と会うことを避けた。

 同席しなければならないことも、「喘息の発作が」と言って逃げた。

 そうこうするうちに、ひと月が過ぎ、ふた月が去り……。



「太閤殿下のお召しにござりまする」

 ある日、秀吉の馬廻衆の大野治長がやって来て、無表情にそう告げた。

 秀次は、この一歳歳下の男の取り澄ました白皙の顔が好きではなかった。

 だが、こうして主命で来ている以上、邪険にもできず、「すぐ参る」と愛想よく返事をして、追い返すのがせいぜいだった。

「……ふう」

 大丈夫だ。

 秀次は自分にそう言い聞かせた。

 あれから、叔父秀吉からは何も言って来ない。

 あの夢がほんとうだとしたら、あの叔父のこと、怒り狂って自分を成敗しに来るに相違ない。

「とにかく、急ぎ伺候しこうせねば」

 そして秀次が大坂の城に着くと、秀吉自ら迎えに出て来た。

「実はの」

 秀吉は天守閣で機嫌よく振る舞い、秀次の手を取って、こう告げた。

「茶々が、懐妊した」

 秀吉は満面の笑みだった。

 ただし、その目は、笑っていなかった。

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